36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

人は変えられない(その3)

2014-06-28 14:14:37 | 意識を整える


 先週、先々週と二回にわたって他人の行動を変えるのはおこがましい、
他人の行動を変えたがるのは自分が未熟な証拠というお話をお伝えしました。

 今回はこのシリーズ最終回。
他人の行動を変えられないなら、自分が変わるしかない。
他人の行動を変えるきっかけを作れるのならなおよし、というお話です。



 「馬を水飲み場に連れて行くことはできても、
 馬に無理やり水を飲ませることはできない」

という英語のことわざがあります。
本人に意志がなければどんなにおぜん立てしても、
行動に移すことを強制できないという意味あいです。
長く使われているだけあって、わかりやすい表現になっていますよね。



 このことわざでも表現されている通り、
どんなに自分の都合、自分の論理で相手を変えようとしても、
他人は変わってくれるものではありません。
自分の子どもであっても、なかなか思う通りには動いてくれない
(実際には全く思い通りになどなりません)ものですよね。

 自分自身が上司や先輩であったり、お金を支払う客の立場であれば、
その場で相手に命令し、一時的に行動を起こさせることは可能かもしれません。
しかしながら、それもごくごく短期的なものに留まることはご想像の通り。
本当の意味で相手に自分の思い通り動いてもらうのは極めて難しいことです。



 では実際に自分が他人の行動によってイライラしないためには
どうすればよいのでしょうか?
最も簡単、かつ現実的なのは、他人とはそういうものである、
と割り切って自分を相手に適応させることです。

 相手の行動が変えられないのであれば、自分の受け取り方や
自分の行動を変えればよいのです。
相手のリクエストを(たとえわがままだと思ったとしても)
できる限り実現するように自分のこだわりやプライドを譲ってしまうこと。

 こうやって自分の行動を変え、状況に適応すれば、
相手を無理やり変えようとして失敗することに比べれば
はるかに少ないストレスで済むのではないでしょうか?
相手も、希望がかなっているのですから、よほど嫌われていない限り、
あなたのことをあれこれ言うとは思えません。
また、この方法を継続すれば、相手の好みをつかむことができ、
おのずと相手からの細かい注文が減ってくるという利点もありますね。



 しかしながら、このやり方は自分だけを変えるという方法でもあります。
もし、自分の行動を変え、状況に適応しつつも
相手が自発的に変わり、行動を変化させるよう誘導できれば、
それが最も理想的かもしれませんね。

 
 Ozakiは自分の行動や挑戦の結果、より多くの人が前向きに生きよう、
できれば毎日一歩一歩成長しようと考えてもらえるとうれしいと感じています。
自身を変えることによって自分自身がまず成長する。
周りの人の生き方を自分の発信力で変えようとするなどとは
おこがましい限りですので、微塵も思っていません。

 それでも、日々Ozakiが奮闘する中で、読者の方やOzakiの周囲にいる人たちが
面白い人間に出会った、魅力的な人間だったと感じ、
その結果自らチャレンジしてみよう、自分を成長させようと思ってもらえれば
Ozakiが生きている意味があるのではないか、とも感じます。



 他人の行動の変化はあくまで後からついてくる結果論。
他人の行動を変えたり、コントロールすることを目指しても
それは無理な話です。
そうではなくて、自分自身の生き方を大切にし、
そして自分の理想を実践し続けることで他人に直接、間接の刺激を与え、
その結果、周囲の人が行動を自発的にあなたに合わせてくれれば、
それが最も自然で理想的なお付き合いの仕方なのではないでしょうか?

人は変えられない(その2)

2014-06-25 18:49:22 | 意識を整える


 先週は他人の行動が気になることが多いものの、
他人の行動を変えようという考え方はおこがましいのではないか、
という内容でした。



 今週はもう少し深くなぜ他人の行動を変えたくなるのか、を
考えてみたいと思います。



 Ozakiのような意志薄弱な人間はもちろんのこと、
読者の皆さんも、100%初志貫徹、すべて目標通りに行動できる、
ということはあまりないのではないかと思います。
人間は基本的には弱い生き物で、楽な方に逃げがち。
ですから、自分の行動をコントロールするには努力と強い意志が必要不可欠です。

 少しでもうまく行かない気配が漂ってくると弱気になったり、
悲観的になったり、投げ出したくなったりしてしまうこと、ありますよね。
そんな時、人は他人に責任を転嫁したくなるのではないでしょうか?

