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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

授業は18時間、他に何の校務もなし

2017-07-26 04:06:28 | コラムと名言

◎授業は18時間、他に何の校務もなし

 山形英語英文学会発行の『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その四回目。「3.呉中学の四年」を紹介する。

   3.呉中学の四年
 数え年二十九才の秋九月、たしか釈尊入山の年も二十九才と聞いていたので自分も新生活に入るつもりで赴任した。いまだ嘗て生徒としてくぐったことのない中学の門をはじめて教師としてくぐる感激と不安はたとえようがなかった。当時の経験談は今は省略するが、結局十分の予習をして自信を以って教壇に立つほど愉快なことは天下に無い、これこそ天国であることを悟った。これに反して十分予習をしないで、不安な気持で教壇に立つことは正に地上の地嶽である。私はこの四年間に本当に英語というものがわかってきたような気がした。この中学は地方としては稀に見る立派な中学で、オクスフォードの大辞典をはじめほとんどあらゆる参考書が揃っていたし、また藤原千尋という若い東京外語出身の優れた先生が居られて、親しく指導して頂いた。授業は十八時間、外に何の校務もなく全く教えることと研究とに没頭できた。赴任の翌年中等教員試験に合格、合格の通知を得たその日から次の高等教員試験準備にとりかかった。英語の主任の先生が校長先生にこういう教師は他の学校にひっこぬかれる恐れがあると申して下すったとかで、その年の暮に月俸を九十五円から一躍百二十五円に破格の昇格をして下すった。三十二才の一月、高等教員試験の予告と必読の参考書が官報に発表された。その大半が既読の書物であったので、力を得て、即日未読の書物を丸善を通して外国へ注文して必死の勉強にとりかゝった。家に居るとついねむくなるので、深夜公園のアーク灯の下で夜の明けそめるまで、Jespersen〔デンマークの言語学者〕の Language と Philosophy of Grammar を読破した。
 その頃、新潟県長岡中学校長をしておられた福田源蔵先生が私に是非来いということで、幾度も電報で催促して下さる。受験のことを話して断ったがどうしても承知しない。ついその熱意にほだされてこの年の五月二十九日まで授業をして即夜出発、東京で受験してすぐその足で長岡へ赴任した。

 以上が、「3.呉中学の四年」である。このあと、「4.辞典編集の苦心」に続くが、これは次回。

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あなたは実に運の強い人です(牛込の占い師)

2017-07-25 05:55:54 | コラムと名言

◎あなたは実に運の強い人です(牛込の占い師)

 山形英語英文学会発行の『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その三回目。「2.鉄道省の四年」を紹介する。

