◎あなたは実に運の強い人です(牛込の占い師)
山形英語英文学会発行の『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その三回目。「2.鉄道省の四年」を紹介する。
2.鉄道省の四年
数え年二十五のクリスマスの朝、私は鉄道省(当時は鉄道院)に出頭して大臣官房文書課員の辞令を頂いた。かつて北海道鉄道教習所時代の友人の斡旋によるものであった。はじめは統計係、月棒二十五円、そのうち五円を毎月親許へ送った。あとの二十円で生活費、学費万端を支弁することは容易ではなかった。昼食にパンを半斤(三片にきってバタをつけてある)買って中の一片をたべて、あとの二片を正則英語学校の教室で授業のはじまる前に食べることにした。「飢え」ということは同時に睡眠の節約にもなって当時の自分には有効な勉強の鼓舞者ともなった。中野のある農家の部屋を借りて自炊して、通勤の時には一抱えの書物と辞書をたずさえていた。すぐ隣の室は「欧文」で、多年崇拝していた武信由太郎〈タケノブ・ヨシタロウ〉先生が毎日一時間位来られた。私は気が弱いものだから中々お目にかゝりに行くことが出来なかった。私は統計の仕事を身を入れて熱心にやった。いやいやながらやっても、欣然としてやっても、一時間の時間は等しく経過して行く。何でも早く仕事のマスターになること――これをモットーとして励んだ。私は勤勉な事務員としての評判をとった。統計の事は田中にきく方が早いというので、他の課の人たちもわからぬことは私のところへ聞きに来るようになった。そうしているうちに「欧文」で「鉄道国有十年」という書物の翻訳をするので定員を一人増すことになった。当時も随分狭い門で、帝大卒業生、東京高等商業の卒業生など三十幾通かの履歴書が集った。ところが「欧文」の主任をして居られた中村慎吾さんが、「こんどの仕事はたゞ英語ができるだけではだめだ。どうしても鉄道統計に通じている人でなければやれない。それには隣の室の田中は鉄道統計にも通じているし、英語も熱心に勉強しているし、むしろ彼をとる方がよいのではないか。」という案を出され、武信先生もこれに賛成されて、とうとう私が抜擢されて「欧文」へ移ることになった。その時の喜びは真にたとえようもなかった。今早稲田大学教授をしておられる増田綱〈コウ〉先生と机を並べて英文の起草や翻訳に従事した。武信先生が毎日来られて私たちの英文を添削して下すった。真に私にとっては天国の観があった。正則英語学校では斎藤秀三郎先生、佐川春水先生、山崎貞〈テイ〉先生、後には一高の村井祐治先生などに親しく導かれた。正則英語学校と国民英学会と両方に籍をおいて学課を選んで出席した。日曜毎には青山学院でミッス・ムーンの説教を聞き、二松学舎の漢学の講義を聞き、上野図書館に通った。更に又、夜学が八時に終るとすぐ牛込若松町の武信先生のお宅へ伺って「英文日本年鑑」のお手伝いもして中野の家へ帰るのは往々十二時を過ぎた。気の張っている時というものはあんなものであろうか、ちっとも疲労を覚えなかった。たゞ私の唯一の悩みは好きな読書のできないという一事であった。ある時この心境を山崎先生に打明けたところが、先生が実は呉の中学で学歴よりは実力のある教師を求めているのだが、思い切って行かんかとおっしゃって下すった。
ちょうどその頃またシべリア鉄道で一人英語のできる人が要るのだが行かんか、俸給は三倍になるという勧誘を受けた。自分の一生のうちであの時ほど迷ったことはない。とうとうある日、一生に一度、自分は占い師に運命を占ってもらった。
思いに悩みながら牛込見付の坂を上って行くと、そこに丸い提灯〈チョウチン〉を机の上にして占師が座っていた。彼は型の如くぜい竹を数えて、やがて「あなたは今川に橋がかゝって渡ろうか渡るまいかと迷って居られる。」といった。正にその通りだったので「渡ったらよいでしようか。」と聞くと「渡ってもよい。」という。「渡らなかったらどうでしよう。」「渡らなくともよい。」――そういって彼は私の顔をじっと見入って「あなたは実に運の強い人です。」とつけ加えた。その語調がどうしても単なるお世辞とは思えなかった。
(私は昭和二十年〔1945〕の二月富山県笹津の工場へ学徒動員に附添って行って、交代で帰る途中東京で多量の血を吐いて鴬谷駅に近い下谷〈シタヤ〉病院に入院していたことがあった。食事はおろか水をのむことさえ禁じられて、たゞべットに寝たきり輪血と食塩注射だけで月余を過した。その間に空襲は次第に激しくなり、遂に三月九日の夜の大空襲で病院は全く火に取りまかれた。病院のラウド・スピーカ一が「皆様御立退きの用意を」という声を伝えた。その時私は嘗ってあの占師の言った一語を思い出して「自分はもっと運の強いはずだったが、いよいよもうこれで最後か。」と観念した。ところがその時ほんの少し風向きが変ってちょうどこの病院の一角だけが残って九死に一生を得たことがあった。)
さていよいよ呉へ行こうと決心はついたが、私の最も辛かったのは武信由太郎先生の信頼を裏切って「欧文」を去ることであった。今はもう先生も他界せられ、事は時効にかかったものと思って告白するが、「オーヴァワークのために神経衰弱になったのでしばらく休養のつもりで地方の中学へ行きたい。」と申出た。官房文書課の人たちもみんな私に同情して下すって、特に八月一ケ月の休養を与えて下すって九月一日の発令で退職を許された。
以上が、「2.鉄道省の四年」である。このあと、「3.呉中学の四年」に続くが、これは次回。
*このブログの人気記事 2017・7・25(10位にやや珍しいものが入っています)