礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金日成の部隊から銃撃を受け九死に一生を得た(瀬島龍三)

2020-04-27 02:18:27 | コラムと名言

◎金日成の部隊から銃撃を受け九死に一生を得た(瀬島龍三)

 瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
 本日、紹介するのは、第一章「幼少期から陸大卒業まで【明治四十四年~昭和十五年】」の第三節「結婚~満州出動~陸大受験」中の「原隊の出征」の項、および「二・二六事件」の項である(四九~五二ページ)。

 原隊の出征
 昭和十年〔一九三五〕一月二十四日の婚約、二月八日の母の死と続いたが、三カ月後の五月になって、私の歩兵第三十五連隊が所属する第九師団(司令部は金沢)に渡満の命令が出た。私は第一機関銃中隊長として出征する内命を受けた。
 そこで、瀬島・松尾両家で急遽協議が行われ、出征前に正式の結婚式を挙げることに決まった。清子は福井、私は富山、それでは真ん中の金沢でということになり、六月六日、前田藩の祖廟である尾山神社で挙式した。披露宴は金沢でも古く格式のある「鍔甚〈ツバジン〉」という料亭で、こぢんまりとやった。仲人は歩兵第三十五連隊の大先輩で、松尾と縁のある静川中佐夫妻。私は二十四歳、妻は十九歳だった。
数年前、満五十年の金婚の年、妻と金沢に旅行して尾山神社に参詣したが、五十年前の挙式の記録がちゃんと社務所に残されていた。しみじみと往時を回顧して、私の、また妻の亡き父母を思い、感慨無量だった。
 将校の結婚は、前に触れた通り陸軍大臣の許可を必要とした。まず、結婚前に連隊長に「結婚願い」の書類を提出し、師団経由で陸軍大臣宛に送付される。その内容は「今般、別紙の者と結婚致し度〈タク〉、許可相成り度候也」。別紙には相手の戸籍謄本などを添付する。おそらく、陸軍省人事局に書類が届けられると、今度は憲兵隊が身元調査を行い、その結果 がOKであれば陸軍大臣から師団長、連隊長へと「願いの通り許可する」の通知が来るという手続きになっていた。ここで初めて正式に結婚できるわけである。
 十年六月二十六日、私は新妻を残して駐屯地を出発し、宇品〈ウジナ〉から乗船、渡満した。第九師団(師団長・山岡重厚中将)の渡満は、第二師団の後を受けて満洲の治安を維持するのが目的で、師団の主力は南満の遼陽に駐屯した。
 機関銃中隊の任務は、満洲東部、東辺道地区の治安確立のための匪賊討伐。白頭山系の大密林地帯で、道なき道を毎日匪賊を追っての討伐作戦であった。この間、幾度か銃撃戦を交えた。のちに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国家主席となる金日成の部隊から銃撃を受け、九死に一生を得たこともあった(もっとも、当時、金日成の名を名乗る匪賊部隊は複数いた。本物かどうかはわからない)。翌十一年〔一九三六〕五月ころまでの一年余りの期間だったが、振り返ってみると、私の軍人生活を通じて唯一の前線指揮官の体験だった。
 十三年〔一九三八〕に陸軍大学校を卒業してから、師団及び軍の参謀、大本営陸軍参謀へと参謀の道を終戦までの六年八力月間歩いたが、この前線指揮官体験は大変意義あるものだった。

 二・二六事件
 二・二六事件は、渡満して八カ月後に起きた。師団司令部から事件の発生を知らされたが、当初は概要のみでよくわからなかった。何か起きそうな時代の空気はあったが、遠い満洲にいたこともあり、ただびっくりするばかりだった。しばらくたって、松尾の父〔傳蔵〕が岡田〔啓介〕総理の身代わりのような状況で反乱部隊に殺害されたという情報が届き、一層のショックを受けた。電報によれば、妻は福井から岡田の実妹に当たる母とともに急ぎ上京したようである。外地にいる軍人としては、ただ父の面影を偲び冥福を祈るのみだった。それにしても清子か不憫だった。
【一行アキ】
《清子夫人の話「二・二六事件のときは、福井市の実家に母(稔穂)といました。事件の知らせを聞いて、二十六日夜、二人で夜行列車に乗って福井を発ち、二十七日朝に東京に着きました。父が岡田の秘書官名儀で地元との連絡に当たっているはずの官邸にも入れず、事情もわからないまま迎えた二十八日夕、伯父、岡田の遺体が自宅に戻ると連絡がありました。しばらくすると、迫水〔久常〕が自転車でやってきて、お棺を置いた奥の四畳半を閉め切り、「親族だけ入っていただきたい』と言うのです。そして『岡田ではなく、松尾のおじさんです』と。ハッと息をのむ声が聞こえ、サーッと血の気が引くのがわかりました。父の遺体は、東京で荼毘〈ダビ〉にふして、福井で葬式をしました。
後で聞いたところによると、反乱軍将校たちは「天皇陛下万歳」と言って亡くなった父、松尾を見て、『立派な死に方だ、岡田さんに間違いない』と思ったようです。二人には血のつながりはありませんが、ヒゲ、白髪の軍人的容貌や、年格好が共通していて、知らない人にはそう区別はつかなかったでしょう。
 父は、福井では今でいうボランティアのはしりのような活動をしていました。在郷軍人会の会長をしていて、福井市にある旭小学校の教育委員長のような職にも就いていました。正月には、おモチを買えない人のところに持っていったり、病人に医者を紹介したり、一生懸命地域の人々のために働いていました。今でも、旭小には銅像が立っています」》
【一行アキ】
 後でわかったことだが、反乱軍将校の中には松尾、迫水の遠縁に当たる青年将校もいた。また、当時、北支・山海関の守備隊に勤務していた義兄〔松尾傳蔵の長男〕、新一の 出身部隊は、反乱軍将校の中心である歩兵第三連隊だった。
 二・二六事件は、天皇の軍隊には、もとより許されることではない。ことに、純粋な私の同期生や青年将校を自分の思想や思惑のため扇動、誘導した一部の人々に対し、限りない憤激を感じた。
 余談になるが、昭和六十一年〔一九八六〕は二・二六事件から満五十年目に当たった。妻や義兄の新一夫婦は、一度も首相官邸の父が倒れた場所を見ていなかったが、満五十年目の二月二十六日、中曽根〔康弘〕総理夫妻は私たち遺族を官邸に招待し、祭壇を設けて、お参りをさせてくれた。岡田啓介の二男、貞寛も同席した。新一は最後まで二・二六事件について苦悩し、かつ残念に思っていたようだが、その翌六十二年〔一九八七〕に亡くなった。八十三歳だった。

 明日は、少し話題を変える。

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