 例えば、

 自分の仕事がうまく行かないのは同僚のパフォーマンスが悪いせい
 自分の評価が低いのは上司の目が節穴だから
 自分の時間が確保できないのは子供が言うことを聞かないから
 私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い(!?)

といったように。

 自分でうまく事態をコントロールできないがゆえに、
他人の行動さえ変われば、できたのに、と思ってしまうケースです。



 また、別の理由として、自分はできるのに、他人ができないことに
腹が立つということもあるのではないでしょうか?

 人間はひとりひとり個性があり、育ってきた環境も違います。
同じ事態に直面しても、感じ方は違うでしょうし、
お金や時間に対する価値観も異なります。
そういった複雑な背景を考えれば他人の行動を変えることは不可能です。

 ある人にとって簡単なことであっても、別の人にはできない。
 ある人にとってやりたいことであっても、別の人はやりたくない。
 自分では苦にもならないことが別の人にとって信じられない芸当だった。

などといったことは日常的に起こっているはずです。



 人に対して怒りっぽく、相手の行動を変えようという考え方は
「俺はできるのに、お前はなぜできないのか」という傲慢さが
前提になっているように思います。
自分自身もできないこと、やりたくないことは多々ある、
そういった事実と向き合い、謙虚になれば、怒りによって
相手をコントロールしようという気持ちもなくなるはず。



 他にもいくつか他人の行動や考え方を変えたくなる理由はあると思います。
前回のコラムを読んである読者の方から

 「親族や近い関係の相手にイライラするのは甘えかもしれない」

とのコメントをいただきました。
もしかすると、甘えも他人の行動を変えたい欲求の原因の一つかもしれません。



 しかしながら、あなたがどう感じているにせよ、当の本人はお構いなし。
自分自身で行動を変えなければ、と気づくわけはなく、
まして、自ら行動を変えようなどとゆめゆめ思うわけありません。

 なぜなら↑で述べたような理由はすべてあなた自身側の理由だからです。

(次回に続きます)

人は変えられない(その1)

2014-06-21 09:26:44 | 意識を整える


 今回から3回シリーズで皆さんにぜひお伝えしたいことを書きたいと思います。
それは「他人をコントロールするのは不可能」であるということ。



 みなさんは自分以外の人間の行動にイライラすることはありませんか?

 なぜ、自分と同じように行動できないのか?
 自分が求める水準に至らないのはなぜか?
 自分が全く気にならない細かいことに文句を言うのはなぜなのか?
 人が休んでいる時になぜ音を立てて動くのか?



などなど。
自分と他人は違いがたくさんあるので、理解できない言動もままありますよね。
時には、小さなことでもイライラしてしまいかねません。
特に自分の機嫌が悪いとそうなりがちではないかとおもいます。



 少し脱線しますがこの点に関連してOzakiが興味深いなぁと思っているのは
自分と関係が密な人の行動ほど、イライラが募るということです。
公共の場で全く面識がない人が(自分から見て)変な行動をしていると
多少は気に障っても、

 「変な人がいるなぁ。まぁどうでもいいけど」

といった感じでスルーできるのではないでしょうか?

