まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

最終講義:東北公益文科大学大学院その1

2020-02-22 00:12:09 | 建築・都市・あれこれ  Essay

東北公益文科大学大学院での最終講義を記録します。今後使用した図版なども入れ込んでいきたいと思います。

地域風景をデザインする

2020.02.11

東北公益文科大学大学院

高谷時彦

 Final Lecture: To design a regional landscape

 

1.はじめに Foreword

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと Childhood

 

3.大学・修業時代 Learning and Training period

(1)都市工学科 University

(2)槇総合計画事務所 Maki and associates

(3)二人の先生から学んだこと

What I learn from 2 Professors; Otani and Maki sensei

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること

urban space consists of small individual houses  

②設計とは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

designing  is thinking 

③歴史の審判に耐える一貫した姿勢:設計者の倫理

discipline and consistency as architect

 

4.独立・試行時代 Starting my own architectural office

(1)大学つながりでの駆け出し

help of university teachers

(2)自分の設計のスタート

starting my own project

(3)再び大学とのかかわり

thanks to my teachers again

 

5.庄内との出会い Wonderful encounters in Shonai 

(1)木造建築との出会い:構築することを通して空間を構想する

space/tectonics

 

(2)歴史的建築との出会い:時の中に自分の設計活動を位置付ける

architecture in time

(3)職人との出会い:確かな実在感の獲得

artisan: a feeling of existence

(4)庄内の持つ可能性

 lerning from Shonai Region

 

6.終わりに:地域風景をデザインする To design a regional landscape

(1)地域風景とは

what is a regional landscape

(2)人の手がつくる地域風景:まち並み

importance of townscape

(3)地域風景をデザインする

designing a regional landscape

 

1.はじめに

 本日は休日にもかかわらず多くの方にお越しいただき有難うございます。

 2005年から2020年まで一年30回×15年で450回の講義をしてきましたが今日が451回目です。最後なのでどういうお話をすればよいのかと考えました。ここにお集まりの皆さん方と行ってきたまちづくり活動、研究活動、設計活動などを振り返るのも良いのかと思いましたが、それらについてはこれまでに随時、講座内川学やシンポジウムの形で発表してきました。また今日はその資料もお持ち帰りいただけるよう用意してあります。

 そこで今日はいつもの授業やシンポジウムではお話しすることのない、私自身のはなし、自分がどのような経緯で建築や都市デザインの仕事をするようになったのか、また庄内との出会いが、自分の考えに何をもたらしたのか、そんなことを話してみます。私の身勝手な思い込みの話になりますが、なにとぞお付き合いのほどお願いします。

 

2.瀬戸内時代:四国高松のこと

 私は1952年、小さな電気店を営む両親のもとで長男として生まれました。電気店といいましても父親は店をやっているという意識はほとんどなかったと思います。職人気質の人でいらっしゃいませとかありがとうというのを聞いたことがありません。全く無口で、一人でラジオをつくったり修理したりするのが好きだったということだと思います。

 私も、そういうのが大好きで高校時代までは、真空管でラジオや無線機を組み立てていました。しかし突然興味を失う時が来ます。当時はそういうラジオ少年がたくさんいたのでしょう。そのあたりのことは、当時芥川賞作家柴田翔さんが真空管の話として小説に描いています。

 母親の方は親戚も含め、父親とは対照的によくしゃべる人たちです。あったことのない祖父の話もしてくれます。私の祖父は今の四国電力の技術屋だったそうです。曾祖父は、幕末に生まれ大阪の医学校や東京の開成学校で医学や語学を学んだ医者ですが、和歌と茶道をたしなむ文化人として有名だったようです。残念ながら私はその資質は全く受け継いでおりません。良くしゃべって社交的なところも、私の姉が受け継いでしまい、私には残っていませんでした。

 私自身は父親の影響、血というものでしょうか、人付き合いが苦手で、自分の世界にこもる職人のマインドがべっとり染みついています。それが自己分析です。

 そんな自分は高松で高校時代までを過ごし、1971年に東京の大学に入りました。

 

3.勉強、修業時代:都市工学科から槇事務所まで

(1)都市工学科

 大学では都市工学科を選択しました。都市計画と都市デザインを学ぶ学科です。

 建築をやろうと思った時期もありましたが、入門書を読んで、建築家には芸術的な才能が必要だというので自信がなくなり、あきらめました。また都市計画が先進的な社会変革の思想との関連が深いと思われるという当時の風潮も影響したかもしれません。巷のベストセラーは羽仁五郎さんの『都市の論理』でした。

