◎吉本隆明の思想は英訳不可能(山本哲士)
一昨日、昨日の続きである。
山本哲士氏の〝吉本隆明と『共同幻想論』〟(晶文社、二〇一六)は、本文五四三ページもある大著である。この本は、吉本隆明の『共同幻想論』を解読、解説した本だが、山本氏が、どういう立場、どういう問題意識に立って、吉本隆明の思想を紹介しようとしているかを知るためには、「あとがき」(五三七~五四三ページ)を読むのがよいだろう。
以下に、その一部を引いてみる(五四一~五四二ページ)。
吉本本質思想が、世界線で常識基盤となる日がくるのを待つのみです。それは、へーゲル以来の、思想的転換が世界で起きていくときです。わたしたちは、それに先行してもう思考しているのです。日本語で吉本さんを読めるからです。ほとんど欧米人の彼らは読めない。こちらは英語やフランス語などを読めているのに、彼らは日本語を読めていない。遅れているのです。寿司を食べているだけです(ブルデューが『国家について』で日本に触れているのですが、あきれるほどの無知です)。
吉本著作の英訳は、『心的現象論』だけはそのシニフィアンを減少させて意味されたものを伝えることで本筋がぶれませんから英訳は可能であると思いますが、『共同幻想論』や『言語にとって美とはなのか』などは絶対的に不可能です。吉本言説表出は、述語的言語思考の窮極ともいえる固有の思考概念創造世界で、それを主語・述語・コプラの英仏独などの構文に翻訳することは、概念空間や言説編制に大きな歪みをもたらします。言表一つさえ文化的・思想的な意味がずれ、その意味化連鎖は吉本思想から遠のきます。思想的自己表出は完全に非価値化される。わたしの編集する雑誌で、吉本思想の本質が表明され比較的シニフイアンが減少されても大丈夫だろうとふんで、アジア的なものに関わる「良寛論」を長さも考慮して選択し、日本語英訳で経験あるネイティブな方にやってもらいましたが、不可能である結論に達しました。吉本さんに英文表記としてはなされているが別物であると了解をいただき掲載はしましたが、今後の課題、限界をむしろ提示するためのものにするほかなかった。これを「誤訳だ」と一言いっておきたい、と今頃知ったかぶりの軽佻浮薄な三流の学者・評論家が批判しているようですが、誤訳などの次元の問題ではない。言語構造の決定的なトランス不可能さにくわえ、欧米での日本思想・哲学への文化的蓄積のない無知な歴史過程は、言語的に追いついていないという問題です。源氏物語から近現代日本文学、西田哲学、武蔵の『五輪書』など英訳がありますが、すべてとんでもない誤訳です。しかしそれを誤訳などと言っても何の意味もない。述語制言語を主語制言語に翻訳するトランスの理論技術・言語技術が発明・形成されない限り不可能です。逆において、日本語は主語もないのに主語化ランガージュの擬制発明(従属部を主語と転化し、be動詞を助動辞へ転化するなど)を百年かけて似非〈エセ〉学校文法化さえして、国民総体に嘘を教えてまでやってきたのです。それでも、いまだに誤訳だらけです。助辞、助動辞などは欧米にない、それは前置詞ではない、人称も単数複数の区別も日本語にはないのです。表出の機軸がトランス不可能なのを、語学優等生たち低知性が訳において自覚さえしていないことが問題なのです。まして、理論表出ではない、思想表出です。われわれがマルクスやフーコーを原文で読んで格闘してきたように、欧米側が、吉本思想を日本語で読む格闘に入らねばならない、それが最初です。『心的現象論』は英訳されたなら、誤訳不可避であれ、欧米はぶったまげて吉本思想を日本語原文で読もうということになるかもしれない。欧米の日本研究者たちの水準総体が低すぎるのです。
吉本隆明の「読み方」として、ここに提示されているような「読み方」が唯一のものでないことは、もちろんである。しかし、吉本隆明自身は、ことによると、こういう「読み方」を期待していたのかもしれない。
少なくとも、山本哲士氏はそのように信じて、吉本隆明を解読し、解説し、そして、そのことによって氏は、まさにいま、吉本隆明を乗り越えようとする境地に達しているのではないかと、勝手に忖度した。
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