36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

内装は変えられる、基礎は変えられない(その2)

2014-12-27 15:49:42 | 読書

 先週は「子どもへのまなざし」という育児書からヒントを得て、

「表に見えず評価されにくい基礎工事は重要でかつ、そう簡単に変えられない、
見た目に派手に見える内装や家具は実はいつでも変えられるし、やり直しがきく」



というお話をさせていただきました。
Ozakiが本当にお伝えしたいことは↑の二行に詰まっているわけですが、
少し別の見方をすると一味違った大切なことがあるように感じたので、
シリーズとして続けたいと思います。



 先週もお話したとおり、教育においても仕事においても
基本的な考え方やマナーは建物における「基礎工事」に相当します。
こういった部分はやり直すということは極めて難しいですし、
実際にこの部分を改めようとすると非常に大きなエネルギーが必要です。
しかしながら、人間の本質とも言える↑のようなポイントは
履歴書にはなかなか現れてきませんし、
また、他人から見てわかりやすい特徴というわけでもありません。



 逆に

 最終学歴や取得資格、勤務先、
 プレゼンテーション術やロジカルフレームワークといった仕事方法
 所有している車や家、服に装飾品
 果ては恋愛相手や結婚相手、

といった類の話は単純に人を評価するときには非常に目立つ項目ですよね。
しかしながら、いつでもやり直し、取り換えができてしまいます。
家で言えばリフォームで比較的安価に交換できる壁紙や
新しく買い替えられる家具のようなもの。
得てしてこういった目につきやすい特徴や物品がその人の評価として、
定着する傾向にあるのは、皆さんも経験的にご存知と思います。



 例えば、最近の就職活動では「学歴フィルター」なるものがあるようです。
所属している大学によっては同じ企業の就職説明会でも
当初から準備されている空席数に差がつけられていたり、
どんなに一生懸命エントリーシートを書いても学校名だけで
採用対象から除外されたりするのだとか。
(これが本当かどうかを判断するのは難しいですが)

 「人は見た目が9割」という本が流行したこともありましたが、
人間どうしても目につく「すごさ」を評価しがちです。
そして、多くの人物の中から短時間で一緒に仕事をする相手やパートナーを
選ぶ場合にはますますもって評価しやすい部分で判断せざるを得ません。

 時間があればじっくりと建造物の基礎工事の出来具合や
コンクリートの質を解析できますが、
時間がなければ内装や調度品のみを見て

 「この空間はいいな」

と結論づけるのと同じですよね。
頭の中ではあくまで表面的な価値とは思っていても、次々に判断を求められれば
一目でいいか、悪いかを振り分けなければならないことになるわけです。



 こう考えてくると先週は基礎工事の大切さを説いたわけですが、
どうも基礎さえよければそれでよいのだ、という簡単な結論にはなりませんね。
情報が増え、接触する人間の数が増え、それらの良し悪しを
素早く決定する必要に迫られて自分も他人も日々生きています。
人間の根幹である基礎工事を丁寧に確認してくれる人はごくごく稀。
本当に付き合いがいのある相手かどうか、考え方やマナーや、暮らしぶりを
じっくり観察して判断してくれる人はむしろ希少種かもしれません。



 もしそうであるならば、自分がどれだけ基礎工事をしっかりやっていても、
内装や家具がみすぼらしければ、本来掴めたはずのご縁やチャンスをみすみす逃す、
そんな不幸な結果につながるかもしれません。



 基礎工事をしっかりやることはチャンスをつかむ第一歩。
その上で最低限見逃されないための内装や家具の配置をして初めて
様々な人から

 「おっ、あの人いいんじゃないか」
 「付き合ってみると非常に立派な人物だ」
 「あの人なら自分の大事なお客(仕事)を任せられる」

といった将来につながる人脈が出来上がるのだと思います。
自分自身の基本的な立ち居振る舞い、ポリシー、人間性を磨くことに加えて、
一見外見的で即物的な部分ではありますが、服装や使っている道具や
あるいは資格や大学、大学院での学びなおしも含めて、
評価されるための素地を演出することも大事なのでしょう。



