36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

仕事のない時こそ差がつく

2014-08-30 19:28:18 | 仕事術


 林与一さんという名脇役がいらっしゃいます。

 大河ドラマや水戸黄門といった時代劇の脇を固める役者として
欠かせない存在であり、デビュー以降仕事が途切れることがない名優です。
現在もNHKの大河ドラマ「八重の桜」で島津斉彬を演じておられますので、
顔をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
(この記事は2013年9月23日に配信したメルマガのメインコラムバックナンバーです)

 その林与一さんを取り上げた記事を最近読みました。
今回は林さんの言葉を中心に組み立てたいと思います。



 林さんの師匠は長谷川一夫さんという方ですが、
これまでの日本の俳優で最も人気があったと言っても過言ではない存在
だったそうです(が古すぎてOzakiもよくしりません)。
銀幕デビューの際には東京駅に一万人以上のファン(ほとんど女性)が
集まり、名前を書いたのぼりが立ち並んだんだとか。
現代の俳優やアイドルでもなかなかこうはいかないですよね。



 さて、林さんは若い頃に師匠である長谷川さんから教わったある言葉を
とても大切にしているとコラムに書いてありました。
その言葉とは

 「世間に出たらもう勉強できないから、今しっかり勉強しておけ。
 休みがあってもぼうっとするな。次に何が来ても怖くないように、勉強しておけ」

 というもの。

 役者の仕事というのは
 
 「あなたを次のお芝居(映画)に使いたい」

と言われて仕事をすることがほとんど。
そういった場合に

 「できません」

と断るのはくれるというお金を断ることだと言われたそうです。

 
 仕事を依頼しにくるということはすなわち

 「あなたにこのお金をあげたい」

と言ってくれること。
そのお金を受け取らないで突き返していいのか?
とすら言われたと林さんは記事の中で述懐されています。



 どんな仕事の依頼が来ても

 『はい、できます』

 と答えられる下準備ができていなければ
お金をあげると言われても、受け取ることはできないもの。
そのため、役者を長く続けるためには必ず下地と引き出しを
自分の中に持っておかねばなりません。

 一つの役柄、決まったタイプの人しか演じられない俳優さんには
多様な役のオファーは来ないでしょうし、長く活躍することは難しいでしょう。

 二枚目の役も、三枚目の役もできる。
 温和な人の役も、気難しい人の役もできる。
 一般庶民の役も、奇想天外な人物像も演じられる。



演劇や芸能の世界ではそんな俳優が高く評価され、長く生き残ることになります。

 それだけの役の幅を作るには下準備が必要不可欠。
様々な本を読んだり、人の話を聞いたり、
先輩のお芝居を観たり、自分で稽古をしたり…。
こういった下準備ができるのは仕事がなく、時間があるときだけ。

 
 「不況で仕事が減ったといって遊んでいる役者もいますが、
そういうときは文句を言ってないで、仕事がない今のうちに
引き出しにいろんなものを詰めておくべきです。
これができる人だけが将来再起できる」

 とは林さんの言葉。



 師匠である長谷川さんから教え込まれたように

 「仕事がない時にこそ、芸に差がつく。
 仕事がない時ににこそ下準備をやっておかねばならない」

ということですね。



 ビジネスをする上では、不本意な仕事を担当したり、
あまり仕事がないといったタイミングもあるかもしれません。
しかし、そこで不平不満を言っては、なにも生まれませんよね。

 我々は役者さんのように芸で食べていくわけではありませんが、
よそ様から仕事を頂いてその仕事の報酬をもらって暮らしています。
(会社組織に属している方は上司や先輩がよそ様、
 個人事業をされている方はまさにお客様がよそ様ですよね)
仕事が少ない時、ヒマな時にこそ自分を高め、引き出しを増やし、
次の仕事の準備をしておくとよいのは共通しています。



