36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

自己犠牲は不幸の素(その2)

2015-11-28 00:08:47 | 意識を整える



 先週は自己犠牲によって気負うと見返りを求めてしまいがち、
自分が好き勝手やっていると気が楽になって、空回りしなくなります、
というお話しでした。



 こういった考え方は自分が嫌な作業をする時にも使えます。
どんな生活を送っている方でも、一日のどこか、一週間のどこかでは
必ず面倒だけどやらざるを得ないからやっているという作業が
あるのではないでしょうか?

 もしそういった作業を省けるのであれば、もしくは他の誰かに
完全に委託しきってしまえるのであればそれに越したことはありません。
しかしながら、世の中たいていの場合そうはいかないものです。
歴史を勉強していると王族や貴族、大富豪も悩みを抱えており、
場合によってはその悩みのせいで自殺している事例もあるのですから
本意ではないこと、やりたくないことはなくならないと言っても
過言ではないのかもしれません。

 しかしながら、面倒なこと、やりたくないことを「嫌だなぁ」と
思いながらやっているとそれはツラい以外の何物でもありません。
どうせやらねばならないことなのであればそれを面白がり、
むしろ自分の好きなように、やりたいようにやってみてはどうでしょう?



 お客様にお茶を出すのがいやだと言ったとしても、
自分で淹れざるを得ない時や場合もあるでしょう。
役員会議用の細かく、ミスが許されない資料作成は面倒ですが、
会社の重要な方針決定のためにはなくてはならないものです。
ゴミ捨てや洗い物、風呂掃除といったものは堀江貴史さんは数万円で
外注すべきと主張しますが、そう簡単ではないから議論が起こるのです。



 こういった物事に取り掛かる時、本当に嫌だと思ってやるよりは

 こうやってやるとうまくいくのか
 こんな工夫をしたら相手が喜んでくれた
 時間短縮のために面白い道具がないか探して使ってみた

と「自己犠牲」から「自己満足」に思考を切り替えると
気持ちが前向きになることは簡単に想像できるのではないでしょうか?
どうせなら、幸せに、ポジティブな気持ちで暮らしたいですよね。



 今ストレスを感じる作業があるのであれば、
逆にその作業を楽しめる余地がないか、自己満足につなげる考え方がないか、
見つめなおしてみるのはどうでしょうか?

 美味しいお茶の淹れ方が分かれば、自分にも家族にも一生役立ちます。
 役員会議の資料作成を極めればおのずと評価が高まりそうです。
 家事ができれば単身赴任や介護の際、自力でたいていのことができます。



 最後にもう一つ。
自分が嫌いなことは他の多くの人も嫌いなことが往々にしてあります。
多くの人が嫌がるような作業を楽しんでやる癖がついてくると、
周りからはあなたが明るく、楽しい、幸せオーラを持った人だと
思われることも増えてくるはずです。
そういった人の周りにはおのずと人が集まり、面白い情報、人脈も
芋づる式に集まってくる可能性が高くなるとOzakiは考えています。

 まずは自分自身がポジティブに生きるために、
そしてその結果長期的な報酬を得るために
自己犠牲的な考え方を改める価値があるように感じます。



 あれ、結局のところ将来的な見返りを期待してしまっていますね(笑)。
しかしながら、短期的に見返りを求めないという心の持ちよう、
行動の変革によって結果的にはよいことが舞い込んでくるという流れは
存在しているのではないかと思うOzakiです。

自己犠牲は不幸の素(その1)

2015-11-21 00:22:34 | 意識を整える

 仕事でも日常生活でも

 「あなたのためにこれだけやったのに
 なんで自分は報われないのだろうか?」

と考えることはありませんか?

 最近感じているのは

 自分自身がこれだけやっているのに…
 自分は犠牲になっているのに…
 せっかく自分が我慢したのに…

といった考え方をすると不満ばかり募るのではないかということです。

 
 確かに自分自身の努力や献身が無駄になると
腹立たしい気持ちにもなるでしょうし、
もうちょっとパートナーやチームメイトがしっかりとやっていれば、
と「タラレバ」を言いたくなることもあるでしょう。
また、自分がなにかアクションを起こした分だけ
見返りが欲しくなるというのも人間としてはやむを得ないところです。



 しかしながら、こういった自己犠牲的な思考回路ばかりでは
常に周囲の環境や他人に対して文句ばかり言い散らす人になりかねません。
不平不満が心に渦巻いている状態ではよい結果はなかなか出ませんので、
さらにフラストレーションが溜まっていく、といった悪循環も想定されます。
自己犠牲精神が不幸の連鎖を呼ぶ可能性すらありえますね。



 そこで、Ozakiは多少時間や労力を特別に割いたとしても、

 「これは好きでやっているんだから、見返りやよい結果は求めない」

と思うようにしています。

 徹夜で同僚や後輩のために作業をしたとしても
 「好きで徹夜しているのだから」。
  
 家族や共同生活相手の分も家事をやったとしても
 「気分転換のためにもやってよかった」。

 他人の振る舞いが気になるが、波風が立たないよう我慢したとしても
 「なんとなく黙っていたい気分だしな」。



と物事の捉え方を変えるということです。
不思議なことに自己犠牲で行動を決めた、ではなく、
自分が好き勝手に行動を決めた結果誰かのためになっていた、
という考え方をすると心がスッと軽くなることがあります。
自分自身が好きでやっているのですから当然と言えば当然ですよね。

