* 日本選手権 北島、第一線を引退 五輪代表逃す 「真剣勝負は終わり」http://mainichi.jp/articles/20160409/ddm/041/050/119000c?fm=mnm
昨日、『人生の美学 再び』と題して、退き際について持論を述べた。 あれは北島選手のレースが同じ日にあるとも知らず書いたのだが、奇しくも北島選手の五輪選考もれ、
直後の現役引退記者会見があった。
夜のTVニュースで北島選手のインタヴューを目にし、私は心から拍手を送った。「真剣勝負は終わりです」と彼が述べたのは、例えば指導者の道を第二の人生として選ぶということかな、と想像したが、ふっ切りの良さは誰もが感じ取ったのではないか。
<北島選手と親交があり応援に駆けつけた五輪金メダリストの元柔道選手、野村忠宏さん(41)は「もう一度、五輪の舞台で応援したかったが、かなわないのも勝負の世界。
お疲れ様と言いたい」と語った>。 この野村さんの言葉も また素晴らしい。
最高潮に達した時こそ退き際だと考える人、考えない人、無論、本人の人生だから正誤どちらもなく、好みの違いであり、他人は其の好みを述べるだけだ。
唯、才能と努力で頂点に近づいた人は多くのファンや青少年にあがめられ、生きる希望とさえなり得る存在だ。だから、辞め方・退き際は本人だけのものではなくなってしまう。 そこが本人にはつらいところだ。これはスポーツだけでなく、芸術の世界も同じ。
長寿化/高齢化する日本人社会。芸術家よりもスポーツ選手の方が、言うまでも無く引退後の人生は永い。それゆえ、辞め方は芸術家以上に重要だろうと、ファンは気になる。
例えば、浅田真央さんは荒川静香さんのような転身が図れるか、誰しも気になる所だろう。それは、解説者としての適性/能力/人柄といったこと以前に、ファンの抱く残像の違いが先に在るからではないか。 つまり、最高位を窮めた後に芳しくない記憶が伴なうか否か、により転身後の人生は多分に影響される為だ。
同じことを私は野球のイチロー選手にも予見している。 彼なら「ほっといてくれ!」と言うだろうが・・・・。
昨日、『人生の美学 再び』と題して、退き際について持論を述べた。 あれは北島選手のレースが同じ日にあるとも知らず書いたのだが、奇しくも北島選手の五輪選考もれ、
直後の現役引退記者会見があった。
夜のTVニュースで北島選手のインタヴューを目にし、私は心から拍手を送った。「真剣勝負は終わりです」と彼が述べたのは、例えば指導者の道を第二の人生として選ぶということかな、と想像したが、ふっ切りの良さは誰もが感じ取ったのではないか。
<北島選手と親交があり応援に駆けつけた五輪金メダリストの元柔道選手、野村忠宏さん(41)は「もう一度、五輪の舞台で応援したかったが、かなわないのも勝負の世界。
お疲れ様と言いたい」と語った>。 この野村さんの言葉も また素晴らしい。
最高潮に達した時こそ退き際だと考える人、考えない人、無論、本人の人生だから正誤どちらもなく、好みの違いであり、他人は其の好みを述べるだけだ。
唯、才能と努力で頂点に近づいた人は多くのファンや青少年にあがめられ、生きる希望とさえなり得る存在だ。だから、辞め方・退き際は本人だけのものではなくなってしまう。 そこが本人にはつらいところだ。これはスポーツだけでなく、芸術の世界も同じ。
長寿化/高齢化する日本人社会。芸術家よりもスポーツ選手の方が、言うまでも無く引退後の人生は永い。それゆえ、辞め方は芸術家以上に重要だろうと、ファンは気になる。
例えば、浅田真央さんは荒川静香さんのような転身が図れるか、誰しも気になる所だろう。それは、解説者としての適性/能力/人柄といったこと以前に、ファンの抱く残像の違いが先に在るからではないか。 つまり、最高位を窮めた後に芳しくない記憶が伴なうか否か、により転身後の人生は多分に影響される為だ。
同じことを私は野球のイチロー選手にも予見している。 彼なら「ほっといてくれ!」と言うだろうが・・・・。