36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

1勝9敗のレースに出走する

2013-12-28 16:37:53 | 意識を整える




 Ozakiはいくつかのメルマガを購読してます。
たいていはざっと読み流しつつ、なるほどと感じるものは保管しています。
そういったメルマガの中には思考回路や人生観を揺さぶられるような
文章に出会えた!と心底感じるようなものもあります。


 今回はごく最近受け取ったメルマガに書かれていた一節に、
非常に感動し、Ozakiも心がけようと感じたものがありましたので、
読者の皆さんにもシェアさせていただきたいと思います。



------ここから引用------

「もしあなたが心から何かを変えたいと望むのであれば、
欠かせないことがある。
それは、まず始めに、あなたが生きている“基準”を変えることだ」

 わたしたちは無意識のうちに、
「自分はこれくらいのものだ」という「基準値」を設定してしまっています。

・朝起きる時間はこんなもんだ
・会社に出社する時間はこんなもんだ
・月の収入はこんなもんだ
・付き合う友人たちはこんなもんだ
・・・etc.

 そうして、その基準値を超えると、「調子がいいわ!」と舞い上がり、
その基準値を下回ると、「大変だ!」と慌てふためくのです。

 大切なことは、

 「その基準値はどこに設定されているか?」
をしっかりと把握し、
 「その基準値はあなたが望む未来にふさわしいか?」
を考えなければならない、ということです。

 あなたがどれだけ舞い上がっていても、基準値が低ければ、
人生の質は低いままなのです。



 ▼ 「チャレンジとは、次の基準で生きること」

 人生でもビジネスでも、ひとつ上の基準に挑んでいかなければなりません。

 人生は、競争が全てではないし、勝ち負けが全てではないけれど、
「ゲーム」としての要素がたくさん詰まっています。

 2012年の「後半戦」をゲームとして考えてみると、
どんな基準のゲームにエントリーしようとしているでしょうか?

 多くの人は、「負けたくない」という気持ちが強いので、
「負けないレース」にしか参加しようとしません。
「10勝0敗」となるようなレースで戦ってしまいます。

 しかし、わたし自身がとても大切にしているのは、
常に「負けるかもしれないレース」にエントリーするようにする
ということです。

 これまで挑んだことのない次の基準のレースに、エントリーすると、
見えてくる世界や、走っている選手達の実力も大きく異なり、
全く違う刺激が得られるのです。



 ▼「課題」をみつけるために「次のレベルのレース」に出る

 「勝てるかどうか」でゲームを戦うと、
人生は勝ち負けが全てになってしまいますが、
人生の本質は、「どれだけ成長したか」によって決まります。

 ひとの成長を妨げているのは常に、「気づいてない自分の一部」です。
そこに気づき、「課題」としてもって帰り、日々の中で改善し、
またゲームにエントリーする。

 パフォーマンスが高い人は、ゲームに勝つことも少年のように楽しみますが、
一方で、そのゲームから「どんな課題が見つかるか?」にワクワクしています。

 ビリでもいいから、トップグループの中で、一緒に走ってみる。
すると、ほんとうに課題がたくさんみつかってきます。

 「1勝9敗 」

 それぐらいのレースにエントリーし続けていきましょう。

 「10勝0敗」のときの「10勝の価値」よりも、
そこで得られた「1勝の価値」はとてつもなく大きいですし、
なにより「9敗の価値」が人間として、いくら払っても得られない
学びを与えてくれるでしょう。



------引用ここまで------



 いかがでしょうか?
この文章はアメリカでNo.1と呼び声の高い自己啓発コーチ、
アンソニー・ロビンズ氏から直接学んだ池田貴将という方が書いたもの。
(アンソニー氏のセミナー代金は数百万円だそうです(驚))



 この文章を読んでOzakiはまったくその通りだと感じました。
そして明日からと言わず今日から「負けるかもしれない」
「10回に1回しか成功しないかもしれないレースに挑戦しよう」
そんな気持ちになったのです。

 
 Ozakiが大好きな競馬でもほとんどの馬は10回出走して1回勝てば万々歳。
超一流の騎手でも勝率は15%程度ですから、勝率10%はかなりの好成績。
競馬では勝つことがいかに難しいか、よくわかっていただけると思います。

