礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三時間以上の睡眠をとったことは稀

2017-07-27 05:39:24 | コラムと名言

◎三時間以上の睡眠をとったことは稀

 山形英語英文学会発行の『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。「4.辞典編集の苦心」を紹介する。

   4.辞典編集の苦心
 長岡へ転任した頃から研究社の「岡倉英和大辞典」初版〔岡倉由三郎編『新英和大辞典』1929〕の編集がはじまり、私がその一部を分担することとなり、苦心惨憺した。翌年の春、富山高校長の南日恒太郎〈ナンニチ・ツネタロウ〉先生の御厚意で富山高校に移ったが、引続きこれに専心した。夏休み毎に上京して研究社の二階に籠城して昼夜を分たずはげんだ。この事業が終った時、自分の知的身長が急に伸びた様な感じがした。引続き「岡倉スクール英和」〔岡倉由三郎編『研究社スクール英和新辞典』1929〕に精進したが,山形高校の島村盛助〈モリスケ〉先生の招きで昭和五年〔1930〕の春、山形へ移ることとなった。今度こそは辞典の仕事を一切やめて専心英文学の勉強に精進しようという覚悟で山形へ来たのであったが、事は志とちがって「岩波英和」〔島村盛助編『岩波英和辞典』1936〕の編集に参加することとなり、まる七年をこれに捧げた。この七年こそ私にとって最大の修業であった。多年に亘って元旦以外は一日も欠かさず、自分の書いた原稿をたずさえて、島村先生の許へ通って訳文を直していただいた。ほとんど三時間以上の睡眠をとったことは稀であった。本当に「身をすててこそ」といった気持であった。この辞典がもし売れてせめて家族を路頭に迷わせないだけの収入さえ確保されたら、あこがれの英国へ一日も早く行こうという考えであったが、それは遂に見はてぬ夢に帰した。また余り年をとらないうちに東京へ出ようという考えもあり、そういう誘いもうけたが、そのうち心境が変化して都ばかりが文化の中心ではない、自分の居るところが自分にとっては世界の中心である。たとえいかなる僻地〈ヘキチ〉にあつても文化的活動ができるということを悟って、山形に落着くこととなり今日に至った。

 以上が、「4.辞典編集の苦心」で、このあとに、「5.傾く齢の慰め」および「附言」があるが、これらの紹介は割愛する。
 なお、『山形大学 英語英文学研究』第3号所載の「記録(Ⅲ)」などによって、以下の事実がわかる。
 山形大学教授にして山形英語英文学会会長の田中菊雄は、1956年(昭和31)11月3日に開かれた第四回山形英文学大会(山形英語英文学会と山形大英文研究会の共催)において、「英語遍歴五十年」という講演をおこなっている。これに先立って、田中は、東北英文学大会においても、同じタイトルで講演をおこない(日付は不明)、同年12月15日には、秋田大学英文学会でも、同じタイトルで講演をおこなった。『山形大学 英語英文学研究』第3号所載の「英語遍歴五十年」は、これらの講演の内容をまとめたもので、擱筆は、「昭和三十一年のクリスマス前夜」(1956年12月24日)だという。

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