◎国民優生法は「人口問題の本質」を規定したもの
戦前戦中の政府広報誌『週報』のバックナンバーを閲覧していたところ、「国民優生法解説」という記事を見つけた。『週報』第二四四号、一九四一年(昭和一六)六月一一日発行。この当時の編輯者は「情報局」、印刷者および発行者は、「内閣印刷局」である。
当該の記事は、同号の巻頭にある。長いので、何回かに分けて紹介する。文中、太字になっているところは、引用にあたっても太字にした。なお、「国民優生法の公布は、一九四〇年(昭和一五)五月一日(昭和十五年法律第百七号)、施行は一九四一年(昭和一六)七月一日である。
国 民 優 生 法 解 説 厚 生 省
国民優生法はなぜ必要か
国民優生法【いうせいはふ】はいよいよ来る七月一日から実施されることになつた。国民優生法といふと、何か特別に厳【いか】めしい感じを受ける人も少くないやうだが、元来、本法の目的とするところは第一条に掲げてあるやうに、悪質の遺伝病者を減少させると同時に、健全者の増加を図つて、国民素質の向上を期することにあるのであつて、人口問題の本質を規定したものといふことが出来る。本年〔一九四一〕一月二十二日の閣議で決定をみた人口政策確立要綱【えうかう】が、増殖力と資質において他国を凌駕する健全人口を昭和三十五年〔一九六〇〕までに一億に増加させることを目標としてゐるのを見ても、この関係は容易に理解されるのである。実に国力の基礎は国民の人口である。そして、その人口は何処までも健全でなければならない。
ムッソリーニはこれを「人口戦」と表現【へうげん】したが、まことに適切な言葉である。我々は、まづこの戦ひの勝者とならねばならない。しかも、この戦ひは容易でない難戦であることを覚悟【かくご】しなければならない。古来民族の興亡史を繙【ひもと】けば、誰もが気づくのであるが、いづれも全盛期に達して文化が爛熟【らんじゆく】すると、漸く健全者の出生は低下し、不健全者の増加が顕著となり、いはゆる民族変質の徴を示し、終〈ツイ〉には滅亡の運命【運命】を辿るのが例である。この原因の主なものは健全者の産児制限による出生減少と不健全者の無自覚な増殖であるといはれてゐる。このやうに人口戦の敵は内在してゐる。外の敵には打ち勝ち易いが、内の敵は容易なことでは征服できない。これが難戦である所以【ゆゑん】である。
わが日本民族は二千六百年の光栄ある歴史を有し、将に東亜の新秩序を完成せんとしてをり、その量も質も極めて優秀な民族であるが、近時の著るしい社会情勢の推移に伴ひ、これを放置するときは独り民族変質から超然【てうぜん】として免れてゐることは出来ない。欧米文化諸国を蚕蝕【さんしよく】した変質は漸く我々の足下にまで迫つて来てゐるのである。最近わが国の出産率の逓減【ていげん】と精神病者の激増はこれを証明する手近な例である。
精神病者の数は昭和元年〔一九二六〕には約六万人(人口一万に対する割合は九・九八)であつたが、昭和十三年〔一九三八〕には約九万人に増加し(人口一万に対する割合は一二・五五)てゐる。この数字は警察の台帳を基【もと】としたものであるから実際はこれより遥かに多いことが予想される。勿論、精神病の原因は多種多様であつて黴毒【ばいどく】その他の外因によるものも多いが、先天的遺伝【ゐでん】的のものも少くない。そして、その激増は主として後者の増加のためである。
同じやうなことは失明者についてもいへる。昭和六年〔一九三一〕の調査【てうさ】では盲人数は七万六千人で、その中、先天的なものは約二千人であつたのに対し、昭和十一年〔一九三六〕の調査では盲人数六万八千人、先天的のものは約四千人であつた。即ち、後天的盲は減少してゐるのに先天的盲は倍加【ばいか】してゐる。
このやうに不健全素質者の漸増は健全者の漸減と共にますます顕著にならうとしてゐる。こゝに国民素質の向上と人口増加を目指す国民優生法を必要とする所以がある。
以上、国民優生法の国家的重要性を述べたが、不健全素質者殊に悪質の遺伝病患者は本人にも家族にもまことに気の毒であるばかりでなく、犯罪性や社会不適応【てきおう】性があるから、社会にとつても大変困つた問題である。いま、犯罪性を例にとると、常習性犯罪者や青少年受刑者の三〇%、収容中の不良少年の七五%、浮浪者の過半数は精神欠陥【けつかん】者とみてよい。また、殺傷、放火等の兇悪な犯罪者の中で精神鑑定の結果、顕著な精神病や白痴【はくち】であることが見出され、心神喪失として不起訴となるものが毎年六百人前後に上つてゐる。もつと軽い精神欠陥者の犯罪に到つては恐らく非常な数に上ることと思はれる。
これ等の犯罪は精神欠陥者を減少すれば容易に防止【ばうし】できるものである。即ち、遺伝的欠陥者の発生を防【ふせ】ぐことは 民族悠久【いうきう】の問題ではあるが、また、実に国家社会の経済上、犯罪防止上及び個人の福祉【ふくし】上、その他有形無形の効果を十分に期待出来るものである。
このやうに、国民優生法は人口問題の基調【きてう】をなすものであるから、単に法文に規定されたところに限らず、今後企画し、実施さるべき各種の人口政策はいづれもこの精神の上に樹立【じゆりつ】されねばならない。例へば、婚資貸付にしても産児奨励にしても、健全者の増加を目標とする以上は当然優生学的の考慮を必要とするからである。【以下、次回】