 長い目で見れば、仕事のない時に差をつけられる人には
あなたにお金をあげたいと言ってくれる人、
報酬としての仕事をくれる人が列をなすのではないでしょうか。

志を持つとは言葉に力を宿すこと

2014-08-23 00:09:11 | コミュニケーション

 よく

 「偉業を成し遂げるには志が重要だ」
 
であるとか

 「リーダーの志に多くの人間がついてきてくれるのだ」

であるとか、ビジネスのシーンで「志」という言葉が頻繁に登場します。
「志」というと非常に崇高で、清廉潔白なようなイメージをお持ちの方も
いらっしゃるかもしれません。
しかしながら、上述のような文脈で使われている「志」の意味を突き詰めると
結局のところ「価値観のはっきりした目標」という意味になるように感じます。

 自分が大切にしたい人はこういった人たちです
 自分が提供したいサービスはこういうものです

といった価値観をはっきりさせた上で

 自分に満足がいく達成水準はこのレベルです
 
という目標数値が組み合わされることによって、偉業の基礎となるもの、
また多くの人が集まってくれる「志」が形成されるのではないでしょうか?
価値観なしに、売上や評価だけを達成しようとするとそれはただの「ノルマ」
に成り下がってしまうことになります。
「ノルマ」ではなかなか偉業は達成できないと思いますし、
まして、多様な人が慕ってついてきてくれるとはとても思えません。
つまり、「志」の中でもコアになるのは価値観ではないか、とOzakiは考えます。



 しかしながら、価値観をはっきりさせるというのは難しいものです。
世の中には両立が難しい、さりとてどちらも無視できない、
そういった二つの価値観がせめぎ合っていることが一般的だからです。

 具体的には

 サービスへのこだわり と 利益率の追求
 安全第一 と コストダウン
 品質第一 と 納期の短縮

などは様々な職場で日々頭を悩ませる両立項目ではないでしょうか?
ビジネスの場面を離れても

 仕事 と プライベート(家庭)
 秩序 と 個人の自由
 大衆の知る権利 と プライバシー

といったよりあいまいな概念がぶつかるシーンは枚挙に暇がありません。
どちらも大切ではあるのですが、たいてい大切な価値観どうしは
綱引きをしているかのように微妙な緊張関係を強いられています。
そういった張りつめた状況の中で、人間は過去の経験や、培ってきた思考回路で
さまざまな価値観同士をバランスさせ、自らの立ち位置を決めているのでしょうね。



 こんな状況ですから、確固たる価値観に基づいて「志」を形成することも
当然難しいと言えるでしょう。
逆に言えば、志を形成することが難しいがゆえに、「志」は大切なのだ、
とも言えます。



 では、どのようにすれば自らの価値観をはっきりさせることができ、
「志」の基礎をしっかりと形作ることができるのでしょうか?
あくまでOzakiなりの回答ではありますが、自分の考えを
文字に残すことは価値観をはっきりさせる方法の一つです。

 自分の考えていることを紙に書いてみると、頭の中では
唯一無二のように思えていた考え方が、思いのほかツッコミどころ満載、
穴だらけであることに気づくことがあります。
また、上述のように相反する価値観が多々ある世の中ですので、
文字で書いたり、読み返したりしているうちに自分の中に矛盾する価値観が
潜んでいるといったことにも気づくことができます。

 書く、考える、そしてまた書く、といったプロセスを重ねるうちに
自分自身による反駁、再構築を経て、思考はよりクリアになり、
言葉として書かれる文章も洗練されていくように思います。
この結果、個人の価値観や思想はゆるぎないものになり、
また、その過程で綴ってきた言葉は借り物ではない
「自らの言葉」になるのだとOzakiは信じています。



 最初の話に戻りましょう。
「志」の最も大事な部分は自分自身の価値観ではないかという話でした。
多くの人に受け入れられ、また偉大な仕事をやりきるために必要な「志」は
しっかりした価値観に基づいていると言えるでしょう。
そして、そういった価値観は自らの考えを文字にし、
自分自身の中にある複雑な価値判断基準を理解することから生まれます。
そしてさらに考えを練り直し、自分の言葉を磨く過程を踏むことで、
ゆるぎない自らの価値観が確立されていくのだと思います。

 そうしたプロセスを経て生み出されたゆるぎない価値観を
自分の言葉で表現できるようになれば、自分にも相手にも
相当な影響を与えることができると思いませんか?
幾重にもわたる地層で濾過された清水が動物の体に沁み渡るように、
相手の心にスッと入り込んでいくような言葉があり得るはずです。
これが素敵な「志」の源泉であるとは考えられないでしょうか?

