◎日本陸軍に長期にわたる専守防禦の戦例なし
古賀斌著『戦争革命の理論――防衛中立の戦争社会学的研究』(東洋書館、一九五二)から、第八章「国土防衛の諸問題」の「二 日本陸軍八十年の歴史」を紹介している。
本日は、その二回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。
このことは、以下の事実をもつてしても、このかんの事情が推察しうると思うからここに述べることにするが、わが旧軍部(とくに陸軍)は、太平洋戦争ぼつぱつして、国軍の主力をもつて南方の米英軍にたいして戦争することになつても、日本国内における軍学校ならびに軍隊の研究訓練の想定対象は対ソ戦争の場合のみを限定しておこなつていたのみか、南方作戰がガダルカナル以降、戦勢ぎやくてんし、日本軍は守勢の態勢となり、加うるに、ガダルカナル、ブーゲンビル、マキン、タラワ等の第一線が遂次、敵に攻略せられて防禦の困難なることはもとよりのこと、南方確保のことが今やまつたく絶体危機にひんしつつあるにもかかわらず、ソ連国境突破の攻略作戦にもとづく研究訓練のみが重点視せられていて、南方作戦に関する態度は依然として変化するところがなかつた。南方作戦に、はじめて注意を払つてきたという具体的なあらわれは、太平洋戦争の第三年の、昭和十八年〔一九四三〕九月末に、教育総監が「爾今〈ジコン〉陸軍各学校における研究訓練の重点を南方対米戦争に指向する」と明示したときからである。これをもつても、わたくしたちは、軍内部の奇怪な事情を推察することができるではないか。しかも、この教育総監の指示は容易に実現せられなかつた事実よりしても、軍本来の立場と南方作戦への動向との間には、南方は海軍が主力を傾注して、陸軍はこれを軽視したというのみではなく、そこに、なにか不明瞭な事情が存在するのではないかとさえ考えられるのではないか。当時、十八年八月のことである。ニューギニヤの連隊長より、ある陸軍学校の教導隊々長に転任帰還した歴戦の、ある武官(大佐)がニューギニヤを去るにあたつて師団長に挨拶にゆくと、その師団長は、その転任挨拶を受けると「内地は全力をあげて対ソ作戦の研究に没頭しているのだから、内地へかえつて南方の『南【なん】』の字でも口にしようものならブンナグラレルぞ」と注意した、というはなしがあるが、かかる「はなし」をもつてしても、当時の、わが陸軍の情況が、たとえ、資源作戦という一つの政治理論に軍当局が支配され引きずられていたのではないと弁解しても、南方の情勢がかくまで切迫しているにもかかわらず、依然として、伝統的な対ソ作戦のみに熱中していたというのは奇怪なことであるといわねばならぬとすれば、その奇怪なものというのは、この資源戦争論の抬頭以外にはない。けだし、資源戦争論は支華〔ママ〕事変の中期以降の軍事的政治思想であつて、当時の尾崎〔秀実〕氏らの意図する目標は、わが軍の中国ならびにソ連にたいする関心をそらすために(ソ連のスパイなりや否やということは、これのみをもつて断言することはできないから、わたくしたちの批判のかぎりではないが、とにかくも)第二次大戦ぼつぱつを想定し、しかもそれは長期かつ消耗戦の形相を呈するものとし、資源確保を重点にした南方攻勢こそ肝要なりと宣伝したということは否定しえない事実だからである。それゆえに、南方攻勢の戦争責任は、故尾崎秀実氏や近衛〔文麿〕公爵のもつ政治ドクトリンに、そして、それをそうさせたものとして政治の軍事的優越を主張したクラウゼヴィッツにたいする誤謬的解釈に帰することができるのである。ところで、南方防禦の責任というか、失敗の原因の一端は、もとより叙上の攻勢主義にも発しているが、他の重大なものは、かんたんにいえば、上述したように日本軍は防禦が下手だった、特意ではなかった、いな、そうではない。防禦戦略ならびに戦術に習熟しなかった、研究不足だつたということにあるということがいえるのではないか。
事実、旧日本陸軍八十年の歴史において、一時的な、または、局部的な防禦戦争の戦例には乏しいというほどのことはないけれど、太平洋戦争中期以降のような、長期にわたる専守防禦に関しての戦例はまつたくない。絶無であるばかりではない。戦略や戦術の研究でも、あるいは各種軍隊の教育訓練にあつても、もちろん、防禦ということは、戦略戦術の重要部門として研究訓練の対象とはなつていたけれども、それは野戦をもつぱらにする決戦目的の攻勢防禦か、もしくは時間かせぎのための一時的ないしは持久防禦に限られていて、防禦のための防禦、防禦のみを唯一の目標にする、いわゆる専守防禦については、それにみの専門的なものは、ごく一部のものが特殊の研究をおこなつていたにすぎなかつた。その他は、ことごとく陣地攻防演習とか上陸演習にさいして一般的に実就されていることにはなつていたけれども、それとても諸般の事情に制約せられて実際の回数は一般演習に比較して問題にならなかつた。だから、太平洋戦争中期以降において、戦勢ぎやくてんしたため前述したように当局は狼狽して管下陸軍諸学校に訓令して島嶼の専守防禦についての研究訓練をおこなわせしめようとしたが、いかんせん、大勢を既倒にかえす〔大勢を挽回する〕こと能わずして、十九年〔一九四四〕七月、サイパンを失い、ついで硫黄島を敵手にわたし、同年十月比島もまた敵の上陸するところとなり遂次全島を奪回され、わが本土につらなる沖縄諸島まで攻略せられたことは、みなさんの記憶なおあらたなるところであろうと思われる。が、その原因の最大なるものは、航空ならびに海軍の戦力減退したために地上守備隊との協力防衛が充分でなかつたことにあるということはもちろんだが、そのはんめん、叙上したように陸軍八十年の歴史において、専守防禦に関する研究訓練のみるべきものが、ほとんど、なかつたということに因来するということは否定されうるものではない。
これというのも「攻撃は最良の防禦」であるというドクトリンに支配せられ、防禦そのものの価値を、防禦は「攻撃の一手段」または「一時的変態にすぎない」というみかたに規制せられて戦争の目的は勝つことにあるのだが、その「勝つ」ということは「本質上攻撃によつてでなければ解決することはできない」という観念が兵学上の通念として固定し一切を規制してしまつたことにあることはいうまでもない。