礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

英語学者・田中菊雄の独学孤習時代

2017-07-23 09:33:32 | コラムと名言

◎英語学者・田中菊雄の独学孤習時代

 以前、『独学の冒険』(批評社、二〇一五)という本を出したこともあり、苦学あるいは独学によって学問的な業績を残した人物には、惹かれるところがある。
 先日、たまたま、『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)という雑誌を手にとったところ、英語学者・田中菊雄(一八九三~一九七五)の自伝的な回想が載っていた。田中菊雄には、『わたしの英語遍歴』(研究社出版、一九六〇)などの著書があるようだが、たぶん、それらの「オリジナル」であろう。それ自体、すこぶる興味深い読み物だが、同時に、史料的な価値も高いと考えた。
 以下に、紹介してみよう。なお、原文は、横組みである。

  英 語 遍 歴 五 十 年
   田 中 菊 雄
  1.独学孤習の十年
 私が英語遍歴の第一歩を踏み出したのは明治四十一年(1908)の一月、私が数え年十五の新年を迎え、北海道旭川駅の列車給仕として勤労前線に出た時であった。時あたかも日本が日清日露の両戦役に勝利を博して世界一等国の列に加わり、日英同盟の更新、日米紳士協約の締結などの行われた直後で、英語研究熱の澎湃〈ホウハイ〉として起った頃であった。この年研究社から「初等英語研究」が創刊され、私はこの雑誌を唯一の師友として勉強に乗り出した。創刊号の巻頭で山県五十雄〈イソオ〉先生が
「英語は今や実際の世界語であって,我国に於てはほとんど第二の国語とならんとする勢いである。誰でも知力的活動をして世に立とうと思う人は是非とも之を学ばねばならぬことは事新らしくいうまでもない。」
といわれた、その一節が若い私の心に焼きつけられた。
 もとより当時私は将来英語教師として立とうなどという考えは毛頭なかった。私はもはや文字通りの文学少年であった。〔国木田〕独歩、〔島崎〕藤村、〔幸田〕露伴、〔夏目〕漱石などの作品に心酔し、ことに独歩吟の巻頭の言葉――
「そのかくしの右にミルトンあり、左には杜甫あり、懐【ふところ】に西行を入れて秋高き日、父が上下【かみしも】着て登城したる封建の城今は蔦葛【つたかつら】繁れる廃墟の間を徘徊す
という一句が私の頭を領していた。和漢洋の一流の書籍をその原典において読もうというただ一すじの願にかかっていた。命は短い、二流三流の書を読んでいては一流の書物が読めない。――そこで英語の勉強においてもリーダー、二・三の基礎のできた頃からまっしぐらに最高の書物と取り組んだ。
 明治四十四年〔1911〕の春、札幌に北海道鉄道教習所が開設されて、私は第一期生とし入所を許された。入所資格は雇員、当時の私はまだ傭人で受験資格はなかったのであるが、私が仕事にも精励し勉強にも熱心であるということが認められて特に受験のチャンスを与えられたのであった。
 五ケ月の教習所時代ほどめぐまれた機会はなかった。教習所では洋行帰りの某先生が英会話を担当された。この先生はまた文学好きでシェイクスピアのハムレットの独白などを暗誦させたりして下すった。夜は英語の塾に通ってユニオンの第四読本を習った。ちょうど坪内〔逍遥〕先生のハムレットの訳がはじめて出した頃で,私はその訳文をほとんど暗誦した。土井晩翠〈ツチイ・バンスイ〉先生訳のカーライルの「英雄崇拝論」を愛読して原書と取り組みはじめたのもこの頃であった。教習所の「卒業講演会」の時に私は「トマス・カーライルに学ぶ」という変り種の講演をしたことを思い出して時々冷汗を流すことがある。
 その年の十月旭川駅の出札掛〈シュッサツガカリ〉を拝命した。当時旭川には第七師団が開設されて、年の暮の頃の出札事務の繁忙はたとえんに物もなかった。私は出札掛を三ケ月務めたがその間に二つの体験をした。それは「正直」という徳のいかに貴いものであるかというこことと、「人間は霊であり、人生は霊の修業の道場である。」ということを私に切実に教えてくれた。その後の自分の一生は結局この二つのさゝやかな体験に支配されたといってもよい。(詳細省略)
 最早読書の寸暇も得られなかった。何とかして読書のできる境遇をと悩んでいた矢先、昔小学校時代の恩師が鷹栖村〈タカスムラ〉の小学校長になられて、私に教師として来ないかとのことで、私は即時に決心をした。さて鉄道をやめるのが至難であった。切角教習所を出て鉄道員として期待をかけられているのに、今やめるとは何事だ、現業が辛ければ運輸事務所へ移すともいわれた。「飛ぶ鳥後をにごすな。」とも戒告された。しかしもう自分は矢も楯もたまらず、駅長の許へお百度をふんでとうとう許して頂いた。【以下、次回】

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