礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

足りる足りないは人々の心による(相馬御風)

2020-04-02 00:02:22 | コラムと名言

◎足りる足りないは人々の心による(相馬御風)

 昨日のコラム「昭和18年暮、東京で起きたタバコ買いだめ」に対し、inaka4848さんから、「続き希望」のボタンをいただいた。そこで本日は、同じく『財政』第九巻第二号(一九四四年二月)から、「なり切る」というエッセイを紹介してみよう。書いているのは、「都の西北」を作詞したことで知られる相馬御風(そうま・ぎょふう)である。

  な り 切 る     相 馬 御 風
 関東大震災には私はすでにその数年前から北国のこの辺土〔糸魚川〕に住みついてゐたから其の難に遭はずに過ぎたが、その代り前代未聞とまで云はれた大雪の冬に逢つたり、又大火災の難に遭つて丸焼の憂き目を見たこともあつたり、ずいぶんいろいろな災厄を凌いで来た。
 しかし、人間つらいとか艱難〈カンナン〉だとか云つてゐられるうちはまだまだ自分を傍観してゐられる無駄のある時で、本当の艱難は艱難となんか感じなくなつて全力を以てぶつかって行く外ないものであることを、過去の経験が私に教へてくれた。
 いかなる不幸や困難でも、想像したり予想したりすると、とかく自分がそれに堪へ得るか否かの不安に駆られるものであるが、いざそれにぶつかつて見ると、人間は案外強いものである。生命のつゞく限り、人間はぶつかるに随つて突破して行くだけの力が授けられてゐるものである。そして突破することが出来なければ倒れるだけのことである。
 私は思ふ。人間を臆病にしたり卑怯にしたりするのは、困難そのものでなくて、困難の予想や妄想から来る不安である。いひかへれば、それは影に怯える心である。つまりそれ はまだ無駄のある心である。
 貧苦といふ言葉があるが、その貧苦といふ言葉と貧乏といふことは必ずしも同一な意味を持つてゐない。貧乏にも無限の階段がある。どの程度の貧乏が真の貧乏かは、その人々の心の持ちやうで違ふ。他人の目で貧しく見える生活でも、それを営んでゐる人の心次第で、その人には他人にはわからない豊かさが味はれてゐるやうな実例はいくらでもある。
 人間の慾には限りがない。物の足りる足りないなども、その人々の心によるのであつて、物の数量だけを以て計ることは出来ない。
 不足を忍べ、貧しさに堪へよ、難儀を凌げ――そんなことを云つてゐられる間は、まだまだ心に無駄があり、隙がある。まだまだそれは予想や妄想からの不安を眼中に置いてゐるからである。
 精神の昂揚々々といつてゐながら、いつしか物に囚はれてはならない。本当に精神力が昂揚されさへすれば、物なんか問題にならない筈である。
 不足に耐へて行きませうとか、出来るだけ節約しませうとかいふやうな消極的な考へ方を乗り越えて、不足をも不足とせず、困難をも困難とせず、明るく生きて行く積極的な生き方こそ真に強い生き方である。
 とにかく、何だかんだとあまりに文句が多過ぎる。文句のなくなつた生き方にして、始めて真剣な生き方といふことが出来る。一心になり切れば、そこにはもう文句なんかあり得ない筈である。
「なり切る」といふことが、何としても最も重要である。日本国民になり切る。つはものになり切る。農人になり切る。すべてこの「なり切る」ことが最高の生き方である。決戦下の国民は、真に決戦下の国民になり切らなければならぬ。なり切りさへすれば何の文句もあり得ない筈である。
 なり切れさへすれば、おのづからそこに廓然として広大な天地が開かれる筈である。何だかんだと心の内部や又外の世界にごたごたしたものの存するのは、すべてなり切らないからである。
 或一つの仕事に従ふにしても、その仕事になり切つてしまへば、不純なものの一切はおのづから拂拭されてしまふ。純一にして而も広く豊かな世界がそこに展開される。本当のおちつきもゆとりも自然に出て来る。充実してゐて而も悠々たる働きが自然になされるやうになる。何の文句もあり得なくなる。【以下、略】

 今日のような「パンデミック」の中で読んでみると、独特の感慨がある。
「いかなる不幸や困難でも、想像したり予想したりすると、とかく自分がそれに堪へ得るか否かの不安に駆られるものであるが、いざそれにぶつかつて見ると、人間は案外強いものである。」という指摘は、わかるような気もする。
 そして、そのあとの、「生命のつゞく限り、人間はぶつかるに随つて突破して行くだけの力が授けられてゐるものである。そして突破することが出来なければ倒れるだけのことである。」というのを読むと、御風が「敗戦」を覚悟していていたようにも取れ、これまた、わかるような気がするのである。
 ただし、「物の足りる足りないなども、その人々の心による」というのは極論である。戦時であろうと平時であろうと、足りないものは、足りない。「人々の心による」わけではない。「戦時」に近い今日、「防護服」や「マスク」、あるいは医療施設等は、現実において足りないのであって、「人々の心による」わけではない。
 ここのところ、インターネット上に、いろいろな意見が飛びかっている。最近、読んだものに、国民の大多数が新コロナ・ウィルスに罹患し、それによって免疫ができれば、自然に流行は治まるだろう、という趣旨のものがあった。
 コロナ・ウィルスに「感染しきる」という考え方である。発想において、相馬御風の「なり切る」という発想に近いものを感じる。
 私は、「感染しきる」、あるいは「なり切る」という考え方を支持しない。しかし、ここで、ふと考える。政府当局や医療関係者の一部には、ひそかに「感染しきる」、「なり切る」のを待つという考え方を持っている人々がいるのではないか、すでに「敗戦」を覚悟していている人々がいるのではないか、と。これが妄想でないことを祈る。

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