性善説に立つのか性悪説に立つのかによって、思考は全く異なった経過をたどるだろう。
生きる時どちらに立つのがより楽かと考えれば、どうかなぁ。
日本の教育では性善説をとっている場合が多いのだろうけれど、年齢を重ねるうちに、小さな悪事を重ねる他者を目撃したりして、結局のところ性悪説に傾いていくことが多いのではないだろうか。
安定した社会にあるときは、一生を性善説に立って終えることのできる人も多いのだろうが、こう乱れてくるとね。
単純に、経済的環境によって善悪が決定される訳でもないところがもどかしい。
私は、お嬢さん学校でならした学校に通うお嬢ちゃんが、いわゆる窃盗に類する犯罪行為に何のためらいもなく走るのを目撃して以来、経済的物差しが善悪の判断基準にはつながらないと悟ったけれど。
昔から子供の童話などには、経済的に豊かな家の意地悪な子が、貧しい家に育つ健気な主人公をいじめる…なんてストーリーはありふれていたけれど、雑多なストレスやコンプレックスが人間をゆがめてゆくものなのだろう。
初め性善説に立っていた人間が、性悪説に転向して行く過程が、一番生きにくくて面白くない。初めっから性悪説で生きていれば、変わってしまった自分の感覚を嘆く必要もないのだろうから。
生きる時どちらに立つのがより楽かと考えれば、どうかなぁ。
日本の教育では性善説をとっている場合が多いのだろうけれど、年齢を重ねるうちに、小さな悪事を重ねる他者を目撃したりして、結局のところ性悪説に傾いていくことが多いのではないだろうか。
安定した社会にあるときは、一生を性善説に立って終えることのできる人も多いのだろうが、こう乱れてくるとね。
単純に、経済的環境によって善悪が決定される訳でもないところがもどかしい。
私は、お嬢さん学校でならした学校に通うお嬢ちゃんが、いわゆる窃盗に類する犯罪行為に何のためらいもなく走るのを目撃して以来、経済的物差しが善悪の判断基準にはつながらないと悟ったけれど。
昔から子供の童話などには、経済的に豊かな家の意地悪な子が、貧しい家に育つ健気な主人公をいじめる…なんてストーリーはありふれていたけれど、雑多なストレスやコンプレックスが人間をゆがめてゆくものなのだろう。
初め性善説に立っていた人間が、性悪説に転向して行く過程が、一番生きにくくて面白くない。初めっから性悪説で生きていれば、変わってしまった自分の感覚を嘆く必要もないのだろうから。