 これまでお話ししてきたのはOzakiの考え方ではありますが、
偉業を達成したり、強力なリーダーシップの素となる「志」を持つことは
自分自身の言葉に自身を鼓舞し、他人をひきつける力を宿すことである、
と言えるのではないでしょうか。

知らず知らず腕がなまる病

2014-08-16 10:08:09 | 読書

 今回は少し前に読了したスズキの社長、鈴木修さんの

「俺は中小企業のオヤジ」

 の中の一節から発想したコラムをお届けします。

 スズキは2008年、日本で数年ぶりに日本国内で新しい工場を立ち上げました。
当時ライバルのダイハツ工業が大分に最新鋭の工場を作り、
非常に効率的な工場として、業界内で話題になっていた頃だったそうです。

 スズキもさぞや素晴らしい工場を建設するのではないかと期待されていたのですが、
ふたを開けてみるとスズキの作った新しい工場(牧之原工場)は
無駄な在庫を山積みしているだけの「死に地」も多く、効率的とは言えない状況だった
と鈴木社長自ら述懐されていいます。



 工場完成後、社長の鈴木さん自ら「この工場は失敗」と工場監査でスピーチ。

「失敗してしまったものは仕方がないので、せっかく作ったのにもったいない
などと思わず、思い切って失敗したところはすぐ手直ししよう」

という趣旨のコメントを発表されたそうです。



 スズキと言えば、1982年に当時未開の地であったインドに進出したほか、
90年には民主化されたばかりのハンガリーに進出。
今思えば、途上国進出のさきがけとして日本の自動車メーカーの中でも
異端の成功経験を経ての国内生産能力の拡大プロジェクトだったはずです。
しかしながら、社長も認める失敗に終わってしまったのはなぜでしょうか?



 鈴木さんの著書から引用すれば
 
 「海外、とりわけ途上国での工場建設が続いたなかで、
 ずっと『教える立場』でいたために、
 少々、おごりがあったことも否めません。
 弱い相手とばかり試合をしていると
 『自分の腕前が上がった』と勘違いしてしまうものですが、
 実際には腕はなまってしまうことのほうが多いのです」



 相手が自分たちよりも知識、経験といった点で劣る場合、
どうしても一方的に教えるという立場にならざるを得ません。
特にインドやハンガリーといった自動車産業未開の地では、
日本から進出したメーカーとして、知らず知らずのうちに
自分達はすごいのだという勘違いもあったのかもしれませんね。

 
 スズキの技術者、工場設計のみなさんも、途上国進出が中心だった数年間
いわば「ぬるま湯」の中での経験が続いていたのでしょう。
それが突然、最先端の設備を作ろうとすると、

 徹底的なムダ撲滅、
 効率の最大化へのアイディア、
 最先端の工場設計理論の実践、

 といった点が不十分になってしまったのではないでしょうか?

 日本では考えられないほど無駄が溢れる環境で何でもいいので改善するという作業と
無駄が既に相当減らされた状態からさらに高効率を求めるという作業は違います。
これまで求められてこなかった工夫を急に求められたとすれば、
いかにスズキのような一流企業でも失敗してしまうという事例と言えそうです。

 
 さて、こういった事態は何もスズキだけではありません。
我々の仕事においても、日々慣れきった仕事だけやっていると
知らず知らずのうちに考える習慣、工夫する習慣が失われていきます。
最初は時間をかけ、丁寧に進めていた仕事であっても、
慣れてくれば、コツもつかめますし、力を抜いても大丈夫な工程も分かります。
(何かしら仕事を覚えなければならない場合には、まずコツをつかみ、
効率的に仕事を進める「パターン化」を目指す必要があるのですが)



