36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

逆ヒヤリ・ハットの法則

2013-09-28 20:49:33 | 仕事術



 皆さんは「ヒヤリ・ハットの法則」をご存知でしょうか?
読者の中にはエンジニアの方も少なからずいらっしゃるので、
そういった方には周知の事実かもしれませんが念のため説明します。



 ヒヤリ・ハットとは、重大な災害や事故には至らないものの、
そういった大事故に直結してもおかしくない一歩手前の事例のことです。
文字通り、「ミスにヒヤリとしたり、ハッとしたりするもの」ですね。

 たとえば、お医者さんが間違った薬を患者さんに渡してしまった。
でも、患者さんがいつもの薬と違うことに気づき、実際には飲まなかった。
という事例は実際に何ら被害が起こっていませんが、
一歩間違うと完全に「医療事故」となりえるケースです。



 一般的に

 「1件の重大事故の陰に29件の軽微な事故があり、
  その陰にはさらに300件のヒヤリ・ハットが存在する」
  
とされています。(ハインリッヒの法則と言います)
つまり、ヒヤリとしたり、ハッとした事件が多い作業現場には
より多くの重大事故を起こす危険性があるということですね。
こういった側面を捉え、「失敗学」の大家である畑村洋太郎さんは
「失敗は確率現象である」とおっしゃっています。



 そういった経験則があるため、工場や医療といった現場では
日々ヒヤリ・ハットの事例を蓄積、共有して事故の防止に努めています。



 さて、今回のテーマは「逆ヒヤリ・ハットの法則」です。
逆ってなんだ?と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
逆ヒヤリ・ハットの法則はOzakiの造語ですが、簡単に言えば

 「1ついい仕事をしようと思ったら29回そこそこ褒められる仕事をして、
 さらにその裏では300回失敗したり、無駄になるような仕事が必要」

ということです。

 あの人はいつも仕事の成果がすごいなぁ、自分もあんな風になりたい、
なんて思うことはありませんか?
でも実際にそういった人が百発百中でいい仕事をしているわけではありません。
そういった人は300回の失敗や無駄を厭わず、仕事をし続けているはずです。
そうやって「空振り」を恐れずに努力を続けるからこそ、
「さすが」と言われる成果をあげているのです。

 
 しかしながら、外から見ていると、300回の失敗はなかなか見えません。
ですので、一回、もしくはせいぜい数回の挑戦で大きな成果を上げている、
と考えがちなんでしょうね。
そして、自分も!と思い、空振りなしでホームランを狙いたくなるのです。

 ところが、そういった「一発狙い」は往々にして失敗します。
それだけの努力をしていないのですから、当然ですよね。
たまたま大当たり!というケースもあり得なくはないでしょうが、
そういったまぐれ当たりは長続きしないはずです。

 成果を出し続ける人は300回空振りしてもその経験を活かして
次の一振りができる人なのだと思います。
そうやって「逆ヒヤリ・ハット」であるところの地道な努力を
続けている中に「軽微な事故」にあたるそこそこの成果がいくつか生まれ、
「大事故」にあたる大きな成果が生み出されるのではないでしょうか。



 Ozakiのような凡人が「一発大当たり」を狙ってもすぐには成果は出ません。
たとえ一つ一つは失敗に終わったとしても、無駄に終わったとしても
スイングを続け、その経験を蓄積していかなければ「当たり」はないのです。
そう考えると地道なスイングを嫌がっている場合ではありませんね。



 ちなみに、あのピカソは生涯で15万点近い作品を残しているそうです。
単純計算で、一日5~6の作品を描いていたことになるのだとか。
ピカソの代表作はいくつもありますが、その影には世に出ない、
圧倒的な数(有名な作品の300倍以上)の作品があるのですね。
むしろそれだけの圧倒的な作品数があるからこそ、有名な作品が
多く含まれていると考えることもできます。

 ピカソの名作群も「逆ヒヤリ・ハットの法則」の結果生まれた、
と言えるのかもしれませんね。

20代は朝飯前

2013-09-25 22:08:16 | 意識を整える

 (本編メルマガの)オススメ本コーナーでも取り上げますが、先週読了した
「プロフェッショナルサラリーマン」に面白い記述がありました。
それが「20代は朝飯前」という一節。
著者の友人が働き始めた頃に師匠から受けた話だそうですが、
Ozakiもなるほどなぁと感じたのでここでご紹介したいと思います。



