36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

やってみなはれ、を引き出す

2013-04-27 16:39:45 | 意識を整える


 皆さんは「やってみなはれ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?関西弁で、いろいろなニュアンスが入っているのですが、

 「とりあえずやってみないとわからないのだからやってみな」

という日本語訳になるでしょうか?

 これは飲料メーカー大手のサントリーがビール市場に参入するかどうか、を決める際にサントリーの創始者鳥井信治郎氏が発した言葉です。相談していたのは息子であり、当時のサントリーの社長、佐治敬三氏。

 
 関西弁を母語とする方にはニュアンスも含めて理解いただけると思いますが、「やってみなはれ」には失敗も含めて受け入れるという意味が込められています。

 やってみてうまくいけばもうけもの。
 やってみて失敗したなら、その時はまた挑戦すればいい。
 失敗を恐れて動かないのではなく、とにかく挑戦してみて、
 その挑戦で得られる経験を大切にしよう。

そんなニュアンスを含んだ懐の深い発言だとOzakiは感じます。
 

 なにか新しいことを始める際には必ずリスクがあります。

 新商品が売れるかどうか
 新しい経営方針が成功するかどうか
 
といった経営の観点での成否もありますし、

 上司への提言が受け入れられるかどうか
 新プロジェクトの会議がうまく立ち上がるかどうか
 就職や転職がうまくいくかどうか

といった個人の仕事や生活の観点での成否もあるでしょう。そのようなリスクを考え、失敗したらどうなるだろうか?そんなことを日々、いや時々刻々考えながら我々は暮らしているのではないでしょうか。



 そのような時、「やるしかない」「やりなさい」と言われたらどうでしょう?

 やってみますが、失敗したらどうしましょうか?
 やれと言ったのはあなた(上司)ですから、責任は取ってくださいね。

そんな考えが心の中に浮かんできそうです。やるという一本道しか与えられず、心に余裕がない状態と言えるかもしれません。

 一方で、「やってみなはれ」と言われたらどうでしょうか?こちらは失敗はあるかも知れないが、「やってみる」ことに意義がある、失敗を極端に恐れる必要はないよ、と言われていると理解できます。つまり、成功を目指すが必ずしも成功への一本道を強制しないということ。挑戦そのものを楽しみ、結果を出せるように努力してみなさい。そんな柔らかいニュアンスがあるように思います。



 さて、読者の多くを占める若手社会人の方に聞いてみたいと思います。「やりなさい」と「やってみなさい」どちらがやる気がでますか?おそらく、直接的な命令である「やりなさい」よりも「やってみなさい」を選ぶ方のほうが多いのではないかと思います。

 それは強制への反発もあるでしょうし、↑で書いたような、失敗しても反省を踏まえてもう一回やればいい、というニュアンスに気が楽になる面もあるでしょう。「自らやってみよう」という気持ちで仕事をしたい、挑戦したい、そんな若手社員の叫びが書かれたホームページもありました。こういう「叫び」がたくさんあるということは多くの会社では失敗が許されない空気が漂っているということの裏返しでもあります。


 若手はこのような懐の深い発言をしてくれる、また若手の失敗も許容しつつ育ててくれるリーダーを渇望しているのかもしれません。もちろんそういった上司、リーダーにであれば最高ではあるのですが、逆に考えてみると「やってみなさい」と言いきれない上司の悩みもありそうです。



 
 若手にチャンスの場を与えてみたいが、この提案ではちょっと…
 新しい提言が出てきたが、もう一歩踏み込まないと実現しないな…
 こちらの指示はちゃんとやってくれるが、改善提案などがないな…



 若手に対してもう一段高いレベルを求めている上司も多いようです。言葉を替えれば自分の部署の若手に「やってみなさい」と言いたい、部下の失敗の責任を取ってでも若手を育てたい、と考えている方もいるはず。彼らはなぜそのセリフを言えないのか?

 
 彼らの保身、懐の深さにも問題があるかもしれませんが、若手層がまだ一歩足りないという面も否定できないと思います。上司に

 「うん、それは面白い挑戦だからやってみなさい」

そうやって後押しをしてもらえる提案ができているかどうか?