 
 しかし、これが自分により近い人、例えば両親や恋人(もしくは配偶者)
また自分の子供など家族の行動となるとどうでしょうか?
面白いことに、先ほど取り上げた赤の他人よりも、より細かいことで
腹を立てたり、イライラしたりということが多いように思います。

 家族でなくとも、古くからの友人や職場の同僚、上司、部下に至るまで
日ごろから付き合いが深い人の行動は気になることが多いですよね。

 きっと自分と関係が近い人には自分への理解を強く求めすぎるのでしょう。
付き合いも長いし、関係も深いのだから自分の気持ちは分かって当然、
慮ってくれないほうがおかしい、などという期待値ができあがるのでしょうか?
これが裏切られることによって赤の他人が同じことをした時と比べ、
過剰なまでに反応してしまうのではないか、とOzakiは考えています。



 
 さて、人の行動にイライラしてしまうのは我々だけではなさそうです。
我々の先人もこの事実に苦労してきた様子が言葉として多く残っています。



 例えば14世紀のオランダの宗教家、トーマス・ア・ケンピス。
彼は聖書に次いで多くの人に読まれたというキリスト教解説本を
著したとされている人だそうです。
そのケンピスは

 「他人が自分の思い通りにならないからといって、
腹をたてることはない。
 自分自身でさえ、思い通りにならないのだから」

という言葉を残しているそうです。

 
 
 ネットで検索をかけると洋の東西を問わず、多くの人が
トーマス・ア・ケンピスと似たようなことを言っているようですね。
以前Ozakiもパキスタンの英字新聞の「今日の一言」コーナーで



 「他人の行動を変えようとするな。
 自分の行動ですら変えられないのだから、
 それがいかに難しいかは明らかだ」

という文言をみた記憶があります。



 確かに、自分が他人の行動を見て

 「ああ、イライラする。なんとかならんのか!」

と思っている時には、自分自身の行動や癖は棚上げされていることがほとんど。
自分ばかりイライラしているように思いますが、逆もまた然りなのかもしれません。

 他人の行動はイライラするものだが、そこで怒るのは筋違い。
自分の行動を自分の理想通りにできているかをまず考えろという
ことなのでしょうね。



 過去数百年、似たようなことが言われ続けているのですから、
そもそも他人をコントロールしようというのはどだい無理な話。
むしろ人を変えようとすることはおこがましいと言っても過言ではありません。



(次回に続けます)

居場所にこだわらない

2014-06-14 14:39:11 | 意識を整える

 最近居場所を見つけられない人が多いという話を聞きました。
なんでも大学生や高校生の間では休憩中に居場所がないということで、
トイレの個室にこもっていたり、人によっては昼食すらトイレで食べる(!)、
そんなケースもあるのだとか。

 また、こちらも伝聞ではありますが主婦の間でも「ママ友」の中の
居場所がなくなると居心地が悪くなるそうです。
そして、場合によってはお母さんが安らげる居場所がなくなったことで
実際に他のお母さんに絶縁をしたり、転居に至ったりといったケースもある、
そんな話も現実に起こっているらしいということを知りました。
(Ozakiは読んでいませんが、桐野夏生さんが『ハピネス』という
小説の中でこの題材を取り上げているとのこと)



 Ozakiにとってはにわかに信じがたい話ではあるのですが、
実際にインターネットで調べてみると思いのほか(!?)一般的な様子。
そこで、今回は「居場所」に関して少し感じることを書きたいと思います。
 

 
 一般的に人間は自分の感性が合う人たちと群れる傾向にあります。
これは小学生のように何ら利害関係がない時代でもなんとなく
親しく付き合う友達グループが自然発生することをイメージしていただければ
わかるのではないでしょうか?
そして大人になるにしたがって共通の趣味や出身校、金銭的な利害関係や
社内政治(派閥)といった様々な群れる背景が増えてきます。

 たいていの場合、「居場所」はこういった感性の合う人たちのグループに
依存しているのではないかと思います。
感性の合う人たちとは話も合いますし(=共通言語が多い)、
常識や世界観も似通っているので、意思疎通も楽です。



 しかしながら、Ozakiは過度に「居場所」に依存すると危険だと考えます。
具体的には二つのケースを想定しています。

一つはイントロにも書いたような「居場所」にこだわるあまり、
「居場所」がなければ孤立してしまうという危険性。

 「居心地のいい居場所」に依存していると、いざそのポジションを
失ったときにどうしていいかわからなくなってしまうのでしょう。

 気の置けない友人がいない新環境(高校や大学)で居場所を作れない。、
ママ友同士の輪にうまく入り込めない。
そうこうしているうちに、途方に暮れてしまい、一人になれる空間を求める。
↑に挙げた事例はきっとそんな心の動きがあるのではないかと思います。



