36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

伝わらないから工夫する

2021-11-06 12:12:58 | コミュニケーション


 毎週月曜日にあるお客様と
定例のミーティングをしています。
プロジェクトスタートから順調に進んでいましたが
ここ数週間なぜか話が噛み合わず
当方チームも混乱していました。



 なぜこちらの意見が理解されないのかわからず、
また先方の反論もこちらの伺いたいポイントとは
ずれた内容の回答になってしまっており、
完全に議論が空転していたのです。

 反対に先方からすればなぜこちらが
同じ主張を繰り返すのか、
なぜ先方の意見を受け入れないのか、
理解できない様子。
メールや画像のやりとりなどもしてみたのですが、
さっぱりラチがあかず行き詰まってしまったので
本日フェイストゥフェイスのミーティングを実施。



 結果的に直接お会いすることで、
お互いの前提条件、特に時間軸が違っていることを
確認して無事前進の条件が整いました。



 日本人同士
 プロジェクト開始から数か月
 安全管理という共通の目的を共有

 といった共通点があってもなお、
前提条件の整理ができていないと
意思疎通がまったくできなくなることがある、
というのは新しい発見でした。



 コミュニケーションはかなり難しさを伴う行為です。
会話であれ文章であれ、普段あまり意識せずに
他人と情報を交換し、お互いわかったつもりに
なっているのですが、実際に相手の考えていることを
何パーセント理解できているか、はわかりません。



 同じ言語、同じ文化、似たような仕事スタイルでも

 前提条件がずれている
 同じ単語でも意味合いが少し違う
 当面の目標とする時期が違う

など知らず知らずのうちに意思疎通を妨げる
誤差が積み重なってしまうのでしょうね。



 まして

 言語が違う
 社会的な文化が違う
 宗教的背景が違う
 生活習慣が違う
 自己主張の度合いが違う
 生活水準が違う

といった相手と意思疎通する際には
そもそも前提条件が違う確率の方が高くなります。

 率直に相手に意見をするか、
 オブラートに包んで意見を伝えるか、
 否定的な意見を辞さないのか
 3つ褒めて1つ否定的な意見を挟むのか、

などコミュニケーションのスタイルにも
各言語や文化によって違いがあるようです。



 いま読み進めている

 「異文化理解力」

で興味深い記述の一つが
否定的な評価をする際はできるだけ1対1で、という
日本でよく言われる「常識」は
必ずしも世界的に当たり前ではないということでした。
個人への否定的な意見を衆人環視の中で発することも
日常的なコミュニケーションの一環としている文化も
あるようです。



 ビジネスであれ私生活であれ、
完璧なコミュニケーターでいられる方はほぼいません。
そして日本で通用するコミュニケーション技術は
外国に出ると全く通用しないこともあります。

 よかれと思って丁寧に説明すると

 「子ども扱いするな」

と言われてしまうこともあれば、

 相手のいいところを褒めてばかりいると

 「何か改善するところはありませんか」

と質問されてしまうこともあるのです。

 
 今回Ozakiも苦しみましたが、
伝えようとしてもなかなか伝わらないのが
意思疎通の難しいところ。
伝わらないことの方が多いのだ、
という認識を持つこと、
言い替えれば様々な工夫をしなければ、
本当に伝えたいことは伝わらない、
と考えて努力する必要がありそうですね。


聴くべき声と聞き流していい声(その2)

2020-07-11 09:19:25 | コミュニケーション

 ウェブサイトを運営していたり、
SNSやツイッター等で情報発信を継続していると、
時として思いがけない評価や批判を
頂くことがあります。



 「誰が見ているかわからない」

というインターネットという世界の特性上、
見ず知らずの方からの声を頂くことも
少なくないのが実態です。



 そういった声全てに対して、
一つ一つ真剣に対応していると
神経のすり減り方が尋常ではない、
ということに気づきました。

 かといって全く反応しないと
それはそれで精神衛生上よくないですし、
本来自省を促す適切な指摘を見逃す危険性も
抱えることになります。

 では、どのように反応レベルを区分するか。
これは情報発信者にとって非常に重要な問いだな、
と最近になって強く意識しています。



 Ozakiが掲げている現在の区分基準は、

 「インターネット上での匿名の罵詈雑言や
 誹謗中傷は聞き流してもいい声に分類される」

 「旧知の間柄の方や、関係が薄くとも
 実名で指摘、苦言を呈された場合は、
 真摯に受け止めるべき声に分類される」

というもの。
これはOzakiなりに様々なケースに思いを巡らし、
ひとまずの仮説にたどり着いた状態です。

 
 前者のケースでは
 
 そもそも誰が発言しているのか、
 こちらの発信背景を理解して発言しているのか、
 何事も批判することが信条の発言ではないか、
 代替案を含む建設的な指摘になっているか、

