みなさんは仏像をご覧になる機会はありますか?
仏像の中には手がたくさんあったり、顔がたくさんあったり、
不思議な造形のものがありますよね。
一説によると顔や手がたくさんあるのは
仏様が多くの方の悩みに向き合い、救うためなのだとか。
そういわれてみると、そうか、と思わせてくれる話だと思います。
(仏教や芸術史等殆ど知りませんので、間違いであれば
申し訳ありませんがこっそり教えて頂けると幸いです)
今回からシリーズで人というのは色々な顔を持っているものだなぁ、
というお話をしてみたいと思います。
Ozakiが調べてみた中で最も顔の多い神仏は十一面観音という菩薩像。
文字通り十一の顔(場合によっては本体の顔+十一で十二の顔)を持ち、
現世で十種の、そして来世で四種のご利益をもたらしてくれるのだとか。
この十一面観音像の顔は四方八方すべての方向を向いているらしく、
それぞれ微妙に違う顔が見えるように作られているそうです。
つまり、見る場所、方向によって少しずつ菩薩の顔が違って見えるのです。
この話を読んで、Ozakiは人間でも似たような性質が
あるのではないか、と感じました。
一人の人間であっても、どの側面を捉えるかによって
その人の印象、記憶に残る特徴はまったく違ってくるのではないでしょうか?
例えばOzakiの場合、
競馬場で見た方は「競馬好きのおっさん」、
「獣医」という資格に反応する方は、「動物に詳しい人」、
職場で一緒に働く方は「ああ、危険地域専門の人ね」、
もしくは、「ああ、昔役員室にいて本部移転やってた人ね」、
金融等の話題で関係した方は「証券アナリスト勉強して基礎知識がある人」、
メルマガ読者の方にとっては「毎週文章を書いている人」、
同じマンションの方から見れば、「同世代の子供を持つ親」、
保育園の先生からは「夫婦で分担して送り迎えしているお父さん」、
不動産会社関係の方は、「買いもせず市場動向観察している変なお客」、
近所のスーパーでは、「ポイントカードをよく忘れ頻繁に後から加算するお客」
通勤電車ですれ違った方は、「無駄にスペースを占有するでかい奴」
といった感じです。
どのような立場に立ってOzakiを見るかによって
様々な「Ozaki」の捉え方があり、簡単に11くらいの顔が生まれます。
↑ではOzakiの事例を紹介しましたが、人間誰しも見る人によって、
またその時入っていったコミュニティによって多少顔が変わってくるはずです。
自分が普段関わっている人から見ると、自分がどのように見えるのか、
を考えてみる作業はそれだけでも興味深い結果が出ると思いますので、
是非やってみてください。
さて、同じ人でも見る人によって大きく異なる印象を持つ、
つまり異なる顔が見えてくるということが分かりました。
これはどういうことを意味するでしょうか?
Ozakiは少なくとも二つの捉え方があると考えています。
一つは自分が「見る立場」に立った時の考え方です。
Ozakiの事例でお伝えしたように、見え方一つで
まったく別の「Ozaki」が浮かび上がってくることは明白です。
そのため、一つの見方だけでOzakiという人間が分かったと言うのは
さすがに短絡的ではないかというのがOzaki自身の考え方。
少なくとも一人の人物がどういう人なのかを判断するにあたっては
複数の顔を知った上で、総合的に判断した方がよいのではないでしょうか?
職場では細かく、厳しい指摘ばかりして嫌な奴だと思う人でも、
実は地域でボランティアにいそしみ地元で評判の良い方だったという
話があってもおかしくないでしょう。
職場ではほとんど仕事もせずに昼寝している人でも、
実は社長の釣り友達でここぞという時はいい仕事をする、
だから大切にされているという人だっていてもおかしくないはずです。
十一面観音をぐるっと周囲から見つめて、初めてその美しさを
捉えることができるように、人間も短時間の面談、
一つの顔の印象だけで判断するのは好ましいことではないと考えます。
(次回に続きます)