礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

よくこんな草深い田舎に来てくれました(瀬島つゑ)

2020-04-26 02:58:46 | コラムと名言

◎よくこんな草深い田舎に来てくれました(瀬島つゑ)

 瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その五回目。昨日の話の続きである。

 延対寺という由緒ある料亭で、見合いをすることになった。出席したのは、父と私、松尾父娘と仲介役の伊賀さんの五人だった。
この初対面の前、私が結婚を決意したとき、兄は「お母さんの言葉で結婚を決意してくれたのは本当にありがたいが、結婚は一生の大事、本当にそれでいいのか」と念を押した。私は何と答えたか、今もはっきり覚えている。「いいです。お母さんの命ある間に決めてください」。
 そこで、兄が伊賀さんに連絡したわけだが、二十二日朝に話が始まり、二十四日朝に対面して婚約というプロセスは、まさに電光石火だった。私の方は既に決心していたが、問題は清子の方である。清子も私と同様、こっちのことをほとんど知らなかっただろうからだ。延対寺では、一応初対面の席が終わり、別室で清子と二人向かい合った。はっきり覚えていないが、清子の後年の話によると私は「お願いがあるのです。母に会ったら〝お母さん〟と呼んであげてほしい」と言ったそうだ。
 これで話はまとまり、事実上の婚約が決まった。その足で、五人は汽車で二十分くらいかけて高岡から石動へ移動し、生家へ向かった。北陸らしい雪深い日だったが、既に村中にこの話が広がっていて、村人たちが朝早くから総出で、駅から私の家までの二㌔ほどの道を、自動車が通れるようにきれいに雪かきをしてくれていた。
 松尾父娘は母に対面、挨拶を交わした。清子は病臥している母に向かって「お母さん」と呼びかけた。母は痩せ細った手で清子の手を握り、「こんな田舎へよく来てくれました。龍三のことはよろしくお願いします」と、途切れ途切れの小さな声で、精一杯の言葉をかけた。清子は見舞いのため持参してきた千疋屋の果物を布で絞って、母にふくませるのだった。家の広間に集まってきていた村のおじいさん、おばあさんや青年団の人たちが、この情景を目を潤ませて見守っていた。
 松尾の父は清子に向かって、「お前はあとに残って看病せよ」ときつく言ったが、父は「とんでもない。これで十分です」と断った。父娘はその日の夜行列車で東京に帰っていった。そのとき、姉が結婚指輪代(カマボコというんだそうだが)を「母からです」と言って清子に渡したという。これは清子の話だ。こうして婚約が成立、私も軍務のため、その二日後には帰京した。
【一行アキ】
《清子夫人の話「瀬島の家は広く、玄関を入ると土間があって、その向こうに板の間があって、さらに一段高くなった広い部屋にお母さんはいらっしゃいました。胸の病気で、声がうまく出せないようでした。それでも振り絞るようにして私に話しかけたのを、付き添いの看護婦さんが通訳してくれました。『一本の電報で、よくこんな草深い田舎に来てくれました』。私はリンゴを絞ってお母さんに一口か二口飲ませたのですが、気づくと、八畳間を四つぶち 抜いた広い部屋は、大勢の村の人たちで埋まっていました」》
【一行アキ】
 さらに十日余りが過ぎた二月八日、母は念仏を唱え、父や皆に別れを告げて安らかに息を引き取った。 五十七歳だった。この約一年後の十一年二月二十六日、今度は清子の父、松尾傳蔵が首相官邸で義兄、岡田啓介首相の身代わりとなって殺され、この世を去った(二・二六事件)。【以下、略】

 文中、「延対寺」とあるのは、宇奈月温泉の「延対寺荘」のことであろう。
 瀬島龍三という人物は、いまだ評価の定まらない人物らしい(ウィキペディア「瀬島龍三」の項などによる)。ただし、この『幾山河』という回想録は、なかなか読ませる。資料としての価値も高いと思う。特に、昨日から本日にかけて紹介した「結婚」の話は、当時の日本人の「家族」意識、当時の村落共同体の様子などがわかって、たいへん興味深い。

*このブログの人気記事 2020・4・26(なぜか8位に「ナチス」)

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