 師匠(おそらく60代以上)が彼に対して

「おい、お前は今いくつになった?」

と問いかけ、彼は26歳ですと答えました。
そこで師匠は「まだまだお前は朝飯前だな」と応じます。

 師匠はその理由として、人生をざっと80年とすれば
0歳を0時、40歳で昼の12時、80歳で24時と考えられるから、と説明します。

 「26歳は朝7時ごろ、つまり朝ごはんを食べる前だから『朝飯前』。
 また朝飯も食ってない起きたてのひよっこでしかないぞということ。
 9時から仕事だとしたら、26歳のお前はまだ始業も迎えてないのだから
 一人前の仕事をしている気になんかなるな。
 むしろ今はしっかり朝飯を食う=いろいろなことを吸収することが大切。
 世の中からいろいろなものを与えてもらって、これから働くための
 栄養を蓄えている時期だと思え」

というのが師匠の教えでした。



 ちなみにその師匠はこう続けています。

 「30歳から40歳は午前の仕事の時間。
 この時期の頑張りで午後の仕事が決まる。
 だから朝飯を食べた後は昼まで猛烈に仕事をしろ。
 
 40歳は昼飯時。
 40歳になったら昼飯を食いながら午前の仕事、
 つまりこの10年間を振り返って午後の仕事の優先順位や段取りを決める。

 午前中に仕事を覚えたら、午後は自分自身の考えを持って仕事を
 組み立てられるし、場合によっては早く家に帰って好きなこともできる。
 逆にサボっていたらいつまでも何がどうなっているかわからないまま、
 残業をし続ける羽目になるからな」

 
 この理論、非常に含蓄があって興味深い一節だと感じました。
30歳というと、一般的には企業に入社して5年~10年ほど経過している時期。
後輩も増えてきていますし、日本的な企業では複数の部署を経験し、
「中堅どころ」の入り口に差し掛かっている頃でもあります。

 自分も、一人前になってきたなぁ
 自分で仕事ができるようになってきたぞ
 後輩の指導もできるようにならないと
 
などなど自分なりに仕事に対する自信を深めたり、
もしくは仕事へのハードルを上げていく時期なのではないかと思います。



 ところが、この師匠の理論によればそれは単なる思い上がり。
40歳でようやく中間地点なのであり、30歳は朝9時の始業時間でしかないのです。
つまり、本当の仕事は30歳頃からようやく始まるということ。

 現在は変化が激しい時代ということもあり、20代で起業する方や
30歳代では転職を考える人も多いようですね。
正直に言えば、Ozakiもそんな生き方に魅力を感じないわけではありません。
40歳までに基礎固めをするという考えは賛否両論あるはずです。

 それでも、こういった心構えで毎日の仕事に向かい、
長期的に自分自身を成長させていくという発想を持つのは悪くないと思います。
20代、30代で一見華々しい活躍をしなくとも、40代、50代で
「午後早く家に帰って好きなことをする」こともできるからです。

 20代後半~30代になったからと言って一人前気分に浸るのではなく、
まだまだ失敗も挫折もそして時には成功体験を積み重ねながら
成長を続けなければならない時期なのだとOzakiは感じました。



 いろいろな生き方があり、「正解」などありませんが、
同世代の読者の皆さんにはこの話どういう風に映るのでしょうか?



 ちなみにこの師匠、↑の話の最後には

 「ま、俺はあと風呂に入ってビール飲んで寝るだけだから」

と言ってユーモアたっぷりに〆ているのも印象的でした。
こういったことを20代に自信をもって語れる60歳、70歳を迎えたいですね。

知っているから楽しめる(その2)

2013-09-21 23:45:19 | 意識を整える
 前回は日食やカメラといった自然現象やテクノロジーを例に
なぜ、我々が神秘の現象を楽しむことができるのか、
また恐怖を感じずに技術の恩恵に与れるのかをお話しました。



 この「先を知っている」という状態が安心感を与えてくれるのは
我々の日常生活でも同じです。
何かを行う時、その後どうなるのかを知らなければ不安感で一杯です。



 仕事の場面で例を挙げるなら

 初めてチャレンジする仕事をどうすればいいかわからない
 初めて後輩(もしくは部下)ができてどう指導すればいいかわからない
 初めて転職活動をするにあたりどうすればいいかわからない

