◎山路閑古『戦災記』(1946)の「緒」
先日、古書展で、山路閑古著『戦災記』(あけぼの社、一九四六年一二月)という本を入手した。山路閑古という名前には、かすかに聞き覚えがあった。古川柳研究家で、岩波新書に『古川柳』という著書がある。
山路閑古の『戦災記』は、小説・随筆・日記・紀行・評論などを集めたものである。どれも、史料としての価値がある。紹介したい文章は多いが、本日はまず、同書の「緒」を紹介てみたい。
緒
昭和二十年〔一九四五〕五月二十六日午前零時、空襲の為自宅を焼かれた。もとより混乱の際とて、焼失の時刻も明瞭でなく、唯届出などの必要上、おぼえ易い時刻にしてあるとふのみである。
空襲罹災は必至の運命と、早くから覚悟はして居つた。だが、人命に損失がなかつたといふ一事を以つて、最大の幸福に数へなければならないとは、何といふ大不祥事件であつたであらう。否、事情は事後に於ていよいよ窮迫困憊【こんぱい】を重ね、何れかと云へば事を好む傾向のある自分も、これこそ生涯の大事件、未曽有の大不幸と考へねばならぬ状況に立ち到つたのであつた。
この故に、自分は罹災前後の事情を具【つぶさ】に書き記して置きたいと思ひ、頃日【けいじつ】いさゝかの閑暇を得て、先づその序文を綴り、先輩数氏に見て頂いた。諸氏からは過分の激励の辞を頂いたが、杉浦翠子〈スイコ〉女史からは、
窮すとも君子は猥【みだ】れずといひにける孔子の言そのまゝの君
心頭滅すれば火もまた凉しの禅語をば君が一言一句にみいだす
壕生活より月を仰ぎて風流を寒きものとや知る人は誰れ
宮殿も戰火にあひて跡もなし白紙にかへれ我が日本は
の四首を寄せられ、懇【ねんごろ】に慰問の意を表せられた。又高浜虚子氏からは、
「戦災記序はまるで風俗文選【ふうぞくもんぜん】を読むやうなと思ひつゝ読みもて行けば、風俗文選を繙【ひもと】いて感涙を流し給ひての御文章なること明【あきらか】になりました。扨も〈サテモ〉よく真似られたるものかなといふは一通〈ヒトトオリ〉の挨拶にて、風俗文選の文章位ならば、淡々亭主人にしてはお茶の子さいさいなりといふこと、いはでもしるき〔ママ〕ことでありました。」
などの褒詞〈ホウシ〉をも頂いたりし。然り而して、序文は推敲に推敲を重ね、むしろ悪凝【わるぎ】の域に踏み込んだ悪文章であつたが、本文は却つて卒敍直敍して、拙文ながら以つて照応の趣【おもむき】あらしめたいと思ふ。唯事件がいかにも錯綜してゐるので、逐時的構想【クロノロジカルコンポジシヨン】を以つて首尾一貫せしめるよりも、即物即興、時の先後【せんこう】を顧みず、事の重複【ちようふく】を問はず、小説あり、随筆あり、日記あり、紀行あり、評論ありで、筆のすさびにまかせて書きなぐつた方が、書き易くもあれば、又読み易くもあると考へた。よつて一書の結構は各小題目の下【もと】に許多【きよた】の小文を綴つて、これを羅列するに止めた。
先に自分は「木葉髪記【このはがみのき】」(冨山房)「史篇四顆【しへんしくわ】」(大岡山書店)などの小著を公にして江湖の読者に初見参【デビユー】した。世評はさして唖悪【あ】しくはなかつたと思ふが、作者の態度が平和主義であるとの理由の為に、再版の申請は容易に許可されなかつたやうである。この為に、書肆には若干の迷惑を掛けたかと甚だ気の毒に思ふ次第である。その埋め合せに、こたび〔此度〕は書き下しの原稿を用意して、復興の計画に一臂〈イッピ〉の力を添へてやらうと思つてゐる中に、逸早く〈イチハヤク〉九州の「あけぼの社」から出版開業の祝儀に一著を恵まれたいと、使者を上【のぼ】せて申込んで来た。
九州は、俳誌「冬野〈フユノ〉」を通じて、知己読者の多い土地である。馴れない帝都文界に虚勢を張るよりも、気心の知れた読者の懐〈フトコロ〉にじつくり抱かれる方が、小著は小著ながら、なんぼう心適く〈ココロユク〉ことか。是以【ここをもつて】、女房を語らひ、共々に稿を西海に下すことにした。女房とは、多年形影〈ケイエイ〉相伴ふ仕事をしてゐる杉浦非水〈ヒスイ〉画伯のことであり、人は自分が女房を看板に客を釣る傾向のあるのを指摘してゐる。
最後の一章「穎原【えばら】氏来翰」は「跋」として恵まれたものではないが、この一文を添へることによつて、小著は偶々【やまたま】八岐【やまた】の大蛇【おろち】の観を呈するに至つた。即ち宝剣は蛇尾に在る。蓋し穎原〔退蔵〕氏程自分の文章に鋭い解剖刀【メス】を揮はれる学者はないのである。それもこたびはえらく褒めて下すつたので、「跋」には打つてつけとなり、かたがた見事なその書翰文体が、文章の軌範となるであらう。
書き写していて感じるが、相当の名文である。しかし、著者による「序」、および穎原退蔵の「跋」は、それ以上に名文と言えるかもしれない。この紹介は次回以降。