 また、競馬のルールとして一度勝つと次に出走するレースは
負かした相手と同じレースに出ることはできないことになっています。
既に勝ち上がっている、実力上位の馬とのレースになるのです。
つまり、負ける可能性が高いレースに挑まざるを得ないのです。
ディープインパクトや昨日世界最高峰のレースである凱旋門賞で
素晴らしいレースを見せたオルフェーヴルといった超一流馬はさておき、
ほとんどの馬は2連勝することすらできないのが現実です。



 人間の場合、実力上位の人と無理やり対峙しなければならない、
といったルールはありません。
ですから、時として人は

 無理なくできそうな仕事、
 過去に経験があるやり方、
 ある程度先が読めそうな挑戦、

 といった「勝てそうなレース」もしくは「負けないレース」に
出走しがちになるのではないかと思います。



 しかしながら、池田さんが言うように勝つとわかっていてレースに
出走しても、そこから得られるものはあまりありません。
ただ勝った(成功した、やり遂げた)という結果は残るかもしれませんが、
それ以上の価値は得られそうにありません。

 逆に

 今の自分ではちょっと無理そうな仕事、
 過去に全く経験したことがないやり方、
 準備はできても、結果がまったく予想できない挑戦、

といった「10回に1回くらいしか勝てそうにないレース」に
出走することで、初めて人生経験の幅が広がるのではないでしょうか。
そして負けることを通じて、次の挑戦に生かすことができる
知識や知恵を身に着けることができるのだとOzakiは思います。



 1勝9敗のレースなのですから、失敗してもともと。
失敗そのものを恐れるのではなく、自分の人生の質を向上させるために、
負けたら負けたでその経験から学ぼう!というくらいの気持ちで
1勝9敗のレースに出走し続けることが大事なのでしょうね。 

当たり前のレベルを上げる(その2)

2013-12-24 00:25:35 | 意識を整える


先週は中国雑技団の日々の練習風景を通じて、
当たり前の反復訓練こそ高度な技術習得の第一歩、ということをお話しました。
今回は当たり前のレベルをあげることでどんな違いが生まれるのか、
をまとめてみたいと思います。



 昔、日本でお世話になっていた美容師さんに軽い気持ちで質問しました。



 「カリスマ美容師と、そうでない美容師の差は何なんですか?
  カリスマと呼ばれる人に共通するような特徴ってありますか?」

 するとその美容師さんはこんな興味深い答えをしてくれました。

 「シャンプーで指名をとれるような人は美容師として人気が出ますね
カリスマかどうか別として、そういう美容師はお客様に恵まれます」



 髪の毛を切ったり、ヘアスタイルを整えたりするときに
美容師を指名することはよくあると思います。
しかしながら、シャンプーをこの人にお願いしたいと意思表示する
お客さんはあまり多くないのではないでしょうか?
たいていはお店の若手なり、入ったばかりの人がやってくれるのですが、
成り行きに任せ、お店のアレンジ任せになっていると思います。
(Ozakiもいつも流れのままにやってもらっています)

 しかし、すごくシャンプーがうまい人がいるとなるとどうでしょうか?
シャンプーの担当を指名するといった慣習がなくても
あの人にシャンプーをお願いしたい、と指名したくなりますよね。



 美容師にとってシャンプーは、地味な仕事です。
斬新なスタイルを生み出したり、高度な技術を使って髪を整えることが
美容師の晴れ舞台だとすれば、どちらかというと裏方的な内容ですよね。
しかし、将来カリスマになる(可能性がある)美容師さんは、
気持ちのいいシャンプーのやり方を徹底的に研究するのだそうです。

 また、お客さんが気持ちよく過ごせるサービスの研究も怠らない人もいます。
担当したお客さんとの会話をメモしたり、しっかりと記憶しておいて
次回の来店時に前回の話題からスムーズに会話を続けられる、といったような。



 カリスマと呼ばれるような美容師、もしくはそう呼ばれなくとも
お客さんが絶えない美容師の皆さんは例えシャンプーのような地道な作業でも
そこまで徹底して研究し、実践することを当たり前だと思っているのでしょう。
そうやって当たり前のレベルを上げた先に、人気のある美容師といった
名声、地位が手に入るのではないでしょうか?


