36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

自分自身の正体は?

2012-12-27 00:35:07 | 意識を整える
 抽象的かつ諸説分かれそうな話ではありますが。

タイトルに持ってきた「自分自身の正体は?」という問い、皆さんは、ご自身の本質はどこにあるとお考えでしょうか? おそらく身体的にどこかに本質があるとは思われないはずです。

 指を失っても
 手を失っても
 足を失っても
 胃を失っても
 目や耳を失っても
 複数の器官を失っても

ご自身がご自身であるという事実に変わりはないとお考えになるはずです。

 例えばOzakiが手を切断せざるを得ない場合でも
切断された手は「Ozakiの一部」であっても「Ozaki」ではないでしょう。また、Ozakiが歩けなくなったり、目が見えなくなったとしても、歩くという機能、モノを見る機能は「Ozaki」ではありません。このようにして考えると自分とは詰まる所「頭脳」なのではないでしょうか?Ozakiはこの考え方に辿り着きました。

 自分の身体的な部分や機能を失っても自分は自分。でも自分自身の経験値や知識やアイディアなどをすべて失ってしまえばそれはもはや自分とは言えないのではないか?

 例えばOzakiが記憶を失った場合などはどうでしょうか?Ozakiは周囲の人がどんな人なのかわかりません。逆にOzakiを知っている人も今まで同様の付き合いは難しいでしょう。それまで培ってきた人間関係や発想、判断基準、感情などの組み合わせがOzakiという人間を作り上げているのではないかとOzakiは考えています。



 そういった目に見えない組み合わせが「頭脳」であり、自分自身であるなら、やはり生きていく上で大切にしなければならないのも「頭脳」でしょう。目に見える容姿や器官ごとの高い機能は生き残る上で役に立つことはあっても、自分という人間を支える補助的な部分なのだと思います。

 どんな経験を積み、
 どんな判断を積み重ねてきて
 どんな発想を生み出し
 どんな人と付き合ってきたのか

といった組み合わせが自分自身の本質ではないかとOzakiは思うのです。

 もしそうなのであれば、じっくりと磨いていくべきは目に見えない部分。経年優化で一番意識して鍛えなければならないのも目に見えない部分。目に見えないので、なかなか成長の実感はもてないかもしれません。しかしながら、どんな経験や判断、発想、人脈も無駄にならないと考え、「頭脳」の経年優化を目指せば必ず自分自身は豊かになる。

 このように考えて今週も行動し、勉強し、人生を楽しみたいとOzakiは考えています。

桃栗三年柿八年。達磨は九年、俺は一生。

2012-12-23 21:48:07 | 意識を整える
 
 さて、今回『36℃の経年優化』は100号を迎えることができました。(このコラムは2011年5月配信のメルマガコラムです。現在メルマガは178号まで発行しています)

「毎日少しずつでも続けることが大切なんですよ、そのためには短期間頑張ることよりも少しずつ『経年優化』を続けましょう」

がコンセプトのメルマガを2年間継続することができました。配信開始時点では自分自身でもここまでできると確信していたわけではありませんでしたが、一歩一歩、ほとんど休まず続けることができて感謝と安堵の気持ちで一杯です。読んでいただいている皆様、コメントを下さる読者の皆様に感謝です。

 このメルマガ創刊号でOzakiは以下のような【はじめに】を書いています。



 『時を経るごとに成長していく、深みを増していく、熟成していく人生、そんな「経年優化」を自然体で実現したいなと考えているOzakiです。毎日の暮らしの中で、better and betterを達成したい、でも一生がんばり続けるのは不可能だと思うのです。力を入れてがんばっていたら目的を達成したときにふっと息が抜ける、ひどいときには燃え尽き症候群のような事態にもなりかねません。もしそうなってしまったら当分は経年劣化状態になってしまいますよね。

 だからこそ平熱である36℃、自然体で「経年優化」を目指すんだ!という心意気をこめてメルマガのタイトルを『36℃の経年優化』にしました。そもそも自然体で生きるというコンセプトですので、メルマガも自然体、肩肘張らずOzakiの成長、考え、奮闘ぶりをお伝えできたらなと思います。』



 成長しているかどうか、は分かりませんが少なくとも二年間かけて「経年優化」の意識を体に染み込ませることができたと感じています。徐々に「経年優化」が自然体でできるようになってきている気がします。