 もう一つは常に自分の存在を認めてくれる他人を求めてしまう危険性。
一つ目は既に具体例を挙げていましたが、こちらは具体例からはじめましょう。

 世の中、自分の話を聞け!と声を大にする方は必ずいらっしゃいます。

 例えばお店で大した問題でもないのに大声で店員を怒鳴る人。
 例えば職場で「俺は聞いていない!」と言う上司。
 例えば家庭で家族に常に上から目線で話をする夫(もしくは妻)

などなど。


 人間、誰かに自分自身の存在を認めてもらえなければ寂しいものです。
まして、どこかに「居場所」があり、常に話を聞いてもらえる人であれば、
そういった雰囲気がないと不安にすら思うのかもしれません。
その結果、「居場所」の外でも話を聞いてもらいたいという欲が出て、
声が大きくなってしまうのでしょうか?
過度に「居場所」を求めてしまっていると言い換えてもいいかもしれませんね。



 ただ、↑の事例を想像していくと、「居場所」を求める人ほど
自分の存在をアピールしたがるのかもしれないなぁと考えるようになりました。
では、その人が依存している「居場所」は本当の意味での「居場所」でしょうか?
逆に依存している特定の「居場所」がある人は、
その「居場所」以外で自分の価値を認めてくれる人がいないのではないか、
そんな不安をいつも抱いている人である、とは考えられないでしょうか?



 普段自分が居心地のいいグループにいれば周囲にいる人たちは
自分の話を聞いてくれますし、自分の価値を認めてくれています。
しかし、ひとたびそのグループを離れれば、同じ待遇は期待できません。
そのため、自分の求める扱いと実際の扱われ方に大きな乖離が生じます。

 その結果、なんで自分がいつもと同じように扱われないのか、と
声が大きくなり、場合によっては怒りにつながってしまうのではないか。
本当の意味での「居場所」がない人ほど自分の存在をアピールしたがる、
Ozakiはそんな仮説を持つようになりました。



 逆に本当に自分の生き方が確立されており、自ら「居場所」を作れる人は
一つの「居場所」に依存しませんし、「居場所」にこだわる必要はありません。
なぜなら、自分の生き方に適度に自信がありますから、自分を周囲に
アピールしなければならない必要性を感じていないからです。
つまり、過剰に「居場所」を求める傾向にはならないはずですよね。



 自分はあくまで自分であり、何かに依存して存在しているものではありません。
もちろん一人で生きていくことはできませんが、

 このグループに所属していないとダメ
 この人に認められないと将来お先真っ暗

といったことはまずありえません。



 刺激を与え合う仲間は大事ですし、助け合うコミュニティも必要でしょう。
しかしながら、自分自身よりも「居場所」が大事なことはないのです。
自分自身の生きる軸を曲げてまで「居場所」にこだわる必要はないはず。
また、特定の「居場所」に固執しなくても生きていけるはずです。

 むしろ、まず自分自身の生き方、人生の価値観を確立し、
自らが素のままでいられる「居場所」を作り上げた上で
そこにさまざまな人が集ってくる。
そんな構図になると

 「居場所にこだわってはいないけれど、居場所はある」

という理想的な状況になりそうですね。



 あくまで仮説ではありますが「居場所にこだわらない」生き方、
自分の存在を過度にアピールしなくても済む境地にたどり着きたい、
そう感じるOzakiです。

自分のスタイルをあえて壊す

2014-06-07 09:44:55 | 仕事術


 あるスポーツ番組でサッカー元日本代表の中村俊輔選手に密着した
「迫る」という特集を放送していました。
(このコラムは2013年5月に配信したものですのでテレビ番組の内容も
 その当時のものとなっております。)
その内容がかなり印象的だったので、Ozakiの考えとともに
皆さんにもシェアしたいと思います。