 自己犠牲をしたと捉えてしまうとどうしても

 自分は相応の対価(犠牲)を払ったのだから
 今度は相手からその見返りを受け取って当然であろう

といった気負いが生じるのではないかとOzakiは仮説を立てています。
そういった気負いを止め、何をするのでも自分が好きに決めたのだから、
自分が面白がってやったことだから、と考えられるようになれば、
おのずと世界観が変わり、多少やってあげ損が出たとしても

 「ま、いっか」

と思えるのではないでしょうか?

 
 ビジネスの世界では

 「ギブ&テイクではなく、
 ギブ、ギブ、ギブ&テイクくらいでちょうどいい」

という言い回しがありますが似たような考え方かもしれませんね。



 (次回に続けます)

『情報の質』格差が広がっている?(その2)

2015-11-14 21:05:49 | 仕事術

 前回、昔は地位や立場の違いによる情報の量の格差について
ざっとお話しさせていただきました。
今回は主題である情報の質の格差に関するOzakiの仮説を書いてみます。

 このコラムを書こうと決めたのはシリアで邦人二名が殺害された際の
インターネットやメディアの反応がきっかけでした。
SNSやツイッターといったメディアでは一つの情報の真偽はさておき
インパクトの強い情報はあっという間に拡散するという性質があります。
今回の邦人殺害事件においても似たようなケースが相次いでおり、
中には驚くような誤解が広まってしまっているという事例もありました。



 「イスラム国」という通称がイスラム教徒全体のコミュニティを指す
 イスラム教は野蛮で同じイスラム教徒同士ですら殺し合っている
 中東地域の日本人は早く安全な日本に帰国したほうがよい

といったものは明らかに実態に即していない情報ですが、
センセーショナルな報道も相まって、実際に信じている人も多いようです。



 こうした状況を見るにつけ、2015年前後の時代は
誰しもが相当な量の情報に触れることはできるが、

 本当に信じてよい情報をしっかりと手に入れられる人

 と
 
 信じてはいけない誤った情報に振り回される人

とが断絶する時代なのかもしれないと感じました。
信頼できる情報ソースを持っている人や、
大量に流れてくる情報を鵜呑みにせず、少し時間を取って確認する人は
前者と言えるかもしれません。
逆にメディアの情報やSNS、ツイッターで見た情報をそのまま信じ、
自分自身で出来事や思想の背景を確認しない人は
後者ということになるでしょうか。



 
 よくよく考えてみると生きていく上で入手できる情報の価値(質)には
かなり幅があることがわかります。
高い価値を持つ情報を入手するためには、それ相応の対価が必要です。
だからこそ大企業はかなりの高額な契約金を支払って
コンサルタント会社や情報収集会社から貴重な情報を入手するのでしょう。
情報を正確に知っているか知っていないかによって、

 自分自身が生き延びられるかどうか
 より効率的に生きられるかどうか
 無用なトラブルを招かないかどうか

といった生きていく上で大きな格差を生みかねないことも多々あります。



 Ozakiが思いつく卑近な例で言えば税金の仕組みでしょうか。
これはOzaki自身ファイナンシャルプランナーや証券アナリストといった
金融関係の資格試験の勉強をしていて学んだことですが、
税金という制度の根幹にある考え方は



 「まずざっくりと大目に国が徴収しておき、
 取られ過ぎたことを証拠書類とともに提示、申請した人には
 取りすぎた金額を返金(還付)します」

というものだと理解しています。
Ozakiが知る限り、国が取りすぎた税金を自動的に計算して
取りすぎた人たちに返金するという制度は存在していません。
(各自治体の税額計算間違いといったケースは別ですが)
つまり、
 
 税金は取られ過ぎる傾向にあるという事実を知らない人
 取られ過ぎているという事実を認識できない人
 証拠書類を揃えて提示、申請するという作業を正しくできない人

は本来支払うべき金額を越えて国が税金を受け取っていたとしても、
誰も事実関係を教えてくれないということになります。
これは正しい知識、価値のある情報を持っているかいないかによって
経済的に格差が生まれる一つの事例です。
(自分で調べる労力を省くのであれば税理士に知識のアップデートを
依頼して、節税するということも可能です。
ただし、その際に税理士に支払う報酬が存在するということもまた、
質の高い情報を入手するために相応の対価が必要であることを意味します)



 消費税率が上がった、
 国の借金が1000兆円になった、
 アベノミクスで円安、株高になった

といった表面的な情報=質の低い大量の情報に振り回されず、
自分たちの生活を取り巻く世界環境がどのように変化し、
自分自身はどう行動を変容させていけばよいのかを考えることが
質の高い情報を得るための第一歩ではないでしょうか?
そしてできる限り幅広く、偏りなく情報を集めることも必要だと感じます。