などなど、「知らない」がゆえに不安を感じる場面は多いはずです。

 プライベートであっても

 初めて海外に行くのでどう立ち回ればいいのか戸惑う
 初めて結婚する(普通はそうですが)ので、生活の変化が読めない
 初めて家を購入するので、手続きや資金計画がうまくできない

などなど、先行きが読めないがゆえに困ってしまうこともあるでしょう。



 具体例に挙げたような大きな変化でなくとも、
過去自分が経験したことのない場面では少なからずストレスを感じませんか?
これは我々が知らないから苦しむという事例ですよね。

 Ozakiも新しい挑戦、未経験の出来事に直面した時は内心非常に不安です。
ところが一度経験したことであれば、難しいかなと感じることはあっても、
「不安」や「戸惑い」は初回に比べればはるかに軽減されています。
たとえ初回で大失敗していても、思いのほか不安感はない気がしています。

 読者のみなさんにとっても同じでしょうか?
初回と2回目以降で感じ方が変わる、不思議と言えば、不思議ですよね。
ただ、金環日食を見ていて、

 「なるほど、知っているから心置きなく楽しめるのか」

と気づいたときに、この心の動きが少し理解できました。
失敗することや成果の出方を気にして感じる不安に比べて、
初めて経験するという事実に対する不安のほうが圧倒的に大きいのでしょう。

 「この後どうなるのか、全く分からない」

という状況は間違いなく不安です。
日食やカメラの原理を知らない昔の人類と同じで、
知らないがゆえに困惑してしまうし、パニックになってしまうのだと思います。



 もしこの仮説が正しいとすれば。
将来感じるであろう不安は早め早めにいろいろな経験を積むことで
不安の芽を摘むことができるはずです。
未経験の出来事を減らせば、「知らないから不安」という状況は減るはず。
と同時に「知っているからこそ、楽しめる」というケースも増えますよね。



 金環日食の機会を踏まえて、日頃Ozakiが考えていることを
コラムとしてまとめてみました。 

知っているから楽しめる(その1)

2013-09-14 12:22:10 | 意識を整える

 今日は日本では932年ぶりと言われる金環日食が観測されました。
(このコラムは2012年5月21日に配信したメルマガに掲載されました。
メルマガではおススメ本や活動記録等も配信しております。
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 日本では朝からどの放送局も必ず取り上げていましたし、
インターネットのニュースでも報道されていましたね。
英語でも記事が発信されていましたので、皆さんが活躍中の国でも
ニュースになっていたかもしれません。


 932年ぶりという珍しさに加え、「はやぶさ」以降の宇宙ブームもあって
金環日食を観測しようとする方も多かったようです。
Ozakiも書店で「金環日食観測グラス」を見かけましたし、
TVでは通勤前、通学前にグラスを使って同じ方向を見ている多数の
人が並んでいる様子を報道していました。
まさに、金環日食が観測できた地域では天文ショーを楽しんだ一日でした。


 しかしながら、よくよく考えてみると金環日食に限らず、
日食という現象は原理がわからなければ「天変地異」に他なりません。
昔の人は神のたたりであるとか、誰かの怨念などと考えていた
という記録も残されているようです。

 それもそのはず、

 普段はさんさんと大地を照らしていた太陽、
 人間のみならず多くの動物が活動開始のきっかけとする太陽、

が急に光を失い、あたりが暗くなるのです。
月が太陽を一瞬隠すという原理を知らなければ驚く、恐れるといった
感覚はごく自然なものでしょう。

 これから先、太陽の光が永遠に失われたらどうなるんだろうか?
人間の力では何もできない自然現象におののくしかなかったはずです。
ですので、今日のように金環日食を楽しむなどということはあり得ません。
ごく一部、占星術の延長でこの現象をある程度把握していた
シャーマン、巫女、陰陽師などが日食や月食を予言して、
尊敬を集めていたという説も説得力がありますよね。


 我々、現代に暮らす人間が日食を心置きなく楽しめるのは
日食はきっちりと発生時間、地域が予想でき、かつ一定時間後には
まったく元通りになることがわかっているからです。
この先ずっと暗黒の時代が来るのだろうか、などと恐れないからこそ、
日食グラスを買い、みんなで太陽を見て楽しむということができるのです。