 まずは簡単に特集取材の内容をまとめたいと思います。

 中村俊輔選手と言えば、「ファンタジスタ」との異名があるように、
華麗なテクニックで常にチームの中心として活躍してきたサッカー選手です。
ご自身が言うには

 「これまでは自分がやりたいプレーをやることが大事で、
 自分がやりたいようにプレーしてきた」

とのこと。
試合では自分のプレーで試合を決めるような動きを意識し、
練習ではそんな動きのために自分の技だけを磨くようにしてきていたそうです。



 ところが、34歳、プロ17年目のシーズンを迎えて中村選手の心境、
そして行動そのものが変わりつつあるという特集でした。
彼の心境と行動を変えた考え方とは

 「チームとしてもう一度優勝したい。
 そのためには自分の力だけではなく、若手の力の底上げが必須。
 であれば、もうベテランの域の自分が積極的に指導しなければ。
 自分のプレーだけにこだわっていたら優勝はできない」

 というものだったそうです。



 「優勝する」

その強い信念が中村選手の行動を大きく変えました。
試合中には「ファンタジスタ」らしからぬ泥臭い守備でチームに貢献。
練習中には積極的に後輩にアドバイスし、チームのムードを盛り立てる。
これまでこだわってきた自分のプレースタイル、練習スタイルを
大きく方向転換してでも、大目標に向かっている様子が伝わってきました。



 中村選手は同僚から


 「(所属する横浜Fマリノスが9年間優勝から遠ざかっている今、
 優勝を経験していない若手にチャンピオンカップを掲げさせることは
 チームにとっても非常に重要。
 そのためには中村が引っ張っていかないとダメなんだ」


 との言葉をもらい、自分のデビュー直後を振り返ったと言います。
思い出されたのはデビュー直後に自分がやりたいようにやれたのは
当時日本代表だった井原選手や松田選手(故人)がさりげなく
フォローしてくれていたからこそという事実。

 かつて自分のスタイルを貫けたのは先輩のおかげであり、
そういった先輩に恵まれたからこそ、若いうちにリーグ優勝の経験ができた。
そう感じた中村選手はこれまで固執してきた自分自身のプレースタイルを変え
チームの優勝にこだわることにしたようです。



  サッカー選手のみならず、我々も大きな目標の前では

 自分のこだわり、
 自分なりの方法論、
 そして自分の好みの仕事術、

 といった個人のテーマは大した意味を持ちません。
そういった点にこだわって大きな目標を達成できないくらいなら、
いっそのこと自分のスタイルをあえて崩してみるという決断が
必要な時もあるのでしょう。



 中村選手は日本のJリーグでの優勝経験はもちろん、
日本代表でも主力を務めた経歴の持ち主。
さらには、海外リーグ(スコットランド)でも優勝を経験し、
アジアやスコットランドでもMVPを受賞している素晴らしい選手です。



 その中村選手ですら、成功の礎となった「自らのスタイル」を放棄して
より大きな目標に向かっているのです。
自らが直面している大きな目標と比べた時に、
自分の主義主張や好みといったものに本当にこだわるべきことなのか、
もう一度考える必要があるかもしれませんね。



 特に中村選手が過去を振り返り気づいたように、
自らの成長とともに、自分を変えなければならないということも事実でしょう。
 

 先輩になれば自分の仕事だけやっていればよいわけではありません。
 管理職になれば、本格的に部下の育成も職務に入ってきます。
 上級管理職になればさらに広い視野で仕事を捉えなければなりません。



 これまでの自分の成功体験、成功哲学を否定する必要に
迫られることもあるかもしれません。
しかし、過去の成功体験や成功哲学はあくまで過去のもの。
現実に自分が直面している問題やチームの目標はまた別物です。



 自分が変わらなければ自分も、チームもこれ以上成長できない。
そう思った時には、過去の自分を壊してでも新しい一歩を踏み出す、
そんな英断を試してみる必要があるのでしょう。