 「内装は変えられる、基礎は変えられない」というタイトルは
先週お話したような

 「基礎部分が変えられない一番大事なので、しっかり基礎を鍛えましょう」

という意味がもちろん第一義なのだと思いますが、

 「基礎をしっかりやった上で、その都度必要な内装はどんどん変えてしまおう」

という意味にもとれるのではないかとOzakiは考えました。

内装は変えられる、基礎は変えられない(その1)

2014-12-23 20:48:47 | 読書


 今週から新しいシリーズを開始しようと思っていましたが、
先週から読み始めた「子どもへのまなざし」という本の冒頭、
非常に印象的なお話があったので、急きょ予定を変更。
二回シリーズでコラムにまとめてみたいと思います。



 この本は児童精神科医の佐々木正美さんという方が書かれた育児書ですが、
Ozakiが感銘を受けたのは育児を建物に例えた部分でした。

 まずは一部を引用でご紹介したいと思います。

 「乳幼児期が基礎工事の時で、その後の時期を、たとえていいますと
 小学校、中学校、高等学校、大学 あるいは大学院、留学などというのは、
 あとから造っていく建築の部分です。

 そういう意味から申しますと、小学校や中学校ぐらいが柱や床かもしれませんし、
 高校ぐらいになりますと外装の工事とか屋根の瓦など、そんなものかもしれない。
 大学や大学院、留学なんて言うのは、内装工事かもしれませんし、
 あるいはカーペットや家具かもしれない。
 
 そうすると、みなさん、あとからやるものほど、やり直しがきく
 ということがおわかりになるでしょう。
 カーペットなんか、あとからいくらだって、敷き替えができます。
 家具なんていうのも取り替えられるのです。

 ところが、人の目にとまるのは、あとからやったところなのですね。
 基礎工事なんていうのは残念ながら、建物が建ったときには、
 なにも見えなくなってしまうのです。
 けれども、しっかりした建物かどうかというのは確かな基礎工事なしには
 考えられないのです。

 『A大学を卒業しました』、『B大学に留学しました』などというのは
 ペルシャのじゅうたんのようなものですし、
 スウェーデンの家具みたいなものなのです。
 『すばらしいですね』というふうに、訪問者は感嘆しますし、おどろきますよ。
 しかし、そんなものは、いつだって取り替えができるのです。

 ところが、基礎工事に関心をもって、床をめくってみよう
 なんて人はいないのです。
 そんなところにはだれの目も向かないですね。
 けれども、いちど事があったとき、基礎工事がどれくらい建物の命運を
 けっするかということは、よくおわかりでしょう。
 修復不可能ということだってあると思います。」



 この一節を読んだとき、Ozakiはもっと早くこの文章に出会えていれば、
という気持ちを禁じえませんでした。
育児のみならず、自分を含む人間の生き方すべてに当てはまる重要なことを
簡潔に、そして的確に表現できている文章だと感じたからです。

 この本は育児書ですので、この後乳幼児期の両親の関わり方、
社会の接し方がいかに重要か、そしてどうあるべきかという展開になります。
ただ、評価されやすい内装ではなく、評価されにくい基礎工事のほうが
よっぽど大切であるというのは学生にも社会人にも主婦の方にも
すべからく当てはまるのではないでしょうか?



 家の場合、一番大切なのは地震や火事があったときも住人を守れるか、
そして、夏も冬も快適な環境を長期間にわたって提供できるかでしょう。
そのためには家の土台はしっかりと施工されていなければなりませんし、
外からは見えない柱の鉄筋数や、各種パイプの穴のあけ方、
湿気対策や通気性の持続性といったポイントも非常に重要です。



 折しも、日本では某超高級集合住宅で見えない部分の施工不良が発覚し、
業界最大手のデベロッパーが完成直前での取り壊し(建て直し)を決めました。
基礎工事は建物においても、人生においても最も重要であり、
この部分に不具合があるとその後の修正には多大な時間と労力が必要です。



 一方で、そういった基礎部分は普通目に触れることはありません。
ですので、

 各建造物の基礎がどうなっているのか、
 人間の本質的な人となりがどういうものなのか、

はよほど注意深く、じっくりと観察しなければ評価できないものです。
逆に、後から作り変えが行いやすい外装や内装工事は
目に触れやすいですが、いつでも変えられるのです。