 ただそれらとは別に単純な憧れもあったかもしれません。一つには都市設計講座の教授が丹下健三先生だったことです。私の高校の隣に丹下先生が設計された香川県庁がありました。世界遺産になるであろう20世紀の名作代々木体育館に次ぐ最高傑作だと私は思っています。また今保存問題で揺れている香川県立体育館もあります。また、香川県には丹下先生の薫陶を受けた人々のいる建築課があり、ほかの自治体とは違った雰囲気があったと思います。課長の山本忠治さん(ヘルシンキオリンピックの陸上選手)の設計した瀬戸内民族資料館は建築学会作品賞も得ています。また、丹下先生ゆかりということでは、世界的に有名なイサムノグチさんのアトリエもありました。今のように公開される前のアトリエでお話ししたことがあります。少し前にまちキネでイサムノグチさんの映画もやっていました。丹下先生は香川県では尊敬される存在でした。

 また都市設計講座をついで教授になったのが大谷先生。代表作は気候変動問題の京都議定書の会場でもあった京都国際会議場です。私は、このコンペのことを中学時代に知り、コンペでできた建物という印象をずっと持っておりました。その先生に教えてもらえるというのは私にとってはこれも嬉しいことでした。大谷先生は、厳しい方でしたが、どこかやさしく見守ってくださる雰囲気がありました。結婚式でもお祝いの言葉をいただきました。「駒場から進学してきた高谷君の顔を見たとたんに、四国の顔がいると思った。やっぱり私の感は当たっていた。すごいだろう」というお話しでした。建築関係以外の方には謎の言葉だったと思います。私にとっては励ましでした。というのは、大谷先生にとっての「四国の顔」というのは愛媛県出身の丹下先生に他ならないと思ったからです。

 

(2)槇総合計画事務所 

 都市工学科では当時槇文彦先生も非常勤で教えておられ、私は卒業後槇文彦先生の事務所に入れていただきました。槙事務所で13年間過ごせたことは本当に私にとっては幸運でした。建築と都市デザインの両方を学ぶことができ、その後の道を決めてくれました。

 槇事務所は大学の研究室の延長のような雰囲気でした。槇さんご自身も都市工学科から、建築学科に移られ教授になられましたし、先輩同輩後輩には大学の教授になられた方も多く、私の前後だけでも20人くらいはいらっしゃるのではないでしょうか。槇先生も日本を代表する素晴らしい建築家ですが、所員も第一級の方々ばかりでした。そのような雰囲気の中で学ぶことができました。

 槇事務所では実務の傍ら、東レ科学振興財団から受託された研究をお手伝いし、その成果を「見えがくれする都市」(英語バージョンは”City with a hidden past”)に書かせていただきました。また、槇さんが海外講演でお使いになる図版(例えば日本とヨーロッパとアメリカの都市空間の特徴を一枚のスライドで表現するものなど)を描いたりしながら、槇さんのお考えを必死になって学ぼうとしていました。

 

(3)二人の先生から学んだこと

①都市空間は人々の小さな営みの集成であること:独立した個人の集合としての社会/都市

 大谷先生からは設計者としての原点ともいえる光景についてのお話しを聞いたことがあります。敗戦後、焼け野原の東京の丘の上に家が建っていく光景だそうです。ぽつぽつと一軒ずつ立ち上がっていくのですが、それらがお互いに会話しながら、あるバランスの下にまちができていく様子です。そこから、大谷先生は建築が一つずつ集まって都市空間ができていくという当たり前の事実に気付き、都市は一人一人の営みの集成されたものであるというとらえ方をするようになったとおっしゃっています。

 実は槇さんも違った形で建築の集合としての都市空間について語っておられます。槇さんが授業で、見せてくれたギリシャのイドラ島の写真です(これは私が後年撮ったもの)。建築はそれぞれ自立して建っていますが、その集合に何とも言えない調和があり、全体として一つの個性が表現されています。槇さんはこの島を見た時に建築と都市との関係にある種の啓示を受けたと語っておられます。

 このような体験がもとになっているのでしょうか、お二人とも建築の集合のあり方についての論文を発表されています。同じような都市の捉え方を出発点とされていますが、大谷先生のお考えは次のようです。建築は他者から自立して成立しうる条件、仕掛けを持っていないといけない。それが中庭だ。そして同時に都市として集まるためには都市空間との接点部分に媒体となる空間を持っていないといけない。そのことをメソポタミアやギリシャを例にとって説明してくれます。

 それに対し槇さんのアプローチはもっと抽象的です。「集合的形態についての考察」という論文において、明快なストラクチャーの下に建築を秩序付けるのでもなく(メガストラクチャー型の集合)、また全体を律する秩序が下敷きになった配置でもない(比例的秩序に基づく集合)、一つ一つの建築が自立性を持って集合するグループフォームという概念(群造形)を提示されています。建築と建築との関係性、あるいは隙間のあり方の中に建築と都市をつなぐ鍵があるとのお考えです。

 お二人の考えに共通するのは、構成要素である一つ一つの建築は自立するものでなくてはならないという前提です。 お二人とも、丹下先生の門下でありながら当時一世を風靡したメタボリズムには一歩距離を置かれていました。なぜでしょうか。メタボリズムは例えていうと大きな幹にとりつく葉っぱがどんどん新陳代謝していくことで大きな木は常にみずみずしくあるというイメージで語ることができると思います。しかし葉っぱの側に自己決定権はありません。お二人ともその葉っぱの側の自立性に意味を見出しておられるのではないか・・・・私は勝手に推論しています。