などしっかりと確認したほうがよいように思います。



 ネガティブなコメントほど、
いきなり心に飛び込んでくる傾向にありますが、
少し冷静になる時間が必要だと感じます。
特に、相手の批判や罵詈雑言を何度か読み、
その意味するところが何なのかを解読する時間は、
多少なりとも必要でしょう。

 
 そうやって読み解いてみると

 何かしらの誤解があるか、
 提示した論点以外(前提条件等)の認識違い、
 意味不明の八つ当たり、

といったケースが意外と多いことに気づきました。



 もちろん正確に自分の言わんとするところを
文章で表現できていないのは自分に非があります。
文章力の向上は不断の努力を続けなければ
ならないとは感じていますが、
そもそも受け手に理解するつもりがなく、
文脈を無視した上で、特定の単語などに対して
過剰な批判が行われることもよくあります。
こういったケースではこちらも過剰に反応して
情報発信を控えるのは逆効果ではないでしょうか?



 また、こちらが立場を明らかにし、
実名で情報発信をした内容に対し、
匿名で批判や罵詈雑言を発せられても
フェアな議論にもなりません。



 ですので、ozaki自身はこういった批判等を

 「聞き流していい声」

に区分するようにしています。
(あくまで聞き流してもよい、であって、
全てを聞き流すわけではないのですが)



 他方で、顔見知りや相手の立場、名前が
わかっている方からの批判や指摘は
どんなに耳が痛くとも

 「聴くべき声」

に分類しています。



 なぜならそういった方がネガティブな発言を
ozakiに向ける場合にはそれまでの関係を乱す
覚悟をした上で、

「それでもなお言わなければ」、

と考えた結果ではないかと思うからです。



 言わばある意味でozakiにとっての

 ファン
 応援者 
 (良い意味で)観察したいと思ってくれる方
 (ありがたい限りですが)慕ってくれている方



が、今の関係性を乱してでも伝えたい内容が
ozakiへの指摘、批判、指導といった形で
あふれ出るものが後者のネガティブ発言。

 長くozakiを観察してくれている方々からの
率直な意見を聴かなくなってしまったら
いよいよ自分自身の独りよがりに陥りそうです。
ファンからの批判を無視し、



 自分だけが正しい、
 周りはわかっていない、

と言うのは簡単です。
が、果たしてそれでよいのでしょうか



 ファンの高評価をありがたく受け取るだけでなく、
同じ方々からの批判を真正面から受け止めることも
ファンを裏切らないために必要不可欠。
むしろ、ファンからの批判を受け流す行為は
長く観察し、応援してくれている方に対して
裏切りと言えるかもしれません。



 インターネットの世界では
同じような批判、罵詈雑言等であっても、
発信者によってその受け止め方は変えてよい、
とozakiは考えています。

 ファンの方、長い付き合いの方からの声は
どんなに辛辣で、厳しいものであっても
真正面から受け止めなければならない

 「聴くべき声」。

 
 しかし、匿名かつ建設的でないコメントは、
状況によってなかったことにしてもよい、

 「聞き流してもよい声」

という分類、皆様はどのように感じましたか?


聴くべき声と聞き流していい声(その1)

2020-07-04 13:10:31 | コミュニケーション


 Ozakiが運営している
オウンドメディア(ウェブサイト)

に見ず知らずの方からの
資料請求がありました。



Ozakiの知り合いだから、という理由でもなく、
友人の紹介でとりあえず、という理由でもなく、
純粋にホームページの内容をご覧になって
資料請求していただいたことに
驚きとともにうれしさを感じます。



 そして同時に

 「いよいよ誰かわからない人にも読まれているぞ」

という緊張感を感じたのもまた事実です。



 これまではある程度現実のOzakiを知っている方が
ホームページも見てくれている、という状況。
多少言葉足らずでも、多少表現が荒くても、



 「まぁOzakiが言いたいのはこういうことだろう」

と上手に解釈していただくことも可能です。



 しかしながら、Ozakiと直接の付き合いもなく、
文章の癖を知っているわけでもない方からすれば

 何が言いたいんだ?
 そんなわけないだろう!
 こいつは頭がおかしいに違いない!?

