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【書評190-1】     仏教の歴史 ~いかにして世界宗教となったか~    ジャン・ピエール・ロベール 著  今枝 由郎(訳)     講談社選書メチェ 791    2023年1月

2024-07-12 10:18:27 | 書評
 本書は、フランスで長く仏教研究に携わってきた著者が東西文化を俯瞰しつつ≪ 言語と宗教の関わり合い・結びつきの奥深さ ≫を説く、とても貴重な著作だと感じた。
それは『一神教の支配する西欧・中東世界が東洋に発した仏教をどう捉えてきたのか? 19世紀以降いまに至る欧米の仏教研究をどう評価するか?』という大きな問いでもあり、
著者の答えは、とかく東洋文化圏内で閉じがちな宗教認識と仏教の位置づけを振り返る意味でも私には大変有意義であった。 
 著者が示した視点や問題意識(上掲)に関心を抱く方は、是非、本書を手に取りお読みいただきたい。

章立ては次の13章からなる。
 第1「諸宗教の中での仏教」   第2「ブッダ(仏)」  第3「ダルマ(法)」  第4「サンガ(僧)」  第5「三つの叢書」  第6「大乗と小乗」  第7「中央アジアと中国への伝播」
 第8「チベットからモンゴルへの伝播」  第9「東南アジアへの伝播、そしてインドへの回帰」  第10「朝鮮から日本への伝播」  第11「仏教と言語」  
 第12「仏教の欧米への伝播」  第13「仏教研究批判」            <太字の章は、私が強い関心を抱き、読んだ部分>

 いつものように読書メモを取ったが、示唆に富む内容が余りにも多岐に渡り、丁寧に拾い上げると長大になるため、私に響いた着眼点の中から選び、以下に記したい。

【仏教は宗教なのか、哲学なのか】・・此の問いは、一神教三姉妹(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)と著者が呼ぶ宗教文化圏では長く問われたものだが、著者は第1章冒頭で明確に言う。
 <仏教は西洋概念で言う哲学ではなく、人間の救済に向かう点においてやはり宗教であり、人間世界を超越しない至高存在を中心とした(至高)神なしの一神教である>と。 (P 24)
  つまり、人間世界を超越しない至高存在を中心とした(至高)神はもたないが、人間の救済を目指す故に、仏教は哲学ではなく宗教なのだという。(インド含め東洋に此の設問は存在しなかった)。
  『唯一神の有無ではなく、救済を望む心に応えようとする限り、それは広義の「宗教」である』と断ずる著者の見方がどこまで一神教に生まれ育った人々に受け入れられるのか? 
    何故なら「唯一神を信じる報いとして、信者は救済されると思う」のであり、単なる善行功徳で極楽浄土へ行けるのでは承服できまい。


【原始仏教から大乗仏教・小乗仏教への分岐】
 ◎「教義を深め、瞑想を通じてアルハン(人間として最高の涅槃に居る状態)を目標とする」のが小乗派。
 ◎「無知ゆえカルマ(業)に苦しんでいる此の世の生き物たちに利他的慈悲を向ける存在:即ち(菩薩(ボーディサットヴァ)目覚めが約束された者)を目指す」のが大乗派。
   大乗仏教では【利他的慈悲=知恵の卓越(プラジュナャー・パーラミータ)⇒ 般若波羅蜜】が最も重要な原動力になる。
    慈悲の施し(=廻向 えこう)はカルマの重圧を下げ<菩薩の名を唱えるだけで救われるとの信仰>になる。

 ・・何故分かれていったのか? この背景は、上に述べた「救済」概念の普及と、仏法僧の三宝のうち、<サンガ>特に出家僧団と在家信者の間の溝が遠因であろうか。
  加えて、文字で残されなかった釈迦牟尼の言葉をサンスクリット語で書き留めたものが年を経るにつれ膨れ上がり、それが解釈や経典価値の差異にもなり、インド以外への伝わり方の違いともなった。
  三蔵と呼ばれる「経蔵・律経・論経」の中から次第に「論」が大乗派では拡大して『大蔵経』として重んじられたのに対し、東南アジアに広がった小乗派は三つの経全体を重んじた違いを著者は指摘。
   経典解釈の相違は(法華)(維摩)(金剛)(真言)の分派を生み、それは中国経由で朝鮮と日本に伝わった。チベット・モンゴルへの伝播では(維摩経)が重んじられた。  < つづく >
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