 ただ、これで安心、とはとても言えません。まして、これで成長を止めてもいい、とは決して思いません。



 一つの節目を迎えた自分に、そして読者の皆様にも紹介したい言葉を今回は取り上げたいと思います。それはタイトルにもありますが

 「桃栗三年、柿八年。達磨は九年、俺は一生。」

という言葉。これは小説家の武者小路実篤が残した色紙の言葉だそうです。

「桃や栗は実がなるまでに3年、柿は8年かかる。インド出身の仏教家で禅宗の開祖とされている達磨大師は9年間壁に向かって座禅を行い、悟りを開いたという言い伝えがある。俺(実篤)は一生かけてじっくりと実っていくのだ。」


という趣旨の言葉だとか。事実、武者小路実篤は90歳まで長生きし、死の間際まで文学誌などで活躍していました。

 武者小路実篤ですら、熟するのに一生かかる、ということですから、Ozakiなど5回、6回分生きなければ成熟できないのかもしれません。それでも、一生の一日、一日をしっかりと生きて、少しでも新しい経験、知識、人脈、考え方などに触れたいと思います。

 その結果、なにか大きなことを成し遂げられるかどうか、は分かりませんが、年月をかけて「経年優化」した結果、納得の行く一生を過ごしたいですね。

 変化の早い時代ですから、そんな悠長なことをしてられるか!というご意見もあるかと思います。
目一杯アクセルを踏んでキャリアアップしたり起業したり、も「アリ」でしょう。

 ただ、Ozakiはじっくりどっしり一定以上のペースで毎日少しずつを目指します。1日0.1%成長するだけでも一年後には144%成長します。5年で620%、10年で3840%・・・、たとえ一日の成長量が少しでも複利効果は大きいのです。一気にアクセルを踏むよりも、長い間続けることの方が大切。これはOzaki自身の、そしてこのメルマガのコンセプトです。



 100号は一つの節目ではありますが、通過点。この先も「経年優化」目指して頑張って参りますので、引き続きご愛読いただければ幸いです。
 これからも宜しくお願いいたします。

何になるか、ではなく、何をやるか

2012-12-19 19:04:02 | 仕事術

 先日電車の中で数人の大学生同士の会話が耳に入ってきました。あまり詳しくは覚えてないのですが、要するにどこに就職するか、という話。

 文系だからこの職種は無理。
 女子だからこの分野ならいけるかも。
 理系だけどあえてこの分野なら簡単に入れるらしい。
 やっぱり公務員が一番いい。

といった内容。
彼らは

 自分がやりたいことがある職場
 魅力を感じる職場

 ではなくて、

 自分が就職できる職場
 (楽に就職できて)待遇がましな職場

という基準で就職先を比較している様子。Ozakiが年を取ったのかもしれませんが違和感が残る会話でした。そもそも仕事は彼らのような視点で選ぶものではないんじゃないだろうか?とOzakiは考えているからです。

もちろん、学生の就職事情が厳しく、まずは何が何でも正社員!という発想も理解できなくはないのですが・・・。なにも最初から「自分が入れるのはどこか」と可能性を狭めて考えなくてもいいんじゃないだろうか、とOzakiは感じるのです。

彼らの会話だけを聞いて「最近の若い者は」と説教するつもりは毛頭ありません。まして、学生全体が↑の考えを持っているとは思っていません。しかし、学生に限らず少なからぬ数の人が「何になるか」で頭が一杯で、その先にある「何をやるか」にまで頭が廻っていないのではないかとも思います。



 「何をやるか」、というのはどういうことでしょうか?

 銀行員になるか
 モノやサービスの営業マンになるか
 土木関係の技術職になるか
 公務員になるか

 こういった選択肢は自分が「何になるか」を選んでいるのだと思います。これはあくまでも形式的な選択肢だとOzakiは感じます。本当に大切なのはその職業についた後「何をやるか?」という問いなのではないでしょうか?