 
 実際の家でもリフォームは比較的低予算でもできるようですし、
屋根に太陽光パネルを設置するといった工事も多いですよね。
家具であれば、インターネットでも買えますし、
輸入家具ですら都心の大型店に行けば珍しいものではありません。

 人間で言えば、今の時代社会人も通える大学がありますし、
大人向けの数学や経済や世界史や科学の参考書も多数発売されています。
どんな学校に通ってきたか、に関わらず学問を学びなおすことはできるのです。
また、新しい能力を身に着けようと思えば、思い立ったが吉日。
通信講座もありますし、カルチャーセンターのようなところで
日本の文化や芸術を学ぶことだってできますよね。
何事もやってやれないことはありません。

 
 しかしながら得てして、派手な評価を得やすいのは表面的な部分です。
家もそうですが、人間の場合、評価の尺度が複雑であるがゆえに、
より一層表面的な判断をしがちではないでしょうか?

 Ozakiの感覚かもしれませんが、最近どうも個人個人の長所・短所ではなく、
文字で表現できるような「スペック」で人となりまでも判断することが
多くなっているのではないかと感じています。
 
 極端に言えば、

 どこの大学の出身なのか
 どういった企業・組織に勤めているのか
 (どういった企業・組織の方とお付き合い/結婚しているのか)
 年収はどのくらいなのか
 わかりやすい特技があるか

 といった点で人間を画一的に評価していないだろうか、
と自戒も込めて考えてしまいます。
これは、佐々木さんがおっしゃるように目につきやすい内装や家具を見て、

 高級絨毯の家はいい家だ
 IKEAの家具が入っているから素敵な部屋だ
 駐車場にベンツが停まっている、すごい!

と評価してしまうような、場合によっては短絡的かつ、
本質から外れた評価なのかもしれません。

 高級絨毯が敷かれていても、
 相対的に高価な輸入家具があっても、
 評判のよい外国車が停まっていても

家が簡単に住めなくなってしまっては意味がないのです。



 仕事を進めていく上で、また人間的な成長を目指す上で大切なのは、
見た目にわかりやすい、評価されやすい小手先のテクニックではないのでしょう。
短期的には評価されなくとも、

 筋道の通った考え方であったり、 
 粘り強く目標に近づいていく姿勢であったり、
 ひょんなときに現れる教養であったり

基礎工事に相当する本質的な生き方ではないかとOzakiは思うのです。



 (次回に続きます)

幸運は平常心で拾うもの

2014-12-17 22:25:58 | 読書


 以前読んだ斉須政雄さんの

 『調理場という戦場』

という本で印象的だったフレーズからコラムをお届けしたいと思います。



 皆さんがこれまで生きてきた中で

 これはチャンスだ!
 夢のような幸運がやってきた!
 あこがれの人・場所・会社で働けるなんて!

と感じたことはありますか?
そういった時にはどうしても精神的に舞い上がってしまったり、
知らず知らず肩に力が入ってしまったりということはないでしょうか。

 逃してはならない機会だと思うと人間どうしても平常心を失い、
日ごろは当たり前にできていることすらうまくできません。
まして、日常的にやっていない挑戦をその環境の下でやれと言われても
できるほうが奇跡的ですよね。

 スポーツの世界では

 「練習は試合のように、試合では練習のように」

という言葉がよく使われます。

 練習中は試合と同じ緊張感で鍛錬を繰り返すことで、
少しテンションが上がった状態でも体が動くように準備せよ。
そして、本番の試合では、あたかも練習中のように平常心を保って、
これまで繰り返してきた体の動きを再現せよ。
こうすることで、練習で実力が伸びると同時に、
試合中によりよいパフォーマンスを発揮できるのです、という教えです。

 実際に野球やサッカーやゴルフといった一流のスポーツ選手の多くは
この心構えに基づいて練習や試合に臨んでいるとも聞きます。



 斉須さんは料理の世界で生きてきた一流のクリエイターであり経営者ですが、
同書の中でこんなことを書いています。

 
--ここから引用-------------------------

 「これは夢のような幸運だ」

と思っているうちはその幸運を享受できるだけの力が
まだ本人に備わっていない頃だと思うんですよ。
幸運が転がってきた時に

 「あぁ、来た」

と平常心で拾える時にはその幸運を掴める程度の実力が
宿っていると言えるのではないでしょうか。

 (中略)

