礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

茶を挽き、豆を剥き、翰墨を披き、蚤を探る

2017-07-06 03:37:05 | コラムと名言

◎茶を挽き、豆を剥き、翰墨を披き、蚤を探る

 一昨日、昨日の続きである。昨日は、山路閑古著『戦災記』(あけぼの社、一九四六年一二月)から、「序」の前半を紹介した。本日は、その後半を紹介する。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
 
 これより先、亭主一日廃亭の焼跡を整理して、偶々【たまたま】陶製の誕生仏一躰を掘り出したりき。こはもと菊仏【きくぼとけ】と称して、毎年秋白菊一輪を摘みて台座となし、雪山来迎【せつさんらいがう】、以つて供養とせしところの趣味仏也。今や亭中の金銅仏悉く熔融したるに、この一仏のみ不思議に全くして、天上を指す一指の微端【びたん】をも欠かず。こゝに於て渇仰【はつがう】又新【あらた】也。かくて出灰【しゆつくわい】の一仏を奉じ、一笠一杖【いちりういちじよう】、一河一山【いつかいつさん】を越えて、彼の山荘に入りにき。
 山荘は松菊存せざれども、猶【なほ】芬【ふん】たる一泉あり。玉水滾々【ぎよくすゐこんこん】一村を湿せり〈ウルオセリ〉。これ字名【あざな】に鑓水【やりみづ】の称ある所以也。今や一泉の主となりてけりとて、庵室【あんしつ】の名をも一水庵とぞ名づけたる。一水庵、即ち古氏が文に所謂「一間の家」也。又顔真卿〈ガン・シンケイ〉が「多宝塔碑」に「有一水発源龍興【いつすゐありみなもとをりうかうにはつす】」とあるに因【ちな】めりとぞ。
 庵主入室して、彼の一仏を壇上に安置すれば、家族南縁に集【つど】ひて恭礼敬屈【きやうらいけいくつ】す。庵主曰く、我がともがら奇【く】しくも命助かりたるを、自【みづか】らしたりと思ふべきにあらず。ひとへに神明【しんめい】仏陀の加護ありてこそ。いはんや五月二十五日乃至二十六日を祥月【しやうつき】命日とする先輩諸士も少からざるをや。今これらが冥福の為に一炷【いつちゆう】を供へ、又われらが前途の決意を固めんと思ふは如何に〈イカニ〉と。皆々帰命頂礼【きみやうてらい】を道【い】ひ、唯庵主の命のまゝに、艱難に処すべきを誓ふ。
 儀果てゝ後は雅俗雑居也。茶を挽【ひ】き、豆を剥【む】き、翰墨【かんぼく】を披【ひら】き、蚤を探【さぐ】る。思ひきや、庵中に伝来の外典【げてん】幾十巻蔵せられ、数百の古典宛【さなが】らに引き継がれあらんとは。試みに乱抽【らんちう】すれば、森川許六【もりかはきよろく】の「風俗文選【ふうぞくもんぜん】」先づ手に当る。これ新生活の伝授なるかと、一巻を手にして感涙しばし止め〈トドメ〉難し。於戯【あゝ】、配所に月あり、茅屋【ばうおく】に花あり。人誰か文筆に心踊躍〈ユヤク〉せざらんや。即ち庭上に下り立ち、噴泉に嗽ぎ〈クチススギ〉、一枝の鮮かなるを手折りて〈タオリテ〉、「こゝに来てかつ色見する杜鵑花【さつき】かな」と。戦災記乃ち成る。

  昭和二十一年四月    多摩一水庵に於て 山路閑古志〈シルス〉

 相当の教養がなければ、こうした文章は書けない。いずれにしても、紹介するに足る名文である。
 なお、前回、引用した前半部に一度、また、今回引用した前半部にも一度、「古氏」という言葉が出てくる。文脈からすると、筆者の一人称のようだが(閑古氏の略か)、断定は避ける。

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