 例えば時々日本の総理大臣総理を批判して


「総理になることだけを目指し、その先にどういう国を作りたいかがない。だから政権にしがみつき、一日でも長く総理でいることが目的になっている。」

という趣旨の文章を目にすることがあります。残念ながら現職の総理大臣の人となりに触れたことがないのでこういった論評が正しいか、はわかりません。

 ただ、総理になることだけを目的とした人がいたとして、その人が日本の総理大臣として居座ってしまうと大問題であるとは思います。やはり、日本のトップは「総理大臣になって○○をやる!」「日本を○○な国にする!」という考えを持った人が必要ですよね。

 同様に、「将来社長になる!」ではなく例えばワタミの渡邊さんのように「社長になって世界一ありがとうを集める会社を作る」という明確な志を持った人が会社のリーダーになるべきではないでしょうか?

 社長になることを目的に頑張ってしまうと社内のライバルを蹴落とし、出世競争に勝ち抜くことだけを目指すような人になってしまいます。ひとたびそういう人が社長になると「社長であること」を自慢し、立場と権限を振り回すような社長になりかねません。なぜならば社長になることがゴールであり、「社長になったから○○をやる!」という考え方がないからです。



 総理だ、社長だ、と話が大きくなってしまいました。しかしながら、「何をやるか」が大切なのは学生の就職も同じこと。いや、今仕事をしているほとんどの人に当てはまる話のはずです。

 銀行の一銀行員として中小企業と一緒にビジネスを発展させる!
 営業マンとして、お客様の笑顔をできるだけ増やしたい!
 地図に残る仕事を通じて、日本の国づくり、世界の国づくりに貢献する!
 市民、国民の生活を守るためなら自分の一生を賭けられる!

そのようにやりたいことがあるからそのために職業、職種を決める。この順番で考えたほうがずっと生き生きと働けるのではないかと思います。

 ですので、「○○になりたい!」という時には、もう一歩踏み込んで「○○になって、△△をやる!」と言えるような仕事を選ぶ。Ozakiはこの考え方を大切にして生きていこうと思います。



 ドラッカーの名言とされている言葉に

「あなたは何によって覚えられたいか?」
(What do you want to be remembered for?)

というものがありますが、それに近いテーマかもしれませんね。

行動半径の拡大が自信を生む

2012-12-16 06:49:56 | 意識を整える

 皆さんはご自身に自信、ありますか?

 特定の能力や、特殊な技能、経験の豊富さ、もしくは最後まで倒れない体力。どんなことでもいいのですが、何かに自信を持っている方はとても魅力的ですし、何かといい運に巡り合えるようにも思います。もちろん、自信だけでは乗り越えられない試練や難問もたくさんありますが。



 自信を持っている方は生きていることに前向きですし、落ち込む時があったとしても基本的にご自身を好きな方が多いようです。また、自信を持っている方は新しいチャレンジを恐れることが少なく、困ったことが起こってもなんとかするぞという意思をお持ちで、同時になんとかなるさ、という楽観的な思考回路の持ち主であるように思います。そして、そういう方はお付き合いさせていただきたい!、と強く感じるような魅力的な方が非常に多いとOzakiは感じています。

 これらは印象論ではありますが皆さんはどう感じておられるでしょうか?


 こういう人たちの魅力、自信はどこから生まれているのでしょうか?いろいろな意見、見方はあるでしょうが、魅力を生み出す要素の一つに彼らの行動半径の広さがあるのではないか、とOzakiは考えるようになりました。



 人間、どうしても安定を求める傾向にあります。

 今までやったことがあるもの、
 自分が結末をある程度予測できるもの、
 なんとか解決できそうだ、と直感的に感じるもの 

 と

 今までやったことはおろか、やっている人を見たこともないもの、
 自分が結末を予想できないもの、
 解決策はもちろんのこと、何がどう問題を起こしているかわからないもの

であれば、誰だって後者に不安を抱くはずです。

 自分がこれまで経験してきた枠の外の「未知」の世界だからでしょう。当然のことながら、自分がそれをやれる、乗り越えられる、という自信はまず持てないはずです。



 しかしながら、自分の自信があることばかりをやって、自分の安心できる行動半径の中だけで暮らしてしまうとどうなるでしょうか?自信の枠を超えた行動をしないため、自信を育てることができません。そうなると「未知」の世界はいつまでたっても「未知」の世界。人によっては自信を喪失しないために、自分を傷つけないために狭い行動半径の中で一生を終えるという結果になるかもしれません。


 価値観は人それぞれですので、そういった生き方を100%否定する気はありません。ただ、Ozakiが出会ってきた魅力的な方々は逆の生き方でした。そしてOzakiも刺激を受けてきた魅力的な方々のように生きたい、と願っています。