 若手にとって上司の文句を言うのは簡単ですが、上司をどうやって動かすのか、懐の深い上司にするにはどうしたらいいか?そういった工夫がなければ無責任な批判でしかありません。



 「やってみなはれ」は若手のいい提案があってこそ。文句や批判だけでなく、今一度自分の提案や、取り組みが
 
 「やってみなはれ」

に値するかどうか、考えてみることも大事なのではないでしょうか?「やってみなはれ」を引き出すのは若手の仕事の一つかもしれません。

 「机と実践の場を行き来する(その2)」

2013-04-24 06:24:02 | 仕事術


 前回は建設会社の所長さんから伺ったお話でした。要点はたとえ仕事の中心がデスクワークであったとしても、仕事の最前線である現場を知らなければいい仕事はできないということでした。


 一方で、今読み進めている「星野リゾートの教科書」にもこんなことが書いてありました。
(この本では星野さんがどんな本を経営の教科書として選んでいるか、なぜその本を選んだかについて語っています)


「本を選ぶときの基準として私は著者の研究者としての知名度を重視する。 たとえば米国の著名な大学教授には、コンサルタントを兼ねて学問と実践の間を行き来し、膨大な調査によって理論を実証している人が多い。
  (中略)
 ビジネス書の中には経営者が『自分はこうして成功した』と単に経験を語る本も多くある。しかし、このタイプの本は素晴らしく直感的な経営センスの話であることが多く、それは私にとっては教科書にならない」
 
 
 星野さんは軽井沢の旅館の跡取りとして生まれ、海外留学等を経て、実家の旅館はもちろん多くの日本国内のホテル、リゾートの経営を立て直したホテル業界では注目の経営者のお一人です。


 星野さんは学問と実践を行き来した方の著作は信頼できると言っています。つまり机の上(学問)と現場(実践)の両方を知っている人の話は聞く価値があるし、教科書として真似てみる価値があるということです。



 言葉を替えれば机の上の話だけ、もしくは現場の話だけでは見習うべき体系的なお手本にはならない、ということだとOzakiは感じました。表現は表と裏の関係ではありますが、所長さんのお話も星野さんの文章もエッセンスは同じではないかと思います。

 日々机に向かって仕事をされている所長さんは机の上だけではなく、現場の状況も理解しなければならないとおっしゃっています。日々経営の現場で奮闘されている星野さんは経営の経験だけを語った本ではなく、机の上の学問を踏まえた情報でなければ有益ではないと書かれています。



 全く違った業種、立場のお二人のお話ではありますが、共通しているのは仕事を進めていく上で必ず理論と実践両方を学ぶべきという点。スポーツでは、体で覚えたことを理論で深め、またその理論を自分の体で実践してみることでより上手になることがあります。特に一流、超一流と呼ばれる選手ほどこの両者を大切にしているようです。

 スポーツだけでなく、仕事でも同じことが言えそうですね。現場に行くことも大切ですし、現場の仕事を支える机の上の理論、デスクワークも大切。そして一番大切なのは、星野さんがおっしゃるように

 「学問と実践の間を行き来し、膨大な調査によって理論を実証」

することなのではないかと思います。

 自分の頭で考えたこと、学んだことを現場で活かし、そしてまたその現場で経験したことを踏まえて机の上で勉強する。この繰り返しがあるからこそ、人は一歩一歩一流に近づけるのだと思います。

机と実践の場を行き来する(その1)

2013-04-20 09:11:31 | 仕事術

 イスラマバードにいらっしゃる建設会社の所長さんから聞いた話です。

 建設会社の方は基本的に建物の建築現場にいることが仕事です。実際の建設作業は現地の方を中心とした下請け企業がやるのですが、

 クライアントから発注された図面と工事作業が合致しているかの確認
 作業の進捗に遅れがないかの確認、遅れている場合は対応策の作成
 建設現場の安全確保、資材の調達や管理
 クライアントへの報告書類の作成
 
などなど、いわゆる「工事の監理」を担当することが彼らのお仕事なのだとか。

 
 その所長さんがおっしゃるには

 「我々の仕事は建設会社と言っても半分がデスクワークで
  残りの半分以上はクライアントへの営業活動。
  ただ、その仕事だけやって、現場に行かなければダメ。
  生きた図面を書くには現場で何が起こっているか知らなければならない。
  クライアントと信頼を築くには現場の問題を把握しておかないといけない。
  そしてなにより、現場に行くことで仕事に気持ちが入る。」

とのことでした。自分の仕事の中心であるデスクワークのため、普段は机に座っていても本当の意味での仕事の場である建設現場に行き、両方を知らなければならないのですね。
(余談ですが、Ozakiはゴルフをしながらこの話を伺いました。長い時間3,4人で一緒にいるので時として貴重なお話が聞けます。)


 JICAの仕事でも似たようなことが言えそうです。半分以上のJICA職員は日本でパソコンに向かって仕事をしていいます。しかしながら、我々の本来の仕事の中心は開発途上国であるはずです。井戸を掘ったり、病院の医師、看護婦を指導したり、法律を整備したり…。我々が提供できる価値の8割以上は途上国の現場にあるといってもいいでしょう。