 また、ある仕事に精通し、習熟すればするほど、
技術、知識の劣る同僚や後進に指導する機会も増えるでしょう。
この場合、改めて自分の理解や技術を深めるチャンスでもあるのですが、
往々にして「上から目線」になり、自分の知識や技術を過大評価してしまう
危険性も否定できませんよね。

 
 人間は面白いもので、自分はすごい!と思わせてくれる現実からは
なかなか離れがたくなるようです。
自分にとっては無意識でできることでも、できない相手がいる。
そして自分に教えを乞うてくるという状況を想像してみると
病み付きになる麻薬のような魅力があるのではないでしょうか?

 何ら新しいチャレンジをせず、自分が簡単にできてしまう範囲の
仕事(もしくは作業)だけをやるようになると自身の認識とは裏腹に
腕はなまっていく一方です。
なぜなら、これは

 プロ野球の選手が小学生相手に野球をする
 技術者が製品用ではなく、試作品用の精度で加工する
 小学生相手に算数を教える

といったような行為に近いものだからです。

 先ほどお話しした「パターン化」した状況が続くと、
どうしても自分の頭で考え、新しい工夫、挑戦をするという機会は減ってきます。
そして、自分でも自覚しない間に自分の能力が低減していくという
症状が起こってしまうこともあるのではないでしょうか?
この状態の何が恐ろしいかと言えば、自分で発症したことを気づかないこと。
むしろ自分では

 日常の仕事を上手にやっている!
 周囲の人間に指導している!
 体が勝手に動くようになり、職人の域に達しつつある!

と「腕がなまる」の真逆の評価をしていることが恐ろしいのです。



しかしながら、スズキの新工場のように、日々こなしている工程とは
似て非なる仕事が求められた際にはどうなるでしょうか?
長い間自分はすごいと信じてきたにも関わらず、
最先端の技術、発想、理論に追い付けず、ピントの外れた結果しか
得られないといった事態になりかねません。

 こういった「知らず知らず腕がなまる病」は憂慮すべき事態ですよね。
この「知らず知らず腕や頭がなまる病」は誰にでも発症するわけですが、
この病気を防ぐ方法が少なくとも一つあります。
それは、日々これまでやってこなかったことに挑戦するというもの。
前回お話ししたように、新しいことに取り組む場合、失敗は避けて通れませんし、
毎日新しいこと、未経験のことに取り組むのはなかなか大変です。



 しかし、毎日同じことを繰り返しているだけでは、
「知らず知らず腕がなまる病」に罹患する可能性大。
数多くの失敗も覚悟しながら、それでもやはり
新しい決断、新しい挑戦、新しい経験を求めて歩みを進める。
これが自分自身に自らの実力を過大評価させることなく、
着実に経年優化を実践する方法ではないでしょうか。

打率10割はありえない

2014-08-13 20:35:24 | 意識を整える
 先週ニューヨークヤンキースに所属するイチロー選手が
日米通算4000本安打を達成したというニュースが流れました。
(この記事は2013年8月27日に配信したメルマガのメインコラムです。
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 プロ野球で20年以上現役を続けられるということがそもそも稀ですが、
一年で200本安打を打つだけでもニュースになるレベルの成績を
20年間継続できたということは驚異的な成績と言えるでしょう。
(野球に詳しくない方でもそのすごさは分かってもらえると思います)



 では、そのイチロー選手、どのくらいの確率で安打を打っているでしょうか?
イチロー選手の生涯打率を調べてみると3割2分でした。
つまり3回に1回以下しか安打を打てていないことになります。
(「しか」というのは多くのプロ野球選手に大変失礼ではありますが…)
裏返してみると3回の打席のうち2回以上は凡退(失敗)しているということ。
驚異的な成績を残しているイチロー選手ですら、かなりの確率で「失敗」
してしまっていると言えるでしょう。