 地味な作業であっても、毎日やっていることの小さな差が、
3年後、5年後、10年後に、圧倒的な差になっていくのです。
これはまさに雑技団がステージ上の派手なパフォーマンスの裏で
日々基本的なトレーニングを繰り返すことと全く同じ作業に似ていますよね。
多くの人が(少なくとも表面上は)できてしまう、そんな当たり前の
レベルを底上げしていくことによって、将来的な実力、評価は大きく開くのです。



「シャンプーをするために専門学校を卒業したわけじゃないのに…」

と思いながらシャンプーする美容師の卵と、

「シャンプーはスタイリストになったら後輩に譲ることになる。
むしろシャンプーは今しかできない仕事だから、
指名をいただけるような気持ちいい接客を今のうちに身に付けよう」

と思う美容師の卵。

 皆さんはどちらの人にシャンプーして欲しいでしょうか?
そしてどちらの人がいるお店にヘアカットしに行きたいでしょうか?


 たとえ目立つステージに立っていない状況でも、
 たとえ日々同じような作業の繰り返しであっても、
 たとえ多くの人ができてしまう仕事であっても、


徹底的に研究をして、「当たり前」のレベルを上げることができたなら…。
短期的にはごくわずかの差しか生じないかもしれませんが、毎日毎日差が
蓄積していけば大きな差が開くのは明らかですよね。



 当たり前のレベルを上げることで難しいことにも挑戦できるようになります。
そして当たり前のレベルを上げることで、将来的には大きな差が生まれます。

 
 今皆さんはどういった心境で日々の「当たり前」業務に取り組んでいますか?

当たり前のレベルを上げる(その1)

2013-12-21 13:06:55 | 意識を整える



 先日の研修からの帰国便で「氷上の雑技団」というタイトルの
ドキュメンタリー映像を見る機会がありました。

 中国雑技団と言えば、人間業とは思えない曲芸を次々と披露する、
世界的にも有名なサーカス団、いや芸術家集団と言えるでしょう。
ドキュメンタリーを見ると素顔の彼らはあどけなさの残る子供、
若者のようでした。

 「氷上の雑技団」というタイトルの通り、映像で紹介されるのは
通常のステージでの公演ではありません。
アイススケートをしながら様々な曲芸を行う新しいスタイルの
公演に挑戦する姿を追ったものです。


 その過程で団員が

 練習に打ち込む姿、
 プロデューサー(?)から指導を受ける姿、
 失敗を繰り返し涙する姿、
 合同練習を成功させ歓喜する姿、

など公演に至るまでのストーリーが繰り広げられるわけです。



 しかしながら、氷の上で演技をするというのはなかなか難しい様子。
(Ozakiにはしっかりした足場でもあんな曲芸できませんが…)
何度も失敗して、合同練習でもまったくリハーサルが前に進みません。
そういう時、雑技団の指導者はどういう指示をしたか想像できますか?



 彼が若い団員たちに命じたことは
 
 「スケートのことは忘れてもう一度基本をやり直せ」

というただ一言でした。

 この言葉を受けて、団員たちは体育館でジャグリングやリボン演技、
体だけを使った演技など普段当たり前のようにやっていることを
真剣に取り組むようになりました。

 その結果、普段から当たり前のようにできているとはいえ、
公演の根幹となる部分をあたかも呼吸するかのように、
集中しなくともできるように仕立て上げたのです。



 一方でその指導者はスケートの練習はそれほどさせませんでした。
むしろ全員でスケート靴のまま縄跳びをしたり、スケート靴を履いて、
リンクの整備作業をさせたり、「練習」を避けているようにも見えました。

 雑技団のメンバーはスケートのプロではありません。
当然、氷上公演に前もってある程度スケートができる団員を
選抜しているのでしょうが、スケート選手ではないことは間違いありません。
スケートを一生懸命練習しても、簡単にはプロのように滑れないのです。

 ですから指導者もスケートにはそこそこ慣れる程度でも構わない、
むしろ日ごろから徹底して練習している部分のレベルをさらに上げよう、
そういった指示をしたのではないでしょうか?
雑技団の本分を無意識のうちにできるようになればスケートに集中できる。
そうすれば、スケートに気を遣いながら演技をしたとしても、
「呼吸」をしながら滑っているのとそれほど変わりません。