 多くのJICA職員にとってデスクワークばかりやっていてはいけません。デスクワークの結果が形となって現れる実践の場へ足を運ぶことは必須です。先の所長さんの言葉を借りるならば

 生きたデスクワークをするには現場で何が起こっているか知らなければならない。
 途上国の関係者と信頼を築くには現場の問題を把握しなければならない。
 そしてなにより現場に行くことで日本での仕事に気持ちが入る。

のではないかと思います。

 ここではOzakiや読者の多数を占めるJICA職員の例を取り上げましたが、おそらくほかの職種の方も同じなのではないかと思います。

 
 農業の現場を知らなければ農業機械の設計、改良はできませんし、
 飲食店のサービスを知らなければサービスに必要な人材は育成できませんし、
 最終消費者の好みを把握しなければ素材や部品の営業は成功しませんし、
 困っている人の話を自分で聞かなければ法律家の言葉は空論に過ぎません。



 机の上の仕事とその仕事が形になり、生かされる実践の場。その両方を行ったり来たりしながら経験をつまなければ生きた仕事はできない、そんなことを感じたOzakiです。

 
 ゴルフ場で聞いた話を深く考えているうちに、似たような話を最近本で読んだことに気づきました。 その本は「星野リゾートの教科書」というリゾート経営を基にしたビジネス書。少し前から読み進めていたのですが、思いがけないリンクを発見したのです。

                    (次回に続けます)

毒気に近付くべからず

2013-04-17 21:40:11 | 意識を整える
 
 このメルマガ(このブログはOzakiが毎週発行しているメルマガのメインコラムバックナンバーを掲載しているものです)を読んでくれている後輩のブログにとても印象的な言葉が掲載されていました。許可を得て引用したいと思います。

 
 「最近、毒気にやられる、
  っていう感覚があります

  陰口、悪口、批判、うわさ話が
  渦巻く中にいると
  自分も同化してしまいそうです
  いや、知らずに同化している…

  毒気とは強いようです
  そういう生き方はしたくないので
  そういう中からは
  離れたいと思います

  生活していると
  悲しさ、苦しさ、妬みなど負の感情がわきおこる出来事があります
  しかし、自分の力ではどうしようもないことが少なくありません
  
  運命
 
  と片付けてしまっては、ならないかもしれませんが
  事実を受け入れて
  自分のできる範囲でプラスに動いていくことが大切だと思いました」

 
 Ozakiが漠然と感じていたことが明快な文章になっています。まさにこの通りだなぁと感じたので、みなさんにも共有しました。

 蛇足ながらOzakiの考え方を少し紡いでみたいと思います。

 ポジティブな考え方
 チャレンジ精神あふれる人
 アップテンポな音楽
 若々しい感性

などに触れると人間不思議なもので、自分自身何も変わっていなくとも元気ややる気が出てくることがあります。ちょっとしたことで人間の気持ちは+(プラス)側に振れるものなんでしょうね。

 逆に、↑で後輩が書いているように

 ネガティブな話題(陰口、悪口、批判)
 どんなアイディアも否定する人
 出口のない愚痴

などに長時間触れるとネガティブ思考回路が染みついてしまうことがあります。そして経験則ではありますが、+(プラス)側よりも-(マイナス)側のほうにより振れやすいのではないでしょうか?

 そして、知らず知らずのうちに-(マイナス)側にいることが当たり前になってしまう危険性もあります。

 「どうせ・・・」
 「でも・・・」
 「だって・・・」

こんな言葉が頻繁に出るようになったらそれは-(マイナス)側に染まっているサイン。

 
 もし、そういうサインに気づいたら後輩がいう「毒気」に近付いていないか確認が必要なのだと思います。そして意識的に「毒気」と距離を置くことで徐々に自分自身の気持ちも-(マイナス)側から解放されるのではないかとOzakiは考えています。


 生きる上で、悲しみや怒りといった負の感情を避けて通ることはできません。ただ、その負の感情に流されていると経年優化は離れていく一方。一歩ずつでも前に歩みを進める気持ちがあるのであれば、「毒気」から遠ざかり、+(プラス)側に気持ちのスイッチを入れる。そんな心がけ、工夫が必要なのではないでしょうか?

 

 二年ほど前にこのコラムで「Resonanceを大切にする」というテーマを取り上げたことがあります。趣味や思考回路、行動様式などが共鳴する人は他の分野でも共通する点がある、そんなことを解説したコラムでした。

 バックナンバーはこちら
http://blog.goo.ne.jp/36degrees/e/f2fb0eb2b0434e4e354c96e4362eb27a

 いつもOzakiの話を聞いてくれ、またメルマガも愛読してくれている後輩がOzakiが漠然と考えていたことを文章にしてくれるのも一つの「共鳴」です。共鳴しながらお互いの考えを深めていく、そんなつながりを大切にしたいですね。

 快く、今回のメルマガの種を提供してくれたIさん、ありがとう! 