 
 ちなみに競馬界のスーパースターである武豊騎手の通算勝率は1割9分。
3回に2回の失敗どころか、10回に8回以上は負けているわけですね。

 余談ですが、昔中央競馬会のCMでナインティナインの岡村さんが
新人騎手に扮するというものがありました。
デビュー戦でなすすべなく敗れ、落ち込んでいる岡村さんに
大ベテランの先輩一流ジョッキー(河内現調教師)が

 「一回負けたくらいでくよくよすな。
 俺なんか一万回以上負けてんねんで」

と諭し、「新人岡村騎手」が号泣し、感謝するというストーリーでした。
このCMを見て、当時(2001年)

 「そうか一流ジョッキーでもそれだけ思うようにいかない経験をしているのだな」

と 妙に納得したことを思い出します。

 話を元に戻すと、日本人であれば大多数の方が聞いたことがあるであろう、
スーパースター二人でも「打率10割」がいかに難しいことかよくわかる統計です。



 さて、スポーツのスーパースターから離れ我々のことを考えてみましょう。
ある日何か新しいことを始めたとして、皆さんは新しいチャレンジに
どのように取り組んでいるでしょうか?

 少しうまくいかないとやめてしまったり、
別の何かを始めてみたりしていませんか?
驚異的な成績を打ち立てるスーパースターではないのですから、
(将来的にスーパースターになる読者の方もいらっしゃると思いますが)
実際に何かを始める際には 失敗もありうるでしょう)

 むしろ

 百回に一回、
 場合によっては千回に三回(センミツ)
 もっと言えば、一万回に八回(マンパチ)

くらいしか「アタリ」はないものと考えて、
失敗したらすぐ次のやり方を試してみることが大切なのではないでしょうか?
そうやって数多くの「ハズレ」を継続的に経験することで、
「アタリ」に近づくと考えることもできるかもしれません。

 言い換えれば「アタリ」を引くためには、
一定の量の「ハズレ」を経験する必要があるとも言えるでしょう。
イチローも武豊も「ハズレ」のほうが多い世界で
「アタリ」の確率を相対的に高めてきたという点が
結果として残っている記録以上に偉大なのだと思います。



 想像してみてください。

 イチローが一回の凡退でプロ野球の道を諦めていたら、
 武豊が一回の負けレースで馬に乗ることを止めていたら、

今の彼らはもちろん、同じ日本人として誇らしい気持ちになるような
記録は一切生まれていないに違いありません。
我々も同じで、一度や二度の失敗で意気消沈し、取り組みをやめてしまうことは、
将来達成できるかもしれない「驚異的な記録」の芽を摘むことでもあります。



 具体例を挙げる時にOzakiが好きな野球、サッカー、競馬、将棋ばかりで
大変恐縮ですが、今度は将棋界のスーパースター羽生三冠(当時)の言葉を紹介します。
その言葉とは

「私は以前、才能は一瞬のきらめきだと思っていました。
 けれど今は、10年とか20年とか30年とか、
 同じ姿勢で同じ情熱を傾け続けられることが才能なんだと思っています」


 羽生さんは史上初めて、そして唯一将棋界の7つのタイトル戦を独占した
「スーパー棋士」とも言えるプロ中のプロ。
その羽生さんですら今日まで478回(公式戦のみ)負けているのです。
(ちなみに現役プロ棋士の中には1104回負けている超ベテランもいます)



 羽生さんは負けても負けても、

 別の手はないか、
 逆転の手はないか、
 局面を変化させることはできないか、

と情熱を傾け、考え続けて来たのだと思います。
この継続する姿勢こそが、羽生さん自身もおっしゃっているように、
有望な若手棋士が次々登場してもトップクラスの成績を維持できる
一つの要素なのではないでしょうか。



 Ozakiが最近読んだ何かの文章にも

 何かに挑戦したいと考える人が10000人いれば
 実際に挑戦を始める人が100人、
 その挑戦を続けられる人が1人

 という記述がありました。
それだけ、失敗にめげず長年続けることは難しいのだと解釈しています。



 イチロー選手や武豊騎手でも失敗のほうが圧倒的に多いのがこの世の中。
我々が一回や二回失敗を織り込まずして何が達成できるのでしょうか?
数回、数十回、あるいは数百回の失敗や挫折もあって当然です。

