礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家の経済を「消費経済」と捉えてよいのか(大熊信行)

2019-12-26 02:52:07 | コラムと名言

◎家の経済を「消費経済」と捉えてよいのか(大熊信行)
 
 大熊信行『国家科学への道』(東京堂、一九四一)から、「経済学における『家』の発見」の節を紹介している。本日は、その二回目。原文で、傍点が施されていた部分は、下線によって代用した。

 家【いへ】の経済をもつて『消費経済』なりとする見解は、自由主義的な生活意識の最高の表現であり、これを支へるものは極大満足説以外の何ものでもない。消費の「合理性」を保障する唯一無二の原理は消費選択の自由である。それは機械的な均衡理論を充たすための全く空虚な理念にすぎず、生活合理性の内容が何であるかを分析することができぬ。この意味の分析力を欠いてゐるといふことこそ、実に現代の価格科学の根本特徴である。
 われわれは古典学派が『生産的消費』および『非生産的消費』といふ論争的な題目をもつてゐたことを想起することができる。この範疇は生活者の一切の消費を国民経済的見地において二類別するものであり、人々の一回の食事においても、生産的意義をもつ部分と、さうでない部分とのあるべきことを思念するものであつた。それはまさしく生活合理性の観念を素樸ながら内在せしめたものであり、一つの批判力を秘めたものであつた。しかるに今日においては、『生産的消費』とは一般に財貨の生産における生産財消費を意味し、そして家の経済におけるものは、これにたいして『最終消費』と名づけるのである。それはもはや事物の本質把提を断念したところの概念であるにすぎぬ。われわれは営利概念を中心として整序された思惟形式を脱却して、もういちど生活の本質把握へ還らなくてはならぬ。
 現代の均衡理論が、その理論の純粋化のために、古典派以来のいかに多くの貴重なる思惟の要具を犠牲にしたかは驚くべきものがある。それは戦時下にいふところの消費規制の問題を論ずることができず、消費の合理化、生活の合理化とは何かといふ問題にさへ、答へる方法を知らぬ。それは他のあらゆる部分の退歩によつて到達した価格科学である。
 およそ国民生活において、主観的な欲望と客観的な『必要』とのあいだに、質的にも、量的にも、いかに大きな懸隔があるかといふ問題は、自由主義経済学が問題として自覚したこともなく、いはんや問題として取扱つたことの全然ないものである。主観的な欲求の無批判性にたいして、客観的な『必要』の論理にめざめたわれわれの立場からこれを見るならば、自由主義経済学にいふところの消費秩序の合理性なるものの論理は、全く空白性のものであり、価格形成論の機械論的目的によつて規定されたところの、むしろ非合理な『強さ』の概念のうへに立つたものにほかならぬ。価格経済学は消費秩序の形式的合理性を前提とするが、しかしその合理性なるものは決して内容的な生活合理性ではない。【以下、次回】

 言い回しは難しいが、要するに大熊は、「家」を人間再生産の場と位置づける立場から、自由主義経済学が「家」の経済を「消費経済」と捉えていることに異を唱えているのである。

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