   2.鉄道省の四年
 数え年二十五のクリスマスの朝、私は鉄道省(当時は鉄道院)に出頭して大臣官房文書課員の辞令を頂いた。かつて北海道鉄道教習所時代の友人の斡旋によるものであった。はじめは統計係、月棒二十五円、そのうち五円を毎月親許へ送った。あとの二十円で生活費、学費万端を支弁することは容易ではなかった。昼食にパンを半斤(三片にきってバタをつけてある)買って中の一片をたべて、あとの二片を正則英語学校の教室で授業のはじまる前に食べることにした。「飢え」ということは同時に睡眠の節約にもなって当時の自分には有効な勉強の鼓舞者ともなった。中野のある農家の部屋を借りて自炊して、通勤の時には一抱えの書物と辞書をたずさえていた。すぐ隣の室は「欧文」で、多年崇拝していた武信由太郎〈タケノブ・ヨシタロウ〉先生が毎日一時間位来られた。私は気が弱いものだから中々お目にかゝりに行くことが出来なかった。私は統計の仕事を身を入れて熱心にやった。いやいやながらやっても、欣然としてやっても、一時間の時間は等しく経過して行く。何でも早く仕事のマスターになること――これをモットーとして励んだ。私は勤勉な事務員としての評判をとった。統計の事は田中にきく方が早いというので、他の課の人たちもわからぬことは私のところへ聞きに来るようになった。そうしているうちに「欧文」で「鉄道国有十年」という書物の翻訳をするので定員を一人増すことになった。当時も随分狭い門で、帝大卒業生、東京高等商業の卒業生など三十幾通かの履歴書が集った。ところが「欧文」の主任をして居られた中村慎吾さんが、「こんどの仕事はたゞ英語ができるだけではだめだ。どうしても鉄道統計に通じている人でなければやれない。それには隣の室の田中は鉄道統計にも通じているし、英語も熱心に勉強しているし、むしろ彼をとる方がよいのではないか。」という案を出され、武信先生もこれに賛成されて、とうとう私が抜擢されて「欧文」へ移ることになった。その時の喜びは真にたとえようもなかった。今早稲田大学教授をしておられる増田綱〈コウ〉先生と机を並べて英文の起草や翻訳に従事した。武信先生が毎日来られて私たちの英文を添削して下すった。真に私にとっては天国の観があった。正則英語学校では斎藤秀三郎先生、佐川春水先生、山崎貞〈テイ〉先生、後には一高の村井祐治先生などに親しく導かれた。正則英語学校と国民英学会と両方に籍をおいて学課を選んで出席した。日曜毎には青山学院でミッス・ムーンの説教を聞き、二松学舎の漢学の講義を聞き、上野図書館に通った。更に又、夜学が八時に終るとすぐ牛込若松町の武信先生のお宅へ伺って「英文日本年鑑」のお手伝いもして中野の家へ帰るのは往々十二時を過ぎた。気の張っている時というものはあんなものであろうか、ちっとも疲労を覚えなかった。たゞ私の唯一の悩みは好きな読書のできないという一事であった。ある時この心境を山崎先生に打明けたところが、先生が実は呉の中学で学歴よりは実力のある教師を求めているのだが、思い切って行かんかとおっしゃって下すった。
 ちょうどその頃またシべリア鉄道で一人英語のできる人が要るのだが行かんか、俸給は三倍になるという勧誘を受けた。自分の一生のうちであの時ほど迷ったことはない。とうとうある日、一生に一度、自分は占い師に運命を占ってもらった。
 思いに悩みながら牛込見付の坂を上って行くと、そこに丸い提灯〈チョウチン〉を机の上にして占師が座っていた。彼は型の如くぜい竹を数えて、やがて「あなたは今川に橋がかゝって渡ろうか渡るまいかと迷って居られる。」といった。正にその通りだったので「渡ったらよいでしようか。」と聞くと「渡ってもよい。」という。「渡らなかったらどうでしよう。」「渡らなくともよい。」――そういって彼は私の顔をじっと見入って「あなたは実に運の強い人です。」とつけ加えた。その語調がどうしても単なるお世辞とは思えなかった。
(私は昭和二十年〔1945〕の二月富山県笹津の工場へ学徒動員に附添って行って、交代で帰る途中東京で多量の血を吐いて鴬谷駅に近い下谷〈シタヤ〉病院に入院していたことがあった。食事はおろか水をのむことさえ禁じられて、たゞべットに寝たきり輪血と食塩注射だけで月余を過した。その間に空襲は次第に激しくなり、遂に三月九日の夜の大空襲で病院は全く火に取りまかれた。病院のラウド・スピーカ一が「皆様御立退きの用意を」という声を伝えた。その時私は嘗ってあの占師の言った一語を思い出して「自分はもっと運の強いはずだったが、いよいよもうこれで最後か。」と観念した。ところがその時ほんの少し風向きが変ってちょうどこの病院の一角だけが残って九死に一生を得たことがあった。)
 さていよいよ呉へ行こうと決心はついたが、私の最も辛かったのは武信由太郎先生の信頼を裏切って「欧文」を去ることであった。今はもう先生も他界せられ、事は時効にかかったものと思って告白するが、「オーヴァワークのために神経衰弱になったのでしばらく休養のつもりで地方の中学へ行きたい。」と申出た。官房文書課の人たちもみんな私に同情して下すって、特に八月一ケ月の休養を与えて下すって九月一日の発令で退職を許された。

