礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝日新聞記者・中野五郎が捉えた二・二六事件

2020-04-29 01:15:54 | コラムと名言

◎朝日新聞記者・中野五郎が捉えた二・二六事件

 本日からしばらく、中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、二・二六事件関係の記述を紹介してみたい。
 第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」のうち、「十七」以下を紹介する予定である。本日、紹介するのは「十七」の全文。

      十七
 さて、二・二六事件が昭和動乱のクライマックスであるならば、それより五年前の奇怪な三月事件と十月事件は、まさに二・二六事件の導火線ともいえるだろう。
 この軍部中心の二つのクーデター陰謀事件は、戦後の今日でこそ、一般に知れわたってはいるが、昭和六年〔一九三一〕の事件当時はもちろんのこと、戦前も戦中も長年の間、終始一貫して厳秘に付せられていた。
 なぜならば、それは上〈カミ〉は軍閥を牛耳【ぎゆうじ】る老将軍たちから、下〈シモ〉は陸大出のいわゆる天保銭【てんぽうせん】組(陸大卒業の楕円形の記章が天保年代に徳川幕府の作った銅銭に似ていることに由来す)の秀才少壮幕僚(佐官級)まで参加して、武力発動により政党政府を打倒し、戒厳令下に軍部政権を樹立して、いわゆる「天皇親政」の実現を企てたものであったから、その後の非常時色の時代相と世論の高揚の手前、軍部としてもはなはだ都合が悪く、面目上より、闇から闇へと葬り去って、「そんなことは軍を誹謗するデマだ」と空トボけて頬被【ほおかむ】りしていたからだ。
 当時は早耳の新聞社情報通でさえ、事件については、いわゆる怪文書によって推察するほかはなかった。
 それが日本国民の前に正々堂々と公表され、はじめて自由に事件の真相を討議されるようになったのは、敗戦後の昭和二十一年〔一九四六〕四月より二年有半、世界注目の中に、東京で開廷された極東国際軍事裁判の法廷であった。そしてこの東京裁判の判決(昭和二十三年〔一九四八〕十一月)によって、三月事件の正体はつぎのように明らかにされ、これまで久しくツンボ棧敷におかれていた天皇はじめ、 国民大衆を驚かせたものであった。
 その後、旧軍人の手記などで三月事件も十月事件もいろいろと論議されたが、いずれも自己弁護か、あるいは派閥の相手方を非難する偏狭な言辞がめだち、この東京裁判の判決文の冷静、かつ客観的な批判にとうていおよぶものではない。今日では、この判決文も入手困難であるから、 読者諸君の参考のためにつぎに原文を引用、紹介しよう。
「一九三一年(昭和六年)三月二十日を期して、軍事的クーデターを起こす計画が立てられた。この事件が、後に『三月事件』として知られるようになったものである。参謀本部による絶え間ない煽動と宣伝の流布【るふ】とは、その効果を挙げた。当時、軍事参議官であった岡田啓介男爵(海軍大将、元首相)が証言したように、陸軍が満州の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであった」
「陸軍が満州に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられた。当時は浜口内閣が政権を握っていた。そして、総理大臣(浜口雄幸)の暗殺未遂事件(昭和五年〔一九三〇〕十一月十四日、犯人は佐郷屋留雄)のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原〔喜重郎〕が総理大臣代理をしていた」
「橋本(A級戦飯、橋本欣五郎陸軍大佐、終身禁錮刑)の計画は、参謀次長であった二宮(二宮治重中将)と参謀本部第二部長であった建川(建川美次少将)とをふくめて、参謀本部の上官の承認をえたものであるが、それは議会に対する不満の意を表わす示威運動を始めることであった。この示威運動の中に警察と衝突が起こり、それが拡大して陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗っ取ることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた」
「小磯(当時、陸軍省軍務局長小磯国昭少将、のちに陸軍大将、戦時中に首相)、二宮、建川およびその他の者は、陸軍大臣宇垣(宇垣一成大将)を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、彼らの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもって辞去した」
「大川博士 (A級戦犯、大川周明博士、獄中で精神異状を呈し免訴釈放)は大衆示威運動に着手するよう指示された。小磯がその際に使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川にとどけた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱をまき起こし、暴動のような外見を強くするために使用することになっていた」
「ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣にあてて書簡をおくり、その中で宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前にさしせまったとのべた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとった。彼はただちに小磯と橋本をよび、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内大臣秘書官長であった木戸(A級戦犯木戸幸一元内大臣、終身禁錮刑)は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によって、この陰謀のことを前もって十分に知らされていた」