 見習いの頃からすれば夢のような職域に入った時にも、
最初は気恥ずかしさがあったり、うれしさがこみ上げたりしますが、
動き出すと違和感を抱いたことはありません。

--ここまで引用-------------------------
 

 この前段部分で、斉須さんは自分は二段跳び、三段跳びではなく、
一歩一歩実績を積み重ねてきたから今の自分があるのだということを
語っておられます。

 周囲からはなんでこのチャンスにトライしないのか、と言われても、
 なぜまわり道をするのか、と問われても、

階段を一気に駆け上がるような生き方はしなかったのだ、と。



 Ozakiの解釈ではありますが、斉須さんは精神的に舞い上がるような
オファーを受けた場合、実力以上の舞台で勝負をしなければならず、
結果、自分の能力を生かせないことが感覚的に分かっていたのだと思います。

 実力以上の舞台に立つと↑で述べたようにどうしても力が入ります。
また、その舞台が当たり前になっている周囲の人に負けまいとして
さらに力が入るという悪循環も予想されます。

 斉須さんが書いているように「動き出すと違和感を抱」かないような、
自分の実力に見合ったステージを選んでいく方が長い目で見れば
素早く成長できるということなのではないでしょうか?



 ただ、「自分の実力に見合った」と言っても、
それは「自分が楽にできること」とは違います。
引用中でも述べられているように、実力がついたからこそ、
目の前にある幸運を平常心で拾えるようになるのです。
言い換えれば少しずつ自分自身の実力を磨いているからこそ、
より大きな幸運が巡ってきたときにすぐ拾うことができるのです。



 目の前に思いがけないチャンスが巡ってきた時に、
焦ったり、力んだり、舞い上がったりしないためにも、
また、平常心でその幸運を拾い上げられるようになるためにも、
常に自分自身の実力を伸ばすという意識を忘れないようにしたいものですね。

失ったものを数えるな

2014-12-10 23:49:01 | 意識を整える


 先週末からロシアのソチでパラリンピックがはじまりました。
オリンピックに引き続いて日本選手団の活躍が期待されます。
(このコラムは2014年3月10日に配信したメルマガのメインコラムです)

 パラリンピックはもともとオリンピックとは関係なく、
リハビリの一環として始まった「ストーク・マンデビル競技大会」として
ロンドンではじめられた障害者のためのスポーツ大会だったとのこと。



 ストーク・マンデビルとはイギリス軍のリハビリ専用施設があった病院の名前。
つまり、パラリンピックはもともととある病院で始まった入院患者同士の競技会だったのです。
それが時代を経て、国際大会となり、国際オリンピック委員会からのお墨付きを
得て今ではオリンピックとともに選ばれた都市で行われるようになりました。



 この「ストーク・マンデビル競技大会」の開催を提唱したのは
当時病院でリハビリを担当していた医師のルートヴィッヒ・グットマン博士。
博士は脊髄を損傷したイギリス兵の治療を担当されていたのだとか。
兵士たちは思いのままに動かせない手足や、介助されなければ出歩けない身体を
嘆く毎日だったようですが、そんな彼らに博士はたびたび



 「失ったものを数えるな、残されたものを最大限活用せよ」

と指導していたとされています。

 この言葉を繰り返し聞かされ、そしてスポーツを通じたリハビリを経て、
兵士たちにも自信がよみがえってきたというドラマもあったのだとか。



 確かに、理不尽であれ、不運であれ、体の一部を失う、動かせなくなる、
というのはその後の人生に大きな変化を与えるものです。
そして、往々にしてその変化はマイナスに捉えざるを得ないのかもしれません。
しかし、いつまで悔やんでみても、嘆いてみても失った部分や機能は戻りません。