病気の前に健康な状態を知れ

2013-04-07 09:31:13 | 意識を整える
 
 今回のテーマはOzakiが獣医学部時代に言われて印象的だった言葉から。獣医学部と聞いて皆さんはどんな勉強をしているイメージをお持ちでしょうか?獣医というくらいなので、病気や怪我の勉強をしているに違いない…。そう思われる方も多いかもしれません。

 しかしながら、実際には4年間の専門分野の授業の中で半分近くは動物の病気とは関係のない科目が占めているのです。生物学の基礎となる解剖学や生態学、組織学から始まり、そして生理学、生化学(体の中でどんな反応が起こっているかを学びます)と健康な動物、健康な状態がどんな状態かを知る学問が続きます。分かりやすくご説明するならば、小学校や中学校の「生物」の範囲を動物に限定してより突き詰めていく授業がほとんどなのです。
(人間を扱う医学部でもカリキュラム構成は同じだと思います)



 解剖学などはご想像の通り、様々な動物を解剖することになるので、ダイナミック(牛や馬を扱うのは大変です)かつ興味も沸くのですが、特に組織学(健康な動物の内臓や筋肉を顕微鏡で観察します)は正直に申し上げて非常に退屈でした。(Ozakiだけ?、汗)病気や異常が何もないプレパラートを見て絵を書き続けるのです。

 絵心のないOzakiにとってはこれは一種の苦行。時々顕微鏡を見ながら寝てしまうこともありました。
(起きると両目の周りに接眼レンズのゴム跡がくっきりとつくのですぐバレます)

 ところが、そんな不真面目なOzakiも組織学の先生の一言にハッとした経験があるのです。それが今回のタイトルの素になっているのですが、

 「病気の状態はこれから嫌というほど見ることになる。
 でも、健康な動物の状態を知らずにどこがどうおかしいのかわかるか?
 病気や怪我は健康な状態と違う、ということ。
 違いを判別するには基本となる健康な状態をしっかり知らないとダメ。
 病気の勉強は面白いだろうし、早くやりたいと思うだろうが、
 まずは健康な状態を知ることが病気を知る第一歩である。」

という教えでした。

 たとえ退屈であっても、解剖学、組織学、生理学、生化学など基本的な生物学が分かっていなければその先に進んでも理解できません。(これはその後内科や外科が始まってから本当に実感することになります)自分の考える理想形(獣医師)とは違い、退屈であったとしても、理想形に至るプロセスは基本の積み重ねなのだ、ということでしょう。



 同じような話を人から聞いたことがあります。その話とは質屋の息子の話。質屋には日々本物もイミテーションも玉石混交の状態で鞄や時計が集まります。そのすべてを見ていると本物も偽物も区別がつかなくなるのだそうです。なので、質屋の跡取りと目されている息子は小さいころから本物だけを見せられて育てられるのだとか。

 こうすることによって本当にいいもの、「本物」とはどういうものか、が脳の奥底、体の隅々に教え込まれていくのでしょう。そしていつしか、「本物」と違うものつまり偽物に自然と気づくようになります。これが質屋の見る目を育てる基本的なやり方なのだという話を聞きました。

 本物と偽物を同時に見比べ取捨選択するのは見た目格好いいですよね。まさに質屋の仕事、真贋の見極めなのだと思います。しかしながら、その仕事の裏には本物を本物であると認識する能力が必要です。本物を見続けるだけの毎日はきっと退屈なのではないでしょうか?それでもその積み重ねがあるからこそ、真贋が分かるようになるのでしょう。
 

 読者の皆様の仕事においても似たようなことがあるかもしれませんね。一見華やかに見える仕事の裏には基本となる枠組み、決まりが必要です。
 
 仕事における目標設定の仕方
 目標達成に向けた作業のブレイクダウン
 それぞれの作業の締切設定
 そして上司への報・連・相

などなど、ほとんどの仕事の基礎はありふれた当たり前の積み重ね。基本をしっかりと知り、基本をしっかりと行うことが必要不可欠です。獣医師や質屋だけでなく、ビジネスにおいても基本となるもの、原点となるものを大切にすることが、理想像に近づく唯一の道なのではないでしょうか?

 たとえその作業が地味であったとしても、将来的に華やかな活躍をするための血肉になるのは、そういった「原理原則」なのだとOzakiは考えています。