「この『三月事件』は浜口内閣の倒壊【とうかい】をはやめ、この内閣につづいて一九三三年(昭和八年)四月十四日に若槻〔礼次郎〕内閣が組織されたが、幣原男爵が抱壊していた『友好政策』をとり除くことには成功しなかった。彼が総理大臣若槻の下に、外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になっていた南大将(A級戦犯、南次郎大将、終身禁錮刑)が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また、『三月事件』に参加することをこばんだために、陸軍の支持を失った宇垣大将に代わって、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した」
【一行アキ】
 要するに、この三月事件は軍部の枢要部が中心となり、軍部独裁をめざすクーデターを企てたもので、その関係者のリストをみると、当時の軍事課長永田鉄山大佐(のちに陸軍中将、昭和十年〔一九三五〕に軍務局長に在任中、相沢三郎中佐に暗殺さる)のごとき志操堅実の統制派の智謀まで参加していたことは注目される。けっきょく、彼らは、政党政治の腐敗を口実に武力を使用して政府を倒し、天皇制軍事国家を建設しようと策動したのだ。
 しかし、一味にかつがれた当時の宇垣陸相自身が、にわかに変心して計画を裏切ったのか、それとも誠心誠意で反乱を未然に防止したのか、この点を戦後にも、明らかにせず他界してしまった。あるいは悲運の老将軍の心中に、なにか暗い影が秘められていたせいかもしれない。
【一行アキ】
 すると、同じ年〔一九三一〕の十月に、またもや軍部中心のクーデター(十月事件)が計画されたが未遂に終わった。その主謀者は、三月事件の中心が、参謀本部の将軍級であったのに反して、佐官級のいわゆる幕僚ファッショ連中であり、その指導分子は、参謀本部支那課長重藤千秋〈シゲトウ・チアキ〉大佐、同ロシア班長橋本欣五郎中佐(当時)、北支軍参謀長勇〈チョウ・イサム〉大尉といった顔ぶれで、皇道派の重鎮、荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、陸相、文相を兼任す、A級戦犯、終身禁錮刑)をかついで、軍事革命政権の首班にしていた。
 これについて、東京裁判の判決文は、つぎの通り鋭く論断している。
「(日本政府が満州事変について)国際連盟とアメリカ合衆国に与えたこれらの誓約(「日本政府が満州においてなんらの領土的意図をも抱くものでないことは、あえてくり返す必要がないであろう」)は、内閣(第二次若槻内閣、幣原外相)と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかったということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起こした。これは政府を転覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満州の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちと、その共鳴者との企てであった。この陰謀は桜会(急進派の橋本欣五郎中佐を中心に昭和五年〔一九三〇〕九月に結成された国家改造をめざす革新将校一味の団体)を中心としていた。その計画は政府首脳者を暗殺することによって、『思想的と政治的の雰囲気を廓清【かくせい】する』ことにあった。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために必要な命令をあたえた」
「橋本は、荒木(当時、陸軍中将)を首班とする政府を樹立するために、一九三一年(昭和六年)十月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸〔幸一〕がこの反乱計画のことをよく知っていた。彼の唯一の心配は、広汎【こうはん】な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあったようである。 しかし、根本(根本博中佐)という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣(南次郎大将)がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの反乱に反対したという理由で、白鳥(元駐伊大使白鳥敏夫、枢軸外交の提唱者、A級戦犯終身禁固刑)は彼を非難し、満州に新政権を立てるために迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認をあたえたならば、『満州問題』の解決を促進したであろうと断言した」
【一行アキ】
 記録によると、橋本中佐一味は同年十月十八日を期して若槻首相、幣原外相、牧野〔伸顕〕内府らの重臣、大官を暗殺した上、軍隊を出動させて政府と議会その他、要所を占領し、戒厳令下に新内閣を樹立する計画であった。そして宮中には東郷〔平八郎〕元帥を参内させて天皇の承認を得る一方、閑院宮〔載仁親王〕と西園寺〔公望〕公には急使を特派して、新興勢力に大命降下を奏上させる工作を企てた。
 彼らはみずからを新興勢力と称して、きわめて権勢欲が強く野心的であり、つぎのとおり新内閣の顔ぶれまで手まわしよく内定していた。(この点は、名利を求めず、昭和維新の捨て石たらんと念願した純忠な二・二六事件の青年将校たちとは、まったく精神も理想もちがっていた)
 首相兼陸相 荒木 貞夫中将
 内務大臣  橋本欣五郎中佐
 外務大臣  建川 美次少将
 大蔵大臣  大川 周明博士
 警視総監  長   勇少佐
 海軍大臣  小林〔省三郎〕少将(中将として 霞ヶ浦に在る海軍航空隊司令)
【一行アキ】
 これをみると、橋本中佐一派の計画したクーデター計画は、まるで日本でトルコやエジプトや中南米諸国なみの軍事革命を起こそうとしたものであり、しかも、一味は財界の一部より多額の軍用金を提供させて、連日連夜、築地の待合「金竜亭(きんりゆうてい)」その他の料亭に居つづけて酒と女にひたり、明治維新の志士を気どって大言壮語していたとつたえられている。
 まことに腐りはてた軍人魂の正体である。こんな邪心と野心と私心をもって国家改造とか昭和維新とかを論じながら、天皇制軍隊を革命の道具に使おうと企てた彼らこそ、じつに昭和日本の墓穴を軍人みずから掘ったものといえよう。

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