 同じような事例として写真が挙げられます。
写真機は江戸時代、島津藩にヨーロッパから入ってきました。
ところが、当時の武士たちは「魂を抜かれる」と言って
写真機を怖がっていたようです。

 得体のしれない機械の前でじっとしていると自分そっくりの
「絵」が出来上がるというのは原理を知らなければ理解できません。
魂を抜かれて、死んでしまうのではないか、という不安ももっとも。

 時代が下った現代では写真機=カメラを怖がる人などいませんし、
携帯電話やデジタルカメラとして多くの人が一台以上保有しています。
そして街中にはプリクラや証明写真機があふれています。
誰一人としてカメラを恐れず、写真を撮っているのは
原理を知り、そしてその後なんの害もないことを十分理解しているからです。


(次回に続きます)

叱られるほど偉い(その2)

2013-09-07 10:41:14 | 仕事術


 前回は日本電産の永守社長、そしてプロ野球の野村監督の言葉を
踏まえて、一流の経営者や監督が叱責することの意味をどう考えているか、
ご紹介しました。

 お二人とも一流の部下こそ叱って育てるという哲学をお持ちです。
褒められるよりも叱られる人に期待をしているのですね。
思えば叱るという行為を行う時には大きなエネルギーを消費します。
一方的に感情を発散させるような怒り方をする人を除けば、
大部分の日本人は叱った後、

 強く言い過ぎたのではないか?
 自分の側にも非があったのではないか?
 自分が誤解をしていて、関係のないことで叱っていないだろうか? 

などなど、反省することも多いですよね。
人によって、時には自己嫌悪に陥るようなこともあるかと思います。
怒る、叱るというのはそれだけ自らのエネルギーを使うものなのでしょう。

 
 エネルギーを使ってでも一流の人を叱るのはなぜでしょうか?

 自らが理想とする姿と現在の自分の姿とのギャップを認知し、
居心地の悪さを感じる状況を、認知的不協和と言うそうです。

 一流の人の場合、上司や先輩に厳しく叱られると
この認知的不協和が起こります。
そして、それを解消しようとして自ら努力し、自らを磨いて
「ギャップ」を埋めようとやる気を出すのです。



 一流と認められている人はこのプロセスを自分自身で行えることを
永守さんや野村監督はよくわかっているのでしょうね。
だからこそ、「叱られるほど偉い」という発想になるのだと思います。



 ところがこのやりかたは、限られた一流の人たちにしか通じません。
他の多くの人たちは、(Ozakiも含め)残念ながら叱責をきっかけとして
自分で変化を起こせるわけではありません。


 自分が能力を発揮できないのは環境が悪いからだ
 自分が不遇を囲っているのはヘンな上司がいるせいだ
 自分の評価が低いのは周囲が不当に評価しているからだ


などなど、叱責を他人のせいにしてしまうこともしばしば。
怒られたからといって自分を変えるのではなく、
外部に向けて怒りを転嫁してしまうのです。
言わば叱責を「他人事」にしまっているので怒られても成長できないのです。


 野村監督の言葉を借りれば「二流」、つまり平均程度のメンバーには
褒めることによってまずは叱責を「自分事」にできる度量を身に着けさせ、
その後叱ってさらなる飛躍に期待をかける必要があるのでしょう。



 また、野村監督は「三流」を無視せよ、と言っています。
これは厳しいプロスポーツの世界でのみ通用するやり方で、
簡単に解雇ができない日本の会社組織では難しいでしょう。
三流に対しても褒めて育てる、成長するのを待つ以外にないと思います。
(遅刻の常連や犯罪に手を染めるといった場合は解雇もあり得るでしょうが)



 つまり、一般的な会社組織の中では褒められているうちは二流もしくは三流。
一部の叱られている人こそ一流と考えられなくもありません。



 「社長に叱られるほど偉い」
とは永守さん率いる日本電産社内の認識だそうですが、
他の会社・組織でも当てはまるかもしれませんね。

 もし読者の方が日々叱られているのであれば
それは一流として先輩、上司に認められているからかもしれません。
そしてもし日々褒められているのであれば、
その状況に満足することなくさらなる高みを目指すべし、
そういう考え方もあるかもしれませんね。