といった読まれ方をされても文句は言えません。

 顔の見えない誰かにホームページやSNSを
読まれるようになるということは、
Ozakiが想像しうる読まれ方とは別の
思いがけない受け止め方をされ得るということ。



 場合によっては

 罵詈雑言、
 誹謗中傷、
 吊し上げ、
 大炎上、



という事態になってもおかしくないのです。



 ページがほとんど読まれない状態よりは、
多くの方に読まれた方がありがたい、
というのは率直にそう思います。
が、不特定多数の方に読まれるようになり、
それだけのリスクを背負う世界に突入した、
ということもまた、事実として認識しています。



 今後活動を拡大するにあたり、
批判を頂いたり、暴言を吐かれることも
覚悟しながら進めなければならないでしょう。



 万が一、罵詈雑言や誹謗中傷を受けた時、
自分自身がどの程度までしっかりと受け止めるか、
の指針を考える毎日です。

 現時点では仮説に過ぎませんが、
ひとまず考えがまとまってきたのは

 「インターネット上の罵詈雑言や
 誹謗中傷は聞き流してもいい声に分類される」

という点。

 
 Ozakiの事実誤認や表現の粗さに起因するものなら、
ご指摘、ご批判は真摯に受け止めるつもりです。
しかしながら、それを言ったら何もできない、
という発言は聞き流してみよう、というアイデア。



 長くなってきたので、次回詳しくご説明します。



(次回に続けます)

ディベートとダイアローグ

2020-06-06 17:11:38 | コミュニケーション


 コミュニケーションについて
いろいろ考える機会が多いOzakiです。
その中でも特に感じるのは、
自分も含め世の中の多くの方が
他人と意見が対立すると
かなりあっさりと意思疎通を諦めている
のではないか、という仮説です。



 上司と部下
 職場の同僚
 先輩と後輩
 それほど長い付き合いではない友人同士
 相性の良くない取引先
 親と子
 嫁と姑
 妻と夫
 
などなど、様々なコミュニケーションの
パターンがあり得ますよね。
実は↑の箇条書きはOzakiが自分の反省も込めて、
過去コミュニケーションを打ち切るシーンを
体験したり、目撃してきた関係性です。



 コミュニケーションが打ち切られるパターンで
最も多いのが、

 「自分の考え方が受け入れられないなら
 もうこの相手と話を続ける意味がない」

と考えて、話し合いを止めてしまうケースでしょう。
自分の頭の中身を少しずつ出して、
相手の頭の中身を入れ替えるべく、説得するなり、
論破するなりしようとすることが多いようです。



 自分自身を振り返ってみても、
相手を言い負かそうと試みる場合や、
自分が相手よりも多く知識を持っている!と
意気込んでいるケースほど
コミュニケーションに失敗するパターンが多いです。



 上に挙げた人間関係は
得てして、

 「自分の意見を相手に認めさせる」

というコミュニケーションパターンに
なりがちなのかもしれませんね。
こうした関係性での意思疎通は
得てして討論した結果、勝ち負けを決めるような
「ディベート型」のコミュニケーションになりがち。
ですので、相手が自分の言うことを聞かない、
そもそも前提が共有されていない場合には
討論の打ち切りもあり得る、
ということを想定しておくべきなのかもしれません。



 他方で、

 長く付き合っている友人同士
 信頼している相談相手
 尊敬している同僚
 ロールモデルとしている人生の先輩
 自分とは違う視点を持っているパートナー

といった関係性であれば、

 相手を言い負かそう、
 相手よりも優位に立とう、
 相手と知識を戦わせよう、

というディベート型ではなく、
相手の意見を取り込む、
自分とは違う感性を発見する、
ダイアローグ(対話)形式の
コミュニケーションが成立します。



 こういったケースでは、相手が何を言おうが、
好きな部分を切り取って自分の意見に付加すれば
よいわけですから、意見が違っても問題なし。
そのため、ディベート型と違って、
コミュニケーションの打ち切りというケースは
ほとんどないように思います。



 自分の意見は持ちつつも、
相手の意見、感想、コメントを柔軟に取り込む。
そして相手との対話の中で、
お互いが新しい発見を見つける、
というコミュニケーションは理想的なのではないか、
とも思います。



 敵対的になりがちな、
対立軸のある人間関係で
何も考えずに意見交換を始めると
ディベート型のコミュニケーションになりがち。
そして、最悪の場合は会話打ち切りです。

 そんな関係性の場合は、
ダイアローグ型のコミュニケーションがある、
ということを思い出しながら
会話をしてみてはどうでしょうか?