 自分たちが普段からできていること、
 自分たちが最もやらなければならないこと、
 自分たちができて当たり前のこと、

こういったことのレベルをさらに上げることによって、
他の新しい取り組みに気を取られてもパフォーマンスが下がることはない、
そういう「当たり前のこと」の大切さを感じた映像でした。
 


(次回に続けます)

リーダーは肩書ではない

2013-12-14 08:38:41 | 意識を整える


 先週参加した研修で面白い現象を発見しました。
今回のコラムではその現象をシェアしたいと思います。

 研修中には何度もグループディスカッションを行いました。

 緊急事態の時にはどう対応するのがベストか?
 危険な地域を移動する前にどんな準備が必要か?
 もし自分が人質に取られたらどうするか?

などなど、様々なポイントで議論を重ね、参加者が結論を出すのです。



 そうした話し合いの中で一つ気づいたことがあります。
それは

 「必ずしも数多く発言する人が影響力を持つわけではない」

ということ。
長くしゃべってもグループ全体がその意見に動かされるとは
限らないということでもあります。
声が大きかったり、あるテーマについて自分の体験を
熱っぽく語るだけでは必ずしも賛同が得られるわけではないのですね。



 ところが、興味深いことにしゃべってもしゃべらなくても
討論の場の空気を支配することができる人がいたのです。
その人が口を開けば、グループ全員が耳をすませます。
その人が黙っていると、何を考えているんだろうか、と
グループ全員が様子をうかがい始めます。
まさに、その場の「リーダー」たる存在感でした。

 しかもその人は特段目立った肩書を持たない人だったのです。
国連機関の所長や各組織の管理職というわけでもありません。
一参加者として研修に参加している、言わば尾崎と同じ立場の人。

 
 そんな「普通の人」がしゃべっている時も、しゃべっていない時も
大人数かつ多国籍の議論の主導権を握っている。
今回の研修ではそんな場面を目撃したのです。


 それを見てOzakiは、

 リーダーシップは肩書についてくるわけではない

ということを痛感させられました。



 読者の皆さんも自分の周囲の人を思い浮かべてみてください。
身近に二種類の人が思い浮かぶのではないでしょうか?

一つは上記で述べたような

 「肩書はないけれども、大きな影響力を持つ」

タイプの人。

二つ目は

 「肩書はあるけれども、影響力はそんなにない」

タイプの人。

二番目のタイプしか記憶にないという方もいるかもしれませんが、
間違いなくどちらも皆さんの周りにいるはずです。



 肩書がある人が、リーダーシップを十分に発揮する、
これが理想的な状況だとOzakiは考えています。
上司たる人がしっかりと部下を率い、
任せるところは任せて、仕切るところはしっかり指示する。
そんな上司のために働いてみたいですし、自分もそうありたいですね。

 しかしながら、肩書は欲しいと思って持てるものではありません。
寧ろ肩書を手に入れたはいいが、誰にも話を聞いてもらえない、
しゃべっていてもしゃべっていなくても「空気」扱いされる。
そんな人になってしまうとやるせない気持ちになってしまいますよね。

 それならば、肩書はさておき、自分が影響力を発揮できるよう、
多くの人に自然と話を聞いてもらえるよう努力する方がベターでしょう。
Ozakiが今回の研修中に目撃したような人が実在するならば、
肩書を持たない我々だってそうなれないはずがありません。



 肩書がなくてもリーダーにはなれる。
 肩書がなくても発言に注目してもらうことはできる。
 肩書がなくても意見を聞いてみたいと思わせることはできる。



そんな大事なことに気づかされた研修中のグループ討論でした。

結果を追求しても、結果に拘らない(その2)

2013-12-07 17:46:13 | 仕事術

 前回はとにかく結果を追求し、よい結果を出すためにできる限りの
努力をしておくべきですよ、という考えの背景を説明しました。
今回はその一方で、結果に拘らない考え方も必要ですよ、
というOzakiの思考プロセスに触れてみたいと思います。 



