日本人全員が、そして世界の大部分が驚き、悲嘆した
あの日から一年が経過しました。
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このコラムは2012年3月12日に発信しました。
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改めて東日本大震災及びその後の津波で
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。
また、ご家族、友人を亡くされた方、
ご自宅、事務所等を失った方、
田んぼや漁船等の生計の中心となる資産を失った方
住み慣れた故郷に戻れない状況の方、
経済環境の悪化で仕事を失ってしまった方、
に心からお見舞い申し上げます。
一年前にも書きましたが、今回の地震で、特に日本人は
「当たり前のことが当たり前でなくなる瞬間がある」
という事実を突き付けられたのだと思います。
日本では、
スイッチを押せば電気が使え、
コックをひねればガスがあり、火が使え、
蛇口をひねれば安全に飲める水道水が出て、
ほとんど時間に正確な移動手段が複数あり、
指先一つであちこちに連絡ができ、
端末さえあれば、欲しい情報がすぐ手に入る。
そんな暮らしが当たり前でした。
それがある瞬間を境に何の準備も、抵抗もできないまま、
そういった「当たり前」がなくなる。
不便という次元ではなく、すべてが「手探り」の状況。
そんな急激な変化に従わざるを得ない事態がこの世の中にあったのです。
あれから一年、悲しみの中にも前を向いて生きようとする
さまざまな立場の方の努力がありました。
私の友人にもボランティアとして週末東北で活動している
人間が複数います。
まだまだ十分ではないのでしょうが、復興に向けて確実に
進んでいるのだと感じています。
途上国の災害復興を見ていると、政府の動きが遅かったり、
被災地で自分勝手な行動が増え(やむを得ないことですが)、
結果復興への歩みが極端に遅れたりという事態を経験することがあります。
そのため、復興中に次の災害がくるということもしばしば。
東日本大震災では、混乱がまったくなかったわけではないですが、
途上国に比べ圧倒的に円滑に進んでいるように見えます。
(Ozaki自身も被災した)阪神大震災の際には向こう10年
このあたり一帯は「被災地」のままではないか、という
印象を当初受けましたが、かなりのスピードで復興を遂げました。
(もちろんその裏にはとてつもない努力があるわけですが)
失った暮らし、故郷、財産、そして失われた命。
これらは帰ってきませんが、途方に暮れるだけではない、
日本人の前向きな取り組みに改めて敬意を表し、Ozakiも
自分ができることにしっかり取り組みたいと考えています。
ただし、一点やはり忘れてはいけないと思うことがあるのです。
それは次いつ、どのような形で、どのような規模で今回のような災害が
発生するかまったくわからないということ。
予想はできても未来を確実に予測することは不可能です。
日本で暮らされているみなさんはご承知の通り、
現在東京直下型地震の危険性が指摘され始めています。
東北地域と比べれば被災する人口は圧倒的に多いでしょうし、
経済的にも被害は想像を絶する額になるかと思います。
(日本の年間国家予算90兆円に対し、112兆円という被害額予想です)
また、東南海・南海地震、東海地震でも被害はかなり大きくなるはずです。
不安を煽る意図は全くありませんが、一般論として
東日本大震災が発生したからといって、地震が当面来ないということはありません。
ひょっとすると日本を取り巻くプレートの動きが活動期に入っており、
それほど時間を空けずに次の大きな地震(群)が来るかもしれないのです。
そしてそれらはいついかなる状況で発生するか、は不明です。
我々が死んだ後であろう100年後かもしれませんし、
我々の体が弱ってきている30年後かもしれませんし、
ひょっとすると明日、明後日であってもおかしくありません。
地震の他にも富士山の噴火であるとか、
地球規模の気候変動に伴って洪水や大寒波などもあり得ます。
一時的な気温の変化だけでなく、日本の平均気温が上がり、
東南アジア諸国のような亜熱帯、熱帯になるという予測もあるようです。
こうなると四季がなくなり、日本での生活を大きく変えざるをえないでしょう。
日本は世界中の国で最も暮らしやすい国の一つではありますが、
多くのプレートがせめぎ合っている地域に位置しています。
そして人間は地球という大きな「器」の上のほんの表面に
しがみついて生きているに過ぎないのです。
そのため環境の変化が起これば否応なく巻き込まれます。
昨年の地震は改めて
災害が常に起こりうるということ、
明日、明後日にも現在の「当たり前」は強制的に転換されうるということ、
そしてそれでも人間は生き残れる可能性があるということ、
を我々日本人に強く思い起こさせた出来事でした。
であればこそ、一日一日を大切に、そして悔いのないよう生きる
そういった姿勢が常に大切なのではないでしょうか?
常に全力疾走は無理であっても、自分のペースで一歩一歩走り続け、
「このくらいはいいか」と手を抜かない。
経年優化の発想の繰り返しになってしまいますが、この考え方が
とても重要なのではないか、とあの日の出来事から考えさせられました。
上述したような突発的な大転換が起こったときサボっていたことを
後悔しても遅いはずです。
自分なりのベストを尽くしていてもどのような状況に置かれるか
予測できないですし、きっと被害もあるのでしょうが、
手を抜いているとそんな時にその分しっぺ返しがきます。
自分自身が日々納得し、後悔のない一日を過ごす。
そんな生活を送りたいと心から願っています。
辛いようですが、過去は変えることができません。
そして未来は予測できません。
過去と未来の中間、すなわち現在は英語でpresent。
どんどん過ぎ去ってゆく現在という時間はまさに自分に与えられた
貴重な貴重な「プレゼント」なのです。
そのプレゼントをどう使うかは我々次第なのだ、そんな風にOzakiは考えます。
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