 毎日少しずつ何かに挑戦し続ける。
 小さなことであっても、昨日から一歩踏み込んだ行動をしてみる。
 そして挑戦を始めたら多少の失敗にめげずとにかく継続する。



こういった考え方、日々の行動が近い将来必ずやよい結果を生むのだ、
そう信じているOzakiです。

渡る世間は『型』ばかり

2014-08-09 12:02:53 | 意識を整える
 
 皆さんは芸術と聞いてどのような連想をするでしょうか?
絵画や音楽、小説などさまざまな芸術が思い浮かぶと思います。
そういった芸術の共通点として、感性や独創性が重要であろう、
というイメージがあるのではないかと思います。
Ozakiは芸術にとんと縁がないので、

 自分には芸術の才能はないから上手な絵は描けない
 独創性を生かした表現はムリ

といった先入観を持っていました。

 
 しかし、最近本を読んでいて、意外な事実を発見したのです。
それは絵画の教室では徹底してセオリーを教えるということ。
もし、感性や独創性が重要ということであれば、
絵の教室で教える内容も感覚的で抽象的なものになるはず。
ところが、絵画教室の実態は「型」のオンパレードなのだとか。

 具体的には

 「人物を描く時に首の長さと肩の長さの比はこのくらい。
 腕の長さと体の長さの比はこのくらい。
 そうすれば、人間を自然な姿で書けるようになる。」

といったもの。
これだけではなく、上手に見せるためのテクニックがいくつもあるようです。
ピカソやダリといった大画家、芸術家肌の人をイメージすると
意外にもほどがある、といった感じがしますよね。
しかしながら、絵画の世界は「型」がすべてなのだそうです。



 この事実はたとえオリジナリティが優先される芸術分野であっても、
基本となる「型」が重要であることを示しているのだと思います。
まずは定型化されたセオリーを大事に守り、忠実に再現する。
こういった「型」を繰り返せば、ある程度の品質、レベルを保つことができます。

 偉大なる芸術家の感性や独創性はそういった基本の上に
付け加える味付けといったところでしょうか?
基本がしっかりあり、それをいつでも再現できるからこそ、
工夫を加えても、構図や人物が自然と鑑賞者に受け入れられるのでしょう。



 芸術に比べればビジネスの世界は独創性の重要性は下がるはず。
であれば、なおさら「型」が大切になるのではないでしょうか?
新しいアイディアや取り組みはいつの時代も必要です。
これはビジネスの世界でも同じ。

 ただ、長い間受け継がれてきたセオリーや過去の成功事例、
他業種もしくは他国での類似の取り組みといった情報といった
「型」は世の中にいくらでも存在しています。

 やみくもに未知のものに飛びつくのではなく、
 自らの感性に従うのでもなく、
 周囲に惑わされて流行りのものを猛進するのでもなく、

まずは世の中にあふれている「型」から入って、「型」をマスターする。

 「型」が頭に染みつき、体が自然に動くようになり、
そして仕事の成果が継続的に成果が出始めてから自分なりの工夫を
加えても遅くはありません。



 芸術家の卵が絵を描く時の決まりごとを学ぶように、
ビジネスの世界でもまずは仕事のセオリー、「型」を身に着けること。
渡る世間に「型」は溢れています。
そういった「型」から自分なりのオリジナルの土台が生まれるのだと思います。



 独創性のようなスーパースキルを追いかけるのではなく、
世間にあふれている基本形を大事に、日々一歩一歩成長することが
「スーパースキル」なのかもしれませんね。



  ビジネスの格言で

A=当たり前のことを
B=馬鹿にせず
C=ちゃんとやりきる
 
 というものがありますが、「当たり前すぎる当たり前」である「型」を
愚直に実践し続けることができる人こそ将来的に大きな仕事を
するのではないでしょうか。