礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

天皇の親書を奉じソ連の仲介で戦争終結

2017-07-15 04:00:52 | コラムと名言

◎天皇の親書を奉じソ連の仲介で戦争終結

 いま机上に、富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)という本がある。いつ入手したか覚えていないが、扉のところに毛筆で、「池田勇人先生/恵存」とある。お世辞にも、うまい字とは言えない。
 富田健治(一八九七~一九七七)と言えば、第二次および第三次近衛文麿内閣で内閣書記官長を務めた人物である。近衛文麿とは、個人的にも、かなり深い関わりがあったと聞いている。
『敗戦日本の内側』は、富田が戦後に執筆した回想録であるが、文字通り「敗戦日本の内側」を描いた貴重な文献であり、研究書に引用される機会も多い。
 同書は、第一号から第五六号まで、全五十六号の回想からなっているが、本日は、その第四〇号「『戦争終結』への木戸構想」を紹介してみたい。

(四〇)「戦 争 終 結」へ の 木 戸 構 想
   (昭和三十四年〔一九五九〕二月十日記)

 昭和二十年〔一九四五〕六月九日木戸〔幸一〕内大臣は、前号に述べた通り、異常の決意を以って、ソ連の仲介に依り、大東亜戦争を終結すること、又これがため、異例なことではあるが、天皇の御勇断を乞い、その親書を奉じて仲介国ソ連と交渉する以外に途〈ミチ〉なしと存ずる旨を、陛下に拝謁して上奏した。陛下は兼てから、空襲激化の今日、衣食住を奪われて困窮する国民大衆のことを、日夜最も心配なされていたので、木戸内府のこの進言にはいたく御満足で、速かに実行せよと仰せられた。併し当時の一億玉砕論と、戦況や食糧、兵器などに付て、ウソの宣伝だけしか知らされていなかった一般国民のことではあるし、他方本土決戦を呼応しつゞけて来た軍部殊に陸軍部内の情勢は、この木戸構想を実施するに付て、然く〈シカク〉簡単にゆくものではなかった。
 先ず六月十三日、木戸内府は参内した鈴木〔貫太郎〕総理と米内〔光政〕海相にこのソ連仲介案を話した所、両人とも全然同感であることが判った。又首相、海相は今迄、お互いに果して和平の意思が相手にあるのかないのか疑心暗鬼だったのであるが、今はじめて「そうだったのか」と更めて相手を理解し、信頼し合うという仕儀〔なりゆき〕となった。
 次に六月十八日阿南〔惟幾〕陸相が木戸内府を訪れた際、木戸氏からこの戦争終結の話を持ち出した所、陸相は、予想通り『敵が本土作戦を行なう時、一大打撃を与えて、然る後終戦に導くべし』との意見を述べたのである。併し木戸氏から色々その不利なることを説かれ、結局渋々ながら同意した。陸軍以外でも平沼〔騏一郎〕枢密院議長の如きは「和平を口にする者は徹底的に取り締れ」とさえ言っていたのであるが、これも木戸氏は六月二十五日種々説得して諒解させることになった。
 こういう順序、経過で六月二十二日午後三時、最高戦争指導会議の構成員全員の召集となり、この会議の席上、陛下から
『戦争指導に付ては、先に御前会議にて決定を見たが、他面戦争の継続についても、この際従来の観念に捉われることなく、速かに具体的研究を遂げ、これが実現に努力するよう望む』との御言葉があった。首相、海相並に〔東郷茂徳〕外相は『仰せの通りであります』と奉答したが、梅津〔美治郎〕参謀総長は『異存はないが、実施には慎重を要する』と申したので、陛下が『慎重を要することは勿論だが、そのため時機を失することはないか』とお尋ねになると、結局梅津総長も『速いことを要する』と申上げることになったのである。
 近衛〔文麿〕公はこの間ずっと小田原に概ね滞在して、常に木戸内府、米内海相、東郷外相等とも連絡をとり、事態の推移を見守りつゝ時々これらの人達にも早期終戦の方途に付、進言していたのである。
 殊に終戦について、最も反対の恐れのあるのは陸軍であるが、この方は木戸内府の機微な工作に俟つこととし、海軍については米内海相と充分連絡をとることが、終戦のため、極めて必要であるとの近衛公の考えからして、しかも近衛、米内の両人が直接面談することは、微妙な時局柄、かえって色々問題も起り易いというので、当時軍令部出仕〈シュッシ〉であり、高松宮〔宣仁〕さま付でもあり、殊に米内海相の片腕でもあった海軍少将高木惣吉氏と私(富田)とが、密かに屡々会談して、米内海相と近衛公との緊密な連絡を計ることが最良の方法だろうということになった。偶々〈タマタマ〉高木少将は茅ヶ崎〈チガサキ〉の中海岸〈ナカカイガン〉在住で、私は平塚居住ということも大へん好都合であった。そこで近衛公は米内海相と昵懇〈ジッコン〉の原田熊雄氏に書翰を送り(この手紙は近衛公が認め〈シタタメ〉られ、これを私が原田氏の許〈モト〉に持参した)高木、富田連絡のことを米内氏に諒解するよう取り計らって呉れということになった。その時の書面の内容を、原田氏から私は見せて貰ったが、書中特に未だに私の印象に強く残っている辞句は『過般〔さきごろ〕宮中において、米内海相と会談せし際、海相が、特攻隊の編成によって多くの前途有為な青年を、みすみす、出でて再び帰らぬ戦闘に送ることは、海軍大臣として、罪〈ツミ〉慚死〈ザンシ〉に値するものである。今こそ私(米内)は一命を賭して、戦争終結のことを成し遂げねばならぬ。これによってこそ初めて、幾多の英霊に見える〈マミエル〉ことができると思う。と過日申されし時、小生〔近衛〕は眼頭〈メガシラ〉自ら〈オノズカラ〉熱くなるを覚え申候。小生(近衛)も日米戦争に反対しながら、微力は遂にこれを阻止し得ず、今日の事態に立ち至らしめたることは、重臣の一人として上〈カミ〉陛下に対し奉り、下〈シモ〉は国民大衆に対し、深く責任を感ずるものに存候、一日も速かに戦争を終結せしむるに努むることこそ、最後の御奉公と存候云々』ということであった。又これが早急実現のため、高木、富田両君を煩わし貴下と緊密なる連絡を執り、本旨達成のため全力を傾注いたしたいというのであった。【以下、次回】

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