 Ozakiは魅力的で、周囲の人にも刺激を与えられる存在を目指すためには↑とは逆のアプローチが必要だと思います。つまり行動半径を広げて、広げて、その結果、自信を積み重ね、魅力がにじみ出るというレベルまで行動するのです。

 これまでの自分の行動半径をはみ出ることは確かに不安です。大きな恐怖や悩みを感じることもあるはずです。ただ、その不安や恐怖、悩みは自分だけが感じているのではなく、今大きな結果を残し、自信をもって生きている人たちも当然感じてきたはず。例え順風満帆で成功してような人であっても、です。

 そういった不安や恐怖、悩みを向き合い、乗り越える。自分の経験の枠、自信の枠を超えた「未知」の世界に行動半径を広げたからこそ、彼らは経験を、そして自信を積み重ねてこれたのではないでしょうか?

 今自分が持っている経験や自信の枠を取り払い、

 なんだか少し怖い、
 この先どうなるかわからない、
 本当に自分にやりきれるんだろうか、

そう感じるような世界に行動半径を広げることが皆さんの自信につながり、その結果他人にも刺激を与えられるような魅力的な人になれるのではないか。Ozakiはそんなことを考えています。

説明しようとして気付くこと

2012-12-08 16:25:57 | コミュニケーション

 何かを学んでいる時、なんとなく分かった気になることがありませんか?

 その分野のことが感覚的にわかった気がする
 その分野の全体像が頭に入ったな、と考えられるようになる 
 ざっと説明文を読んでも理解ができるようになったと感じる   

そんな感覚になるタイミングがあることを皆さんも経験されていると思います。

 学び始めた当初は右も左も、何もわからないわけですから、その分野の専門用語や基礎知識がわかるだけでも大進歩。一定のところまで勉強が進むと分かったような気になるのは当然です。

 試験勉強なら問題が徐々に解けるようになるでしょうし、
 専門雑誌を読んでいてもあー、なるほどと納得できるでしょうし、
 その分野の専門家と話をしてもついていけるようになるかもしれません。


 ところが、誰かに説明しようとすると、詳しく説明できないことがあります。「自分がある程度理解した」と思っていたことでもその分野のことを知らない人に対して説明をはじめると、

 説明している時に混乱しはじめたり、
 思いがけない質問をもらって答えに窮したり、

ということがよく起こります。

 自分で理解したと思い始めるレベルと本当に分かっているレベル。これは全く違う段階なのだ、ということだとOzakiは考えています。そのレベルの格差は自分自身では気づくことが難しいもの。自分ひとりでは、↑のように分かった気になってしまうからです。

 そういう時オススメなのはあえて「説明してみる」ということ。自分が勉強していることで、少し分かるようになってきたな、と感じたらうまく説明できるかどうか分からなくても他人に説明してみるのです。

 上手に説明でき、なにも知らない人の質問にも答えられれば、それはかなりその分野のことがわかってきている証拠。自分の理解、勉強方法が間違っていないことを信じて勉強を続ければOKです。

 逆に説明しはじめて混乱や混同、質問に戸惑うようなことがあれば、少なくともそこはしっかりと理解できていない、ということです。説明できないことは学習しなおすポイント。どこをもう一度勉強しなおせばいいかわかるだけでも収穫です。

 説明しようとしてはじめて気付けることがあるのだとOzakiは思います。他人に対して説明しようとしてはじめて何がわかっていないか、が明確になり、自分の学習もよりスピードアップします。

 
 何かを学ぶ、知識を吸収する、新しい体験をする。そういった機会の後には必ず誰かに説明してみる。そうすることで、自分自身の学びは深くなるのではないでしょうか?文章でも口頭でもよいので、外に向けて学びや情報を発信することで、一番メリットを享受できるのは自分自身なのだとOzakiは考えています。

 ある教師の方から聞いた言葉ですが

 「教育は共育」

という言葉があるそうです。生徒を育てるということは自分も生徒と一緒に育つ事だ、という意味。

 自分が学んでいること、日々当たり前のようにこなしている仕事でもそれを知らない人や後輩、部下に対して説明しようとして、思いのほか自分が知らないことも多々あるということに気付くことがあります。

 誰かに説明をするということは自分もその人とともに育つこと。手間も時間もかかりますが、こう心で唱えながら勉強を続けたいものですね。