狩人の道東放浪記 Ⅱ

定年後道東に移住しました。
しかし2年後、都合により帰郷しました。徳不孤必有隣の旗印は同じです。

植民鉄道

2013年08月05日 | 道東紹介
別海町には植民鉄道が走っていた。初期は馬鉄でありガソリンカーは昭和4年からです。
沿線住民の足だけではなく、生産物資の輸送に大きく貢献、入植者の営農向上に寄与した。鉄道の従業員は事務員12名、車掌3名、運転士3名、検車手3名、保線助手4名であり、運転士は70円の給料をもらっていた。運輸収入は一日平均(旅客・貨物)50円であった。ただ閉塞方式など運転関係は記載されていない。
昭和49年まで地域住民の足として利用された。(別海町百年史より)

写真は廃線後、レールで梁等が作られた根室地方家畜商業協同組合の牛舎です。

拡大するとよくわかる。2本のレールが溶接されしっかりと支えている。

往時の繁栄を偲ぶに十分な構造物である。ほかにも学校のバックネット、自転車置き場などに使用されていると言うが、確認していません。大切に保存していきたいものです。

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根室市・梶原平馬の墓

2013年08月05日 | 道東紹介
NHKドラマ「八重の桜」は戊辰戦争後へと展開していくが、ピンクの傘の様に会津藩士は生きて行っただろうか。
否である。斗南藩での地獄のような生活もおいおい紹介される?であろう。
さて最後の家老梶原平馬(池内博之NHK)について紹介したい。天保13年に内藤家で誕生し梶原家に養子として入っている。いずれも名門である。山川捨松(日本初の女子留学生5名の一人)の姉と結婚している。戊辰戦争後、一時青森県に奉職するが北海道に渡り消息が消えた。

しかし平馬は梶原景雄と名前を変え水野貞(小学校の教員で校長にもなった)と再婚、根室市で生涯を終えたのだ。根室市営西浜墓地の奥に眠っている。

墓地は国道44号線の横にあり、佐田石材店の看板を目印に行けばよい。墓地は広く案内がないので、国道に添って奥へ行き、ラスクマンの案内板近くで探せばわかる。

矢印が平馬の墓である。風化が進み法名はほとんど読めないが「鳳樹院泰庵霊明居士」とある。彼の根室での生活も解明されようが敗軍(賊軍ではない)の家老として生きた生活はいかなるものであっただろうか。漁場として栄える街でどのように海を眺めていのだろうか、そう思った。しかし妻の墓はなく、どのような生涯であったのだろうか。

そして梶原平馬の墓の後ろには写真の慰霊碑があった。伊勢白子(三重県)の水夫でロシアに漂流したが、根室で客死した「小市」の慰霊碑である。漂流後一度も故郷の土を踏まず、この地に埋もれた水夫は梶原平馬より哀れかもしれない。

今日、丁寧に供養されている碑を見ると、根室市民の弱者に対する思いやりに涙ぐむ。

追記(8/11)
NHK「八重の桜」第32回を見ていて驚愕した。アメリカへ留学した山川捨松が女子大生になっていた。11歳の子供がお色気たっぷりに出演していた。視聴者は何も知らないと馬鹿にしている放送局である。

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