 どんな仕事であっても、一生懸命に役割を果たそうとする方ならば
プロセスを評価してもらおうという姿勢ではなく、良い結果を出さなければ
結果的に評価されないという現実に直面するはずです。
そのため、一生懸命になればなるほど、思わしいアウトプットが出ないと

 自分の力が足りないんじゃないか
 なにかやり方を変えなければいけないんじゃないか
 うまくやるために何が足りないんだろうか
 
と、自分が望む成果を得るためには試行錯誤し、悩むことになります。

 ところが、どんなにそういった努力をしても、
必ずしもよい結果を得ることができないのがこの世の常。



 入念にプレゼンを準備し、受注したのに客先の経営悪化で破談に…
 稼ぎ時の夏休み期間に天候不順でお客様が集まらない…
 与野党の対立で時間をかけて準備していた政策が実施できない…
 
などなど、自分の力、会社の力などではどうにもならないトラブルで
結果的に、「何もしなかった」のと変わらないこともあるはずです。
責任感が強く、仕事が好きな人ほど、こんな状況を悔しく思うでしょう。
場合によっては良い結果がでなかったのは自分のせいではないか?
と自分を追いつめてしまうこともあるかもしれませんね。



 Ozakiは結果というものが、その人のがんばりだけでなく、
いろいろな周辺環境が絡み合ってはじき出されるものだと考えています。
世界情勢や経営環境や、天候だけでなく、相手先のその日の気分、
もしくは自分の会社の内部事情などありとあらゆる要素が関係するのです。
そして、各要素がほんの少しずつ違うだけで、最終的な「答え」は
全く違ったものになってしまうことだってある、と思います。



 Ozakiは一年ほど前にもこんなコラムを配信しています。

「競馬の世界ではどんなに努力しても一着という最高の結果を
 得ることができるとは限らない。
 雨が降ったり、風が吹いて馬が集中力を欠いてしまったり、
 他の馬にぶつけられたり、レース中骨折したり。
 でも一着という結果を得られるのはできる限りの努力と
 完璧な準備をしてきた陣営だけである」

 
 競馬は、狙った通りの成績が取れるかどうかは本当に些細な違い、
それこそ文字通り「ハナ差」で決まってしまうこともある世界です。
少々のことでは負けないよう競走馬の速さ、強さを鍛えるのが人間の
役割ですが、実力で克服できないような不利だってありえます。

 どんなに結果を追求して日々鍛錬を積み重ねたとしても、
欲しい結果を手に入れられるかどうかは未知数なのです。



 人間の仕事も同じではないでしょうか?
どんなに時間と労力をかけて仕事をしたとしても報われない時はある。
たとえ時間のかけ方も、労力のかけ方も間違っていない場合でも、
全く違う要素がかみ合わなければ失敗に終わる時もある。

 本当にしっかりと自分の役割を果たし、結果を追求しきったのであれば、
そこから先、本当の結果がでるかどうかは「なるようになるさ」と思うしかない、
そんな風にOzakiは考えています。



 ですから、後輩から悩みを相談された時に、相談者が

 自分自身が果たすべき責任をしっかりと担当できていた
 事前にイメージできる限りの予想外の出来事も含めて備えていた
 チーム全体でよい成績を目指す動きのキーマンになっていた

といった場合には

「結果は思いがけない要因で変わってしまうこともある。
 最終的な結果が悪くても自分ばかりを責めるな」

というアドバイスになるのです。 



 もっと自分がやれることをしっかりやれ、と言う場合、
 やれることをしっかりやったのだから気にするな、と言う場合

 
 Ozakiのアドバイスは大抵この二パターンに分かれるのですが、
どちらも突き詰めて考えていけば、

 「結果を追求しても、結果に拘らない」

という(おそらくはOzaki自身の)人生哲学のようなものに
行きつくような気がしています。



 思わしいものであろうが、なかろうが、一定の結果が出たら
その後、それまでのプロセスを踏まえて新しい努力を始めればよいのです。
どんなに過去を振り返ったとしても既に起こってしまった出来事は
やりなおすことはできません。

 我々にできることは自分が行った行為の結果を踏まえて、
次の一歩を踏み出すだけ。
そうなのであれば、なおさら結果そのものには拘らず、
未来に向けて経年優化を目指すほうがずっと実のあることではないか、
そんな風に思うのです。