抽象的かつ諸説分かれそうな話ではありますが。
タイトルに持ってきた「自分自身の正体は?」という問い、皆さんは、ご自身の本質はどこにあるとお考えでしょうか? おそらく身体的にどこかに本質があるとは思われないはずです。
指を失っても
手を失っても
足を失っても
胃を失っても
目や耳を失っても
複数の器官を失っても
ご自身がご自身であるという事実に変わりはないとお考えになるはずです。
例えばOzakiが手を切断せざるを得ない場合でも
切断された手は「Ozakiの一部」であっても「Ozaki」ではないでしょう。また、Ozakiが歩けなくなったり、目が見えなくなったとしても、歩くという機能、モノを見る機能は「Ozaki」ではありません。このようにして考えると自分とは詰まる所「頭脳」なのではないでしょうか?Ozakiはこの考え方に辿り着きました。
自分の身体的な部分や機能を失っても自分は自分。でも自分自身の経験値や知識やアイディアなどをすべて失ってしまえばそれはもはや自分とは言えないのではないか?
例えばOzakiが記憶を失った場合などはどうでしょうか?Ozakiは周囲の人がどんな人なのかわかりません。逆にOzakiを知っている人も今まで同様の付き合いは難しいでしょう。それまで培ってきた人間関係や発想、判断基準、感情などの組み合わせがOzakiという人間を作り上げているのではないかとOzakiは考えています。
そういった目に見えない組み合わせが「頭脳」であり、自分自身であるなら、やはり生きていく上で大切にしなければならないのも「頭脳」でしょう。目に見える容姿や器官ごとの高い機能は生き残る上で役に立つことはあっても、自分という人間を支える補助的な部分なのだと思います。
どんな経験を積み、
どんな判断を積み重ねてきて
どんな発想を生み出し
どんな人と付き合ってきたのか
といった組み合わせが自分自身の本質ではないかとOzakiは思うのです。
もしそうなのであれば、じっくりと磨いていくべきは目に見えない部分。経年優化で一番意識して鍛えなければならないのも目に見えない部分。目に見えないので、なかなか成長の実感はもてないかもしれません。しかしながら、どんな経験や判断、発想、人脈も無駄にならないと考え、「頭脳」の経年優化を目指せば必ず自分自身は豊かになる。
このように考えて今週も行動し、勉強し、人生を楽しみたいとOzakiは考えています。
タイトルに持ってきた「自分自身の正体は?」という問い、皆さんは、ご自身の本質はどこにあるとお考えでしょうか? おそらく身体的にどこかに本質があるとは思われないはずです。
指を失っても
手を失っても
足を失っても
胃を失っても
目や耳を失っても
複数の器官を失っても
ご自身がご自身であるという事実に変わりはないとお考えになるはずです。
例えばOzakiが手を切断せざるを得ない場合でも
切断された手は「Ozakiの一部」であっても「Ozaki」ではないでしょう。また、Ozakiが歩けなくなったり、目が見えなくなったとしても、歩くという機能、モノを見る機能は「Ozaki」ではありません。このようにして考えると自分とは詰まる所「頭脳」なのではないでしょうか?Ozakiはこの考え方に辿り着きました。
自分の身体的な部分や機能を失っても自分は自分。でも自分自身の経験値や知識やアイディアなどをすべて失ってしまえばそれはもはや自分とは言えないのではないか?
例えばOzakiが記憶を失った場合などはどうでしょうか?Ozakiは周囲の人がどんな人なのかわかりません。逆にOzakiを知っている人も今まで同様の付き合いは難しいでしょう。それまで培ってきた人間関係や発想、判断基準、感情などの組み合わせがOzakiという人間を作り上げているのではないかとOzakiは考えています。
そういった目に見えない組み合わせが「頭脳」であり、自分自身であるなら、やはり生きていく上で大切にしなければならないのも「頭脳」でしょう。目に見える容姿や器官ごとの高い機能は生き残る上で役に立つことはあっても、自分という人間を支える補助的な部分なのだと思います。
どんな経験を積み、
どんな判断を積み重ねてきて
どんな発想を生み出し
どんな人と付き合ってきたのか
といった組み合わせが自分自身の本質ではないかとOzakiは思うのです。
もしそうなのであれば、じっくりと磨いていくべきは目に見えない部分。経年優化で一番意識して鍛えなければならないのも目に見えない部分。目に見えないので、なかなか成長の実感はもてないかもしれません。しかしながら、どんな経験や判断、発想、人脈も無駄にならないと考え、「頭脳」の経年優化を目指せば必ず自分自身は豊かになる。
このように考えて今週も行動し、勉強し、人生を楽しみたいとOzakiは考えています。