 自分と違う意見の一部でも取り込めないか、
 この人とは考えが違うけど、逆に新鮮だ!

といった具合に捉えてみると、
思いがけず新しい視野が開けるかもしれません。

 こんなにうまくいくかどうか、
自分でもまだまだ実験、修行の身ですが、

 「ディベート型よりはダイアローグ型」

をコミュニケーションの合言葉に掲げて
多くの方と意見交換してみたいものです。

画で音を焼き付ける

2020-03-21 02:50:15 | コミュニケーション


 前回のコラムでもご紹介した



 『リズと青い鳥』

というアニメ映画を見た後に、
映画の影の主題曲ともいえる吹奏楽の曲が
耳から離れない時期がしばらく続きました。



 ストーリーの盛り上がりと
絵本から飛び出したような美しい青い鳥、
そしてプロ予備軍である吹奏楽団による演奏。

 これらが相まって、音と映像の双方が、
Ozakiの脳裏に焼き付いてしまったのではないか、
と感じました。



 この経験を経て思い出したのが
ずいぶん昔に読んだ



 『昴(すばる)』
(曽田正人、小学館)

というバレエを題材にした漫画。



 この作品中、主人公のライバルとして登場する
「バレエの女王」的存在が
ラヴェルのボレロを踊るシーンがあります。

 ただ、あまりにも踊りと演奏が鮮烈すぎて、
翌日多くの聴衆が幻聴に悩まされる、
といった現象が起こる様子があったはず。
バレエの公演を見に来ていた観客が
憔悴しきった顔で

 「ボレロの音楽が頭から離れない!」

といった趣旨の叫び声をあげるコマが
いまだに記憶に残っています。



 漫画を読んでいた当時は

 
 こんなのはフィクションだからできること
 漫画ならではの誇張表現
 現実世界でこんなことないでしょう

なんてことを思っていたのですが…。



 自分自身が映画で流れた音楽を
幻聴(?)として延々聞くという経験を
したことで、考えは変わりました。



 人間は音と映像ががっちり結びつき、
感情ごと揺り動かされるとその音と画は
頭から離れなくなるのではないか、と
仮説をたてました。



 もしこの仮説が正しいとすれば、
我々が行うプレゼンテーションも

 「音と画を聞き手の脳に焼き付ける」

ように心がけると、内容を強く記憶してもらえる
のではないでしょうか?



 音は文字通りプレゼンテーションを行う際の声。
大きくはっきりと発声することが基本ですが、
音楽のようにリズミカルに伝えられると
よりよいと思っています。



 そして音を記憶に留めてもらうために
より重要なのは目から入ってくる
映像=画かもしれません。
Ozaki自身も映画の映像があったからこそ、
吹奏楽の楽曲が頭から離れなかったわけですし、
バレエ漫画でも踊りが素晴らしすぎたがゆえに
音楽が観客の頭に刷り込まれてしまう、
という描かれ方をしていました。

 音と画がセットになって
情報として入り込むと、
音が脳に焼き付いて残る、という
人間の知覚の法則があるのかもしれませんね。



 一般的にプレゼンテーションというと、
パワーポイント等でスライドを作って、
後から説明を考えることが多いと思います。
この場合は、資料の見せ方の巧拙、
説明の流暢さなどで記憶の残り方が
ある程度決まってくると感じています。

 他方で、一般的なスライドの作り方とは反対に
音(説明の声)に合わせてスライドを作成し、
動きや映像のタイミングをとると
どうなるのでしょうか?

 もしOzakiの仮説が正しく、
音と画をセットにして聴衆に届けることができたら
そのプレゼンテーションの音声を
聞き手の脳に焼き付けることも可能かもしれません。



 まだまだ仮説段階ですので、
これが本当かどうかはわかりません。
Ozaki自身のプレゼンでも
何度か挑戦して、この仮説が正しいかどうか、
実験してみたいと思います。

 ただ、これが本当であれば、
プレゼンテーションが終わった後にも
自分の発言を聞き手の頭の中に
残すことができる手法ということになります。
意図的にその状況を作り出せれば、
最高のプレゼンテーション技法だと
勝手に思い込んでいるのですが、
さて、実際はどうでしょうか?