 また、残った体、残った機能はすべて自分の意思で操れるのです。
まだまだ動かせる部分がこれだけある!と考えて、
動かせる部分で日常生活やスポーツができるのだと思えるようになれば、
新しい生き方、前向きな生き方ができるようになるというもの。
障害を負っていないOzakiもハッとさせられる言葉でした。



 ただ、よくよく考えてみれば、障害とは関係なく、人間みな似たような
状況にあるのかもしれません。
読者のみなさんは障害を負っていなくとも、

 自分のこの部分が劣っている
 自分のこの悪い癖が嫌いでしょうがない
 勉強しても、努力してもどうしてもこれができない

といった劣等感を意識することはありませんか?
苦手なこと、他人よりも劣っているように感じること、
こういったことばかりにフォーカスするとやはり前向きに生きることは難しい、
Ozakiはそう思うのです。



 しかしながら、不幸にして障害を負ってしまった人と同じように、
自分が失ってしまったもの、足りないものを嘆くばかりではなく、
自分が持っているもの、少しでも自信がある能力を生かすことはできるはず。



 自分にないものを(失ったもの)を求め続けるのではなく、
 自分にあるもの(残ったもの)を最大限に生かす。



こう考えれば、グットマン博士の言葉はがぜん身近な言葉になりますよね。
仕事においても、スポーツにおいても、これができない、あれができない
とばかり考えるのではなく、まずは自分ができることを考えてみましょう。



 そうすることで、

 自分自身が持っている才能、
 最大限に活用できる可能性がある特徴
 生き方が前向きになる技能

といったものを自分自身で発見できるようになるのではないでしょうか?

ツラいところに仕事は来ない(その2)

2014-12-06 23:38:04 | 仕事術

 先週は仕事の報酬は仕事ではないでしょうか?
というお話でした。
では、どうすれば報酬である次の仕事がやってくるのでしょうか?
その答えとしてプロデューサーのおちまさとさんが
著作で紹介しているのはタイトルにもある

「ツラいところに仕事は来ない」

ということ。

 自分はこの道一筋でやっていく!と決めてじっと仕事を待っている、
そんな状況では自分自身も見ている周囲の人たちはツラいですよね。
その一方で、あまりにも忙しい、忙しいと自分の大変さをアピールする人も
他の人からすればツラそうに見えてしまいます。

 そういうツラそうな人に仕事をお願いしたいと言ってくれる人は来ません。

 あの人はいつも楽しそうに仕事をしているなぁ
 この人なら面白いアイディアをさらっと出してくれそうだ
 どの人なら余裕を持って仕事を受けてくれるだろうか

多くの人は何か頼みたい仕事がある場合、こんな考えを巡らせて
仕事を頼む相手を探すのではないでしょうか?
皆さんが仕事を頼む側だとしたらいかがでしょうか?



 もう一つ別の事例でも考えてみましょう。
恋愛で考えるとモテる=人気がある人には一種のゆとりがあるように思います。

 とにかく誰かと付き合いたい、
 何が何でも結婚したい
 今の相手は絶対に逃さない、

などなど気持ちに余裕がない状態ではいい出会いはやってこない、
というのは読者のみなさんにも共感いただけるのではないでしょうか?

 仕事もきっと恋愛と似たようなところがあるのだと思います。

 一つのジャンルだけが自分の仕事のすべてじゃない
 何が何でもこの契約を取らなければならないわけじゃない
 今の仕事は一生懸命やるけれども、仕事以外も楽しみを持っておこう



といったゆとりがある人は魅力的に見えますし、一緒に仕事をしたくなります。

 仕事で結果を出さなければ報酬である次の仕事は来ませんが、
仕事で結果を出せたとしても、悲壮感の漂う仕事ぶりではやはり仕事は来ません。

 もし皆さんが今ツラい仕事をしているのであれば、
まずは今の仕事の中で楽しみを見出すことができないか考えてみましょう。
ツラさを感じさせないやり方を発見することができれば

 「あの人は大変な仕事を楽しそうにやっていてすごいなぁ。
 今度別の仕事をお願いしてみようか」

と考えてくれる人がいるかもしれません。



 報酬である次の仕事をどんどんもらう、その可能性を広げるためにも、
日々前を向いて、明るく、楽しく仕事をするようにしたい。
Ozakiはそう思っています。