 皆様お気付きのようにこれは、建築都市論でもありますが、一つの市民社会論でもあると思います。個人の独立が保証され、独立した個人が同じ都市生活者である他者を思いやりながら社会を作っていくという大谷先生や槇先生の思想の反映がこの建築都市論であったと思います。

 自立し独立した個人/建築の集合したものとして都市空間をとらえること、このことは都市に対する私の基本姿勢ともなっています。

 

②設計することは思考すること、設計を通して都市を学ぶ

 これは主に大谷先生から学んだことです。

 都市のすべてを理解するのは無理。「都市とは膨大な複合体でしかも歴史的に積み重なったもの」、常に計り知れないものを持っているし、すべてを理解して建築や都市空間にかかわることは不可能だというのが大谷先生の認識でした。都市の構成原理を総合的、網羅的に理解していないのだから必要以上に介入しないでおきなさいということをおっしゃっていました。大谷先生は行政や大企業による再開発などには非常に批判的だったと思いますが、それは小さな営みが集合してできたごちゃごちゃした集合体、この原理や法則が分からないのに、一気にクリアランスして一つの高層建築とそれを取り囲む広場に変えてしまうことをひとまず留保したいということだと思います。

 では、どうやって複雑な都市を理解するのか。そのためには設計をしてみなさい。提案をしてみなさい、そして都市からの応答を分析する中で、少しずつ都市を理解するのです。したがって設計というのは思考、考えることなのだということをいつもおっしゃっていました。都市からの応答を見ながら、より確かなものにどうしたら近づくことができるのかを考えるのです。

 西洋医学のように診断をしてから処方をする、すなわち考えてから実行するのではなく、東洋医学のように処方をしながら、人体の反応を見る、すなわち処方のプロセスが考えるプロセスなのだと思います。

 三年の時に他の先生の課題でしたが、大谷先生にも図面を見ていただくと、「君の図面には思考の跡が見えない。よって君の論理が見えない」。本当はデザインがなっていないとおっしゃりたかったのだと思いますが、設計というものを思考としてとらえるという視点からのコメントは私にとって本当に新鮮な驚きでした。その後、実践できているわけではありませんが、設計というものを考える基本になっています。

 

③歴史の審判に耐える一貫性:設計者の倫理

 表記の内容について、大谷先生と槇先生の表現はだいぶ違いますが、おっしゃっていることは同じだと思います。

 あるプロジェクトを担当していたときのこと。発注者がお金のことは槇先生にお任せしますとおっしゃっていたのを聞いていたので、少し坪単価を高く見直してもよいのではないでしょうかというようなことを言ったとき、槙さんが「任せられたのだから、きちんとしたコストコントロールをして責任を持ってつくるのです。ここでの坪単価は私が最初に設定した○○万円/坪を超えてはいけません」と強い調子でおっしゃったことをよく覚えています。バブルの時には維持管理にお金がかかるようなものを作り、経済の衰退期に困ってしまうようなものを作る建築家も多いわけです。建築の設計者はバブルだろうが不景気だろうが自分の規律を持ちなさいということだと思います。

 また、ある高層建築の基本計画の打ち合わせで、電波法による規制で建物の角度を少し変えなければならないとの分析が示された時のことです。槇さんは「この建築の配置の理由が電波法にあるというのですか。私はエクスキューズ付きの建物は作りません」といって大変ご立腹になりました。

 槇さんがお考えの建築とは、その時々の技術的な条件で規定されてしまうようなものではない。もっと長期の社会の価値に対応し、歴史の審判に耐えるものをつくっているのだという意識なのだと思います。

 槇さんは、こんなような内容のこともおっしゃっています。ヨーロッパの町並みは美しく、日本はそれと比べると貧相に見えるけど、ヨーロッパを真似すればいいというものではない。日本は別の原理で行くべきでしょう。ただ、あちらに学ぶものがあるとすると、その街並みは都市が栄えていた時も衰退したときも人々により守られ続けてきたものであることだ。この点は尊敬されてよい。

 槇さんは、一貫して建築に「パブリックスペース性」を求めておられます。精神の高揚を感じ、その場所を一つのものとして皆で共有する感覚をもてるのがパブリックスペースです。その姿勢はバブルだろうと不景気だろうと、槇さん御自身の建築の好みが変わろうとずっと一貫しています。そういうものが歴史の審判に耐える建築を生み出しているのだと思います。

 大谷先生はどこかで、建築は雄々しいものだ、言い訳などしないとおっしゃっていたように記憶します。目先のことに左右されて、あとで言い訳が必要な建築をつくってはならない。長い年月を見据えて、恥ずかしくないものをつくりなさいということでしょう。大谷先生も同じことをおっしゃっていたのだと思います。

 以上の事柄は今でもまだ十分に理解したとは言えないのですが、自分の思考の基本的な部分を律しているように思います。

to be continued


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