 以上が、「2.鉄道省の四年」である。このあと、「3.呉中学の四年」に続くが、これは次回。

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斎藤英和中辞典を手にして天意を感じた

2017-07-24 03:40:32 | コラムと名言

◎斎藤英和中辞典を手にして天意を感じた

 昨日の続きである。『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 数え年十九の一月から村〔上川郡鷹栖村〕の教師となった。それからの約七年間、私は幸いこも尋常一年から高等二年まで持ち上って教えることを通して普通学をやゝ高級の程度に学ぶと共に、いよいよ将来の専攻をきめるべき大事な時機であった。自分はあらゆる学科に興味を感じて迷いに迷った。数学、生物、音楽などに進もうと思ったこともあった。遂には当時三省堂から出版された日本百科大辞典を克明に読んで、自分は日本人の文化活動のどういう分野に最も適するかを考えて見ようとした。ある時「花魁【おいらん】」の語原を読んで言語の研究に深い面白味を覚え、やはりこの方面に道もうと思って国漢英の研鑚に力を集中した。ある時はまた一生小学教師としてペスタロッチの辿ったような道を進もうかと思い、ある倫理学の書物を買いに旭川市まで走るように行ったこともあった。その時書店に求める書物がなくて斎藤〔秀三郎〕英和中辞典の新版が来ていた。その辞書を手にした時、何かしら天意をそこに感じ、あの辞典があたかも自分一人のために書かれたような気がして抱いて帰ったこともあった。赤い表紙の斎藤英和と青い表紙の井上〔十吉〕英和とを肌身離さず使って、カーライル、エマーソン、ラスキン、アービング、ゴールドスミス、それからダイトンの註でシェクスピアを熟読し、遂にはセンチュリーの大辞典を買い込んだ。この辞典ほど自分の知識欲を満足させてくれたものはなかった。又一方旭川中学(当時の上川中学)の外人教師として来て居られたチャンドラという老婦人について、バイブルとバンヤンの天路歴程を勉強した。五年間どんな嵐の夜にも一度も休まず週三回ずつ村から旭川市まで往復四里の道を徒歩で通った――といえば勉強家のように聞えるが、実は私は気が弱くて、私を待っていて下さる先生を失望させるに忍びなかった――たゞ勉強したいという一念が私をあらゆる誘惑から救ってくれた。当時私の近視はもう大分ひどく、随分煩悶もしたが、一体眼は何のためにつているのか、自分の眼はたゞ書物を読むための眼である。よしさらば盲になるまでという気持であった。
 またこの小学校教師時代に英訳でアラビアン・ナイト、グリム、アンダーセン、イソップなどを毎日読んで行っては昼食後の僅かの休憩時間に受持ちの生徒に連続して数年に亘って話をあいた。私の物語をよろこぶ生徒がかわいゝ一念で読みつゞけた。この小学校〔鷹栖小学校〕が最近開学六十周年の祝をするということで私がその学校図書箱へ自著を一揃い送ってあげたところが、北海道の新聞にトップ五段抜きで、にこにこして私の書物を開いて見ている可愛い子供たちの写真を載せた記事が出たのには驚いた。
 その学校の今の校長も教頭も、昔尋常三四年時代に私のアラビア夜話を聞いた人たちであったと聞いて感慨無量である。
 幾度か〔夏目〕漱石先生の許へ行こうと思いなやんで見たが、貧しい父母の暮しを見るとそのことを切り出すに忍びないで、独学孤習の道をつゞけているうちに大正五年(1916)十二月十五日漱石の訃を新聞で見た時の私のショックは言うに言われぬものがあった。香奠を差上げたお返しに「ふくさ」を送って下すった。その小包が破損して村の郵便局に着いているので、とりに来るようにという局からの通知があって、私は暮れ迫る雪の山路を越えて二里ほどある二線十号の村の本局まで行ったが、その帰り、降り積る雪の峠にその小包を抱いて倒れて、もう薄志弱行の自分はこのまゝ、こゝで果てた方がよいと悲しんだ。
 その翌年夏休に上京して正則英語学校で斎藤秀三郎〈ヒデサブロウ〉先生の夏季講習を受けて感激し、遂に上京の決心を固めて、その年の暮、教え子たちに村はずれまで送られて泣いて別れを告げた。男子志を立てゝ郷関を出づ……の気持をあの時ほど切実に味ったことはなかった。