 メディアのセンセーショナルな報道
 欧米中心の価値観
 大企業中心の経済特集

といった知らず知らずのうちに偏っている情報だけを収集していては
世界の実態を歪んだ形で理解し、結果として手持ちの情報の質が
劣化してしまうということもあるかもしれません。 



 現代は無料で圧倒的な量の情報が入手できる時代です。
情報の量そのものの格差は前回お話ししたように生まれにくいと言えます。
しかしながら、情報が溢れているからこそ、
自分自身の力で、もしくは人脈や金銭を使って
本当に信じてよい、正しく、貴重な情報を入手できる人と
そうでない人との格差は気づかないうちに広がってしまいます。



 情報の質格差が広がっているかどうかはあくまで感覚的なお話ですが、 
もしOzakiの仮説が正しければ、

 質の高い情報を持てる層

 と

 市井に拡散している質の低い情報に振り回される大多数の層

という二極化が今後明確になってくるかもしれません。



 普段日本人がなじみのない中東地域、イスラム教に関する
根拠のない風説が広がるという現象を観察してOzakiが感じたことでした。

(今回のシリーズはOzakiの仮説が中心ですので質問や反論は大歓迎です。)

『情報の質』格差が広がっている?(その1)

2015-11-07 18:25:21 | 仕事術
 
 少し前まで(と言っても50年~100年ほど前の話ですが)
日本で大学卒業=学士と言えば圧倒的な知識と権威の象徴でした。
これは大学の数が少なく、大学に進学する人数も少なかったため、
一般の人との知識や情報量の「差」が大きかったためです。

 具体的かつ極端な事例を挙げるために、琵琶湖疏水の設計監督を務めた
田辺朔郎という技術者をご紹介したいと思います。
琵琶湖の水を京都市まで運ぶために作られた琵琶湖疏水は
1890年に完成し、灌漑、上水、水運、発電といった事業を実現させ
京都府の発展に大きく寄与しました。
この琵琶湖疏水の設計監督担当に任命された田辺朔郎、
任命された時は22歳で工部大学校(東大工学部の前身)を
卒業したばかりでした。

 現代風に言えば、

「新卒で京都府の一大プロジェクト責任者になった」

というイメージでしょうか。
当時は大学卒業者と言えば、国内で最高水準の知識と技術を兼ね備え、
設計、施工管理はもちろん労働者の管理も含めてすべて一任される
待遇であったことが窺い知ることができますね。
この当時は高等教育を受けた人と受けていない大多数の一般人との
情報量、情報の質の格差が極めて大きかったと言えるでしょう。



 時代が下るに従って大学の数は増え、
大学進学率も上昇したため、大学卒業者は急増しました。
最近では定員割れの大学も複数あり、大学進学志望者数よりも、
全国の大学定員合計の方が多いという話も聞きます。
つまり、明治や戦前に比べれば高等教育を受ける人が増え、
人口全体で見れば、少なくとも情報量の差は縮小したのではないでしょうか。



 さらに、この情報量の差を縮める決定的な役割を果たしたのは
インターネットと携帯電話だとOzakiは感じています。
今やインターネットのあちこちのサイト上で調べられないものはありません。
真偽は定かではありませんが、CIAの機密情報ですら
97%は公開されている情報に基づいている、と聞きます。
(CIAというとハリウッド映画のイメージが強いからかスパイ活動ばかり
で情報公開していないと思われるかもしれませんが、HPで世界各地の
基本的な情報を公開しています。
非常に興味深いのでご関心ある方は是非ご覧になってみてください。
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/ )

 つまり、現代は大学はもとより、大学院レベルの知識も
インターネットで学習できてしまうと言っても過言ではないでしょう。

 携帯電話が普及したことによって、いつでもどこでも
情報にアクセスできるようになりました。
それまでは学校や図書館といった場所で勉強するか、
自然の中で経験的に生きた知識を積み重ねるしかなかったのですが、
情報共有が飛躍的に進んだことは皆さんも同意されるのではないでしょうか?

 また掲示板やツイッター、SNSのようなシステムが確立されたことで、
情報の拡散スピードもこれまでとは比較のしようがないほど
圧倒的に早くなりました。



 明治から第二次世界大戦前までの社会に比べれば、
間違いなく持っている情報量のばらつきは小さくなっているはずです。
言葉を換えれば、情報の入手しやすさが昔と比べて大幅に改善したことで、
ほとんどの人が同じ量の情報を持てる時代になったということです。



 その一方で、Ozakiが最近感じるのは圧倒的な情報を持っている人は
増えているものの、正しい情報、価値のある情報を持っている人は
それほど増えていないのではないかという点です。
そして、情報共有のスピードが速いがゆえに、
真実ではない情報=デマに振り回されたり、
ごく一部の極端な事例があたかも普遍的な事実であるかのように
多くの方に広まってしまうこともあるように感じます。

 こういったことを考えていくと、昔に比べると相対的に
情報量の差は縮小したものの、情報の質の差は縮まっていないか、
もしくはむしろ広がっていると言えるのではないか、と思うのです。
 

 (次回に続けます)