礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家の経済の合理化は生活再生産の合理化を意味する

2019-12-27 00:09:33 | コラムと名言

◎家の経済の合理化は生活再生産の合理化を意味する
 
 大熊信行『国家科学への道』(東京堂、一九四一)から、「経済学における『家』の発見」の節を紹介している。本日は、その三回目。

 生活の現実において、われわれの生活判断は、一日といへども経済学的な合理性の追求のために作用してゐるものではない。われわれの判断は、つねに内容的な生活合理性の追求に向ふことによつて、われわれをして人間的または国民的なることを得せしめてゐるのである。主観的な、非合理な欲求の強さを制して、むしろ客観的な、生活合理的な『必要』を追求することのなかに、現実の日常生活はある。それは本来的に戦時だけの問題ではない。『消費の合理化』といふ一つの合言葉が指し示す方向は、たゞそのやうに理解することによつてのみ、理解される。おなじく自由主義経済学とはいへ、古典派が、この点において限界学派よりも遥に豊富な 着想をもつてゐたことは、更めて〈アラタメテ〉かへりみられなければならない一事である。
 消費経済の合理性なるものは、しからばいまや語義が二つに割れた。一つは全く空白な機械論的思惟の産物であつて、自由主義的な経済学者の所有に属するもの、他の一つは客観的な生活必要の規制を追求するところの国民的思惟によつて支へられたものである。
 物財中心の自由主義経済学が、物財生産の組織としての企業の立場に重心をおいたことは不思議ではない。しかしわれわれの思惟はすでにそれと同時に、人間生産の組織としての家【いへ】の経営に同等の重点をおく。企業すなはち物財生産における合理化の過程なるものは、逆説的にいへば実は一般に生産の必然的反面である生産財消費の過程における合理化であつた。これに反して、家【いへ】の経済、すなはちいふところの消費経済の合理化なるものは、実は生活再生産の合理化を意味するものにほかならぬ。人間は生理的存在であると同時に心理的・精神的存在である。家畜家禽の飼育における経営原理はそのまゝ人間のための原理ではない。さりとて基本的に異なる原理が別に人体のために存在するのではない。営養学や衛生学が追求するものは客観的な方向である。客観的なものの追求において、われわれはそれらと方向を一つにしなければならぬ。もちろん、総力科学が自己の領域を見いだすのは、それらのものの綜合においてでなければならぬ。
 いはゆる生産経済とは物の生産経済の意味であった。しかし物の生産経済の反面は物と労働力の消費経済である。いはゆる消費経済とは物の消費経済の意味であつた。しかし物の消費経済の反面は人間の生産経済である。
 いはゆる生産の合理化の本体は、物の再生産における物および労働力消費の合理化であつた。
 いはゆる消費経済の合理化の本体は、生活の再生産における物および時間消費の合理化でなければならぬ。【以下、次回】

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