まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

ジョルジオコスタ社会センターへの再訪(2011視察07)

2011-10-04 21:32:19 | 海外巡礼 South Europe

9月6日の夕方、ソルフェリーノ地区の見学を終えた足で、わたしたちはFsctory of Art 地区に戻りジョルジオコスタ社会センターを再訪しました。ジョルジオコスタ社会センターには去年もお邪魔して、その活動の様子をお聞きしましたが、残念なことに昼間尋ねたために会員の方たちはまだ集まっていませんでした。今年は夕方なので会員の方たちにもあえるという期待があります。

通訳の青山さんと訪ねると去年と同じく所長のZanardiさんが門のところまで出迎えてくれました。またきてくれたということで大歓迎を受けてしまいました。

この社会センターは、そもそも早期に定年退職して年金生活を楽しんでいた人たちが、自分達の集まる場所が欲しいということでボローニャ市に要請して生まれたものだそうです。センターが出来た20数年前は50代で皆さん退職し、のんびりと老後を楽しもうということだったようです。

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彼らは市と交渉して開いている建物(上の写真)を改装してもらい(おそらく無償で)借り受け、社会センターというAssociationをつくったのです。彼らが利用している建築のコンヴァージョンについては以前報告したとおりです(「歴史都市ボローニャを訪ねて」、『公益ビジネス研究vol. 5』、公益総合研究センター)。

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今日は活動の様子を報告しましょう。気候のよいときですから、会員の方たちは外でカードゲームを楽しんでいます。彼らは今年が開設27年ということで、そのためのパーティや食事の会も自主企画しています。彼らの収入はまずは会費です。私たちも会費を払い会員になりました。

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上の写真は、いろいろな催し物のチラシと私の会員カードです。

私が着目したいのは彼らの活動が施設内で完結するのではなく外と積極的に繋がっていることです。例を挙げます。下の写真の若い男の人は社会センターの前にある広場、すなわち朝訪問したチネテカの広場を使って産直の市をやっています。たまたま社会センターに相談に来て、ここを拠点に活動しているそうです。市では花、野菜、魚、鶏など実に多彩なものを扱っているそうです。

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下の写真の女性のは社会センターの食事の会を手伝っていたそうですが、地元の肉を使った伝統料理などに興味があります。詳細な経緯は聞きそびれましたが、先ほどの男性と一緒に地元食材や伝統料理をテーマに、この地域のスローフード協会としての活動を行っているそうです。右にいる赤いシャツの男性が所長のZanardiさんです。

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また、私たちがビールをご馳走になっているこの屋外バールも最近作ってみたとのことです。社会センターはFactory of Artsの複合再開発地のど真ん中に位置するのでボローニャ大学の学生もすぐ近くにたくさんいます。彼らにバールでアルバイトしてもらうことで若い人たちも社会センターの中に出入りしてきています。リタイアーした人たちの社会センターですが若い人たちも結構見受けられる理由がお分かりでしょう。

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しかし、外に開く事に関しては、反対意見もあるそうです。同じ年代いの人たちだけで楽しみたいという方も少なくはないということでした。ただ、今運営に携わっている人たちは積極的に外に開いて若者たちにとっても利用してもらいたいと考えているようでした。

あえて日本で同じような施設といえば敬老会館ということでしょうか。あるいは公民会や地区センターに併設されているシルバー倶楽部のようなものでしょうか。しかし、独立した建物を完全に自主運営している点が大きく違うと思いました。完全な自主運営なので、外の人たちとのいろんな交流も自分たちで仕掛けて行っている訳です。

皆さんと楽しく歓談したあと、Factory of Art の公園が出来たから案内しようということで見学しました。皆さん、自分達の庭のように誇らしげです。公園ではバーベキューをやっていました。本当に楽しく地域の中で暮らすというのはこういうことなのかという思いが自然に起こりました。

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チネテカで素晴らしいアーカイブに出会う(2011視察06)

2011-10-03 00:42:38 | 海外巡礼 South Europe

行動した順に従うと6日の朝一番に訪れたのがチネテカです。これは前回説明した映像文化をテーマにした10haの大規模再開発の目玉施設といえるでしょう。

フィルムのアーカイブ(シネマテーク、収集保管施設)で付属の映画館(前回紹介した映画館リュミエール)や修復所、図書館を持っています。

案内してくれたのはAnna Fiaccariniさんです。私の耳にはアンナ**(聞き取れず)カリーナと聞こえました。もちろんゴダールの奥さんのアンナカリーナを思い出しました。フィルムアーカイブをアンナカリーナの案内で見学するというのもなかなか得難い体験です。