 ここまでが、「1.独学孤習の十年」である。このあと、「2.鉄道省の四年」に続くが、これは次回。

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英語学者・田中菊雄の独学孤習時代

2017-07-23 09:33:32 | コラムと名言

◎英語学者・田中菊雄の独学孤習時代

 以前、『独学の冒険』(批評社、二〇一五)という本を出したこともあり、苦学あるいは独学によって学問的な業績を残した人物には、惹かれるところがある。
 先日、たまたま、『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)という雑誌を手にとったところ、英語学者・田中菊雄(一八九三~一九七五)の自伝的な回想が載っていた。田中菊雄には、『わたしの英語遍歴』(研究社出版、一九六〇)などの著書があるようだが、たぶん、それらの「オリジナル」であろう。それ自体、すこぶる興味深い読み物だが、同時に、史料的な価値も高いと考えた。
 以下に、紹介してみよう。なお、原文は、横組みである。

  英 語 遍 歴 五 十 年
   田 中 菊 雄
  1.独学孤習の十年
 私が英語遍歴の第一歩を踏み出したのは明治四十一年(1908)の一月、私が数え年十五の新年を迎え、北海道旭川駅の列車給仕として勤労前線に出た時であった。時あたかも日本が日清日露の両戦役に勝利を博して世界一等国の列に加わり、日英同盟の更新、日米紳士協約の締結などの行われた直後で、英語研究熱の澎湃〈ホウハイ〉として起った頃であった。この年研究社から「初等英語研究」が創刊され、私はこの雑誌を唯一の師友として勉強に乗り出した。創刊号の巻頭で山県五十雄〈イソオ〉先生が
「英語は今や実際の世界語であって,我国に於てはほとんど第二の国語とならんとする勢いである。誰でも知力的活動をして世に立とうと思う人は是非とも之を学ばねばならぬことは事新らしくいうまでもない。」
といわれた、その一節が若い私の心に焼きつけられた。
 もとより当時私は将来英語教師として立とうなどという考えは毛頭なかった。私はもはや文字通りの文学少年であった。〔国木田〕独歩、〔島崎〕藤村、〔幸田〕露伴、〔夏目〕漱石などの作品に心酔し、ことに独歩吟の巻頭の言葉――
「そのかくしの右にミルトンあり、左には杜甫あり、懐【ふところ】に西行を入れて秋高き日、父が上下【かみしも】着て登城したる封建の城今は蔦葛【つたかつら】繁れる廃墟の間を徘徊す
という一句が私の頭を領していた。和漢洋の一流の書籍をその原典において読もうというただ一すじの願にかかっていた。命は短い、二流三流の書を読んでいては一流の書物が読めない。――そこで英語の勉強においてもリーダー、二・三の基礎のできた頃からまっしぐらに最高の書物と取り組んだ。
 明治四十四年〔1911〕の春、札幌に北海道鉄道教習所が開設されて、私は第一期生とし入所を許された。入所資格は雇員、当時の私はまだ傭人で受験資格はなかったのであるが、私が仕事にも精励し勉強にも熱心であるということが認められて特に受験のチャンスを与えられたのであった。
 五ケ月の教習所時代ほどめぐまれた機会はなかった。教習所では洋行帰りの某先生が英会話を担当された。この先生はまた文学好きでシェイクスピアのハムレットの独白などを暗誦させたりして下すった。夜は英語の塾に通ってユニオンの第四読本を習った。ちょうど坪内〔逍遥〕先生のハムレットの訳がはじめて出した頃で,私はその訳文をほとんど暗誦した。土井晩翠〈ツチイ・バンスイ〉先生訳のカーライルの「英雄崇拝論」を愛読して原書と取り組みはじめたのもこの頃であった。教習所の「卒業講演会」の時に私は「トマス・カーライルに学ぶ」という変り種の講演をしたことを思い出して時々冷汗を流すことがある。
 その年の十月旭川駅の出札掛〈シュッサツガカリ〉を拝命した。当時旭川には第七師団が開設されて、年の暮の頃の出札事務の繁忙はたとえんに物もなかった。私は出札掛を三ケ月務めたがその間に二つの体験をした。それは「正直」という徳のいかに貴いものであるかというこことと、「人間は霊であり、人生は霊の修業の道場である。」ということを私に切実に教えてくれた。その後の自分の一生は結局この二つのさゝやかな体験に支配されたといってもよい。(詳細省略)
 最早読書の寸暇も得られなかった。何とかして読書のできる境遇をと悩んでいた矢先、昔小学校時代の恩師が鷹栖村〈タカスムラ〉の小学校長になられて、私に教師として来ないかとのことで、私は即時に決心をした。さて鉄道をやめるのが至難であった。切角教習所を出て鉄道員として期待をかけられているのに、今やめるとは何事だ、現業が辛ければ運輸事務所へ移すともいわれた。「飛ぶ鳥後をにごすな。」とも戒告された。しかしもう自分は矢も楯もたまらず、駅長の許へお百度をふんでとうとう許して頂いた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・7・23(3・10位に珍しいものが入っています)

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映画『陰謀のセオリー』とポケモンショック

2017-07-22 04:34:03 | コラムと名言

◎映画『陰謀のセオリー』とポケモンショック

 昨日に続いて、映画『陰謀のセオリー』(ワーナーブラザーズ、一九九七)についてのお話。
 この映画の最初のほうに次のような場面がある。タクシードライバーのジェリー(メル・ギブソン)が、男性の客を拾って市街を走っている。途中、工事中の箇所があって、車を止めた。工事現場では、アーク熔接の火花が盛んに散っている。何気なく、その火花を見ていたジェリーだったが、突然、精神に変調をきたす。タクシーを急発進させ、暴走しはじめる。恐怖にかられ、悲鳴をあげる乗客。ようやく我に返って、車を止め、ひたすら乗客に謝るジェリー。――
 ジェリーは、以前、「MKウルトラ計画」によって、マインドコントロールの対象になったことがあった。そのマインドコントロールの方法のひとつに、目を開かせて、激しい光の点滅を浴びせるというものがあったらしい。ジェリーは、過去の記憶を失っているので、自分がマインドコントロールを施されたこと自体を覚えていない。もちろん、どんな形でマインドコントロールされたのかも思い出せない。しかし、右のシーンは、ジェリーが実際に、マインドコントロールされていた事実を暗示するものであり、このあとの展開の伏線にもなっている。
 さて、この映画が公開されたのは、アメリカでは一九九七年八月八日、日本では同年一一月一日のことであった。
 そして、この年の一二月一六日、日本で「ポケモンショック」と呼ばれる有名な事件が起きている。この事件は、同日夕方、テレビ東京系列のテレビアニメ『ポケットモンスター』を観ていた視聴者のうち、児童を中心とする約七五〇名が体調不良を訴え、病院に搬送されたという事件である。これは、激しい光の点滅を断続的に見たことによる「光過敏性発作」であったことが、あとになって判明した。
 この事件の前に、映画『陰謀のセオリー』を観ていた人の中には、激しい光の点滅によって異常をきたす人間がいること、激しい光の点滅はマインドコントロールの手段となりうること、などに気づいた人がいたかもしれない。ただし、ポケモンショックの時点で、この事件を、映画『陰謀のセオリー』との関わりで、論評していた人がいたかどうかは把握していない。
 なお、インターネット情報によれば、事件から一か月ほどあとに、橋本龍太郎首相(当時)は、「光とかレーザーは、もともと武器として考えられていたものだ。効果には未知のものが残っているんじゃないか」とコメントしたという。おそらく勘で言ったのだろうが、これは、かなり鋭いコメントだったと思う。

*このブログの人気記事 2017・7・22(6位にやや珍しいものが入っています)

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