彼女は私たちが昨年訪ねたパリのシネマテーク(アメリカの売れっ子建築家でスペイン・ビルバオのグッゲンハイム美術館も設計したフランクゲーリーの作品です)にいたこともある研究者です。

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チャップリン直筆の絵コンテを説明してくれています(上の写真)。

次の写真を見ればこの映画が「独裁者」であることがわかります。

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さてAnna Fiaccariniさんの話から始めます。

いやその前にチネテカの図書館・アーカイブの建築について少々。

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この部分は場であったはずです。1階は文献などが並んでいます。

2階にフィルムや絵コンテ、映像や音声テープなどの保管庫があります。

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2階からの見降ろしです。

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さてAnna Fiaccariniさんの説明です。

チネテカ は1967年に市の図書館に設置された映画に関するアーカイブが発展して出来た市の施設です。

井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」などを読むと映画好きの人が作った協同組合がもとになっているものと思っていましたが、チネテカは純然たる市立の機関だそうです。

1995年に図書館から自立した施設としてこの再開発地区に移転してきました。最初は表通りのRiva di Renoに面した古い建物に本部があったようです。もしかしたら今も形式的な本部はReno通り沿いにあるのかもしれません。ちなみにReno通りはRivaという名前が示すように下に川・運河が流れているそうで、私のブログの<2011視察02>で紹介した川(運河?)につながっています。

このアーカイブの特徴はフィルムを集めるだけでなく、脚本、ポスター、撮影を記録する映像、ヴィデオ、映画関係の雑誌、近年はビデオゲームなどあらゆるものをコレクションしていることです。ボローニャ自体の古い写真も収集・公開しています。もちろん中でも有名なのはチャップリンに関するコレクションですが、彼に関する文書だけでも25万点を所蔵しているそうです。遺族も積極的にこのアーカイブに遺品を集中させようとしているようです。もちろん持続的な説得による信頼関係があってのことです。

収蔵品の中心となるフィルムだけでも6万本あるそうですが、それは別の倉庫に保管してあります。

このように充実しているのにはボローニャ大学が1970年代から映画史の研究やフィルム保存に取り組んでいたということも関係しているだろうとのことです。

また冒頭に述べたように、Anna Fiaccariniさんはヨーロッパの他の7つのアーカイブに関係した事があるとのことですがボローニャの一番の特徴は映画を保管する時にもフィルムだけでなく撮影に関関連する文書など周辺資料をきちんと収集することから始めるところだろうと指摘しています。

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上の写真は映画監督アレッサンドロ・ブラゼッティに関する資料です。

珍しいものとしてはパゾリーニがアンナマニャーニと演出をめぐって議論している音声なども残っているそうです。またデカメロンのポスターに出ている俳優が実際に映画の中には出てこないのはなぜかなども研究し、今公開されているものが監督自身で公開直前にカットしたものであることなども解明したそうです。

当然黒沢、溝口などの資料もありますよと教えてくれました。

ボローニャは音楽の部門でユネスコの創造都市に認定されていますが、そればかりでなく映像文化に関しても市民の関心が非常に高い都市であるということです。

最後にAnna Fiaccariniさんにこの建物はアルドロッシの設計ですねと話題を向けてみました。建築の設計者など日本の人であれば知らないことが多いので、ちょっと聞いてみたのです。するとこの建物ができたときには彼は死んでいたので正確に言うと彼の事務所の設計ですね、とさらりと回答してくれました。彼女によると入口のロトンダが一番ロッシらしい空間です。私もそれに全く異論がありません。

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この後訪れた社会センターの人たちも今度この地区にレンゾピアノ設計のオーディトリアムが計画されているんですよと建築家の名前を普通に会話に登らせていました。やはり自分たちが誇りに思っている美しいまちやまち並みをつくったきたプロフェッションに対して一定の敬意を払っているのでしょう。翻って(一般的な美醜の観点に従えば)決して美しいとはいえない日本の現代都市をつくってきたプロフェッションに日本の人たちが関心を払わないのもむべなるかなというところでしょうか。


都市再開発としてのManifattura delle Arti(2011視察05)

2011-10-02 22:39:52 | 海外巡礼 South Europe

Legnani女史の話の後半です。城壁内部の最後の大規模大開発:Manifattura della Artiのお話を伺いました。

この中には既存建物を再生活用した映画館があります。場を改造したアルドロッシ設計の映画館の中に今年こそ入りたいと考えていました。

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アルドロッシのロトンダです。今年いただいた資料(工事前の航空写真と計画図)から増築されたのはこのロトンダとその周りのごく一部に限定されていることがわかりました。

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昨年は入れなかった内部の写真です。まさにアルドロッシです。

スイス人(イタリア系というのでしょうか)のマリオボッタを思い出しました。下の写真は彼がサムスンのために設計したソウルの美術館です。

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映画館の中は暗くてあまり分からないと思いますが、建築的にはそれほど特徴がないことに驚きました。鶴岡まちキネの方が面白い空間のような気もします(すいません、アルドロッシさん)。

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ロビーはちょっとおもしろいですね。

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Legnaniさんの話に戻します。

この地区の再開発は城壁内部の旧市街地の最後の複合的大規模再開発ということです。基本的には市とボローニャ大学が出資者です。まず1983から1987年にかけて市が用地取得。

計画案についての国際コンペが1983に行われアイモニーノCarlo Aymoninoたちの案が当選します。

Aimoninoはロッシと共同でガララテーゼ集合住宅を70年代にやったあのラショナリスト建築家のことだと思います(迂闊にもその場での確認を忘れました)。彼は建築類型学を活かした保存についても大きく貢献しているようです。

ただ彼らの案は建築保存法に不適合(65年以上たった建物は勝手に取り壊しできません)で結局はアルドロッシにマスタープランを再依頼したとのことです(これがアイモニーノとロッシの関係の中でおなわれたのかどうかはもちろんわかりません)。これにより、既存建物の保存再生を中心とした計画が固まったのです。

Legnani女史のお話はすでに知っていたことの確認という内容がほとんどでしたが、若干曖昧であった既存用途と新規施設の関係がクリアーになりました。

1.9月11日公園と地下駐車場:タバコ工場(以前は絹とキャンバスを織っていた工場)

2.運河のあるCavaticcio公園、日本なら親水公園と呼ぶでしょう:Cavaticcio運河、Navile Harbor

3.市立フィルムアーカイブズ=チネテカ:タバコ工場の事務室

4.市立の映画館=リュミエールとボローニャ大学映像芸術学部:市営の場

5.社会文化センター:塩の倉庫

6.モダンアートギャラリー=MAMBO:パン工場のオーブン

7.コミュニケーションサイエンス大学:製粉所(Mill)

8.Azzogardinoと Castellaccio通り沿いの住居、商業施設、学生住居

9.幼稚園

都市再生では多くの用途を複合させることで環境的、文化的、経済的、社会的にも良い結果が得られるというのが彼らの考え方です。

これは学生が映画に関係するワークショップをやるところです。

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外部には施設の魅力を高めるためにバーを少しずつ整備しているとのことでした。

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ボローニャの中心市街地から学ぶこと(2011視察04)

2011-10-02 19:56:24 | 海外巡礼 South Europe

チェントロストリコから何を考えるのか

<ここでもう一度問います。なぜボローニャに>

ボローニャと私がまちづくりに携わる鶴岡は歴史も都市空間の仕組みも建築も違うわけです。参考になりますか。

上の問いに対してとりあえず次の2つの視点を提示したいと思います。

<歴史的建築の保存と都市計画の関係>

問題は中心部の歴史的雰囲気を目に見える形で今に伝え、同時にそこに人が住み生業を営む中で守ってきた都市の生活文化をどう守り、継承していくかです。それに大きく関係するのが歴史的な建築ですが、文化財行政で保存の対象となる建築、言い換えると修復などを公的な資金で行える建築ということです、の数はいくら歴史都市ボローニャといえども中心部にそれほど多くあるわけではありません。

大多数は文化財ではないが歴史性を伝える普通の建築(群)です。

ボローニャ市では、インタヴューにあった通り、経済活動によるジェントリフィケーションと都心の空洞化が相前後していたようです。それをフィジカルにみると商人と職人が住んだゴシックロット形式の建築がなくなったり、あるいはその特性に合わない用途になることであったわけです。

それにたいしてボローニャ市はNOを突き付け都市計画的な介入Interventionを開始しました。中心部には高級マンションやブランド店だけでなく職人の工房やや小さな商店があり、ボローニャ大の学生を含むいろんな階層の人が住めることが長い目で見た場合のボローニャの活力を生むと判断したのです。

コムーネが社会主義政権であったことも大いに影響していると思います。こボローニャがイタリアのチェントロストリコ政策を大きく転換させたということは間違いありません。

その時に、職人や商店の容器としてはすでに歴史的に確立されたTypeがあり、それが時間とともに進化していく建築形式であるのだから、そのTypeを守ることが必要というのがフィジカルな面での解決法でした。

しかしジェントリフィケーションなどはグローバルな経済現象の中で投機的に進む現象です。これに掉さすのは市といえども難しいのでしょう。ボローニャの都心部では地価が高騰し、市による事業の妨げとなったようです。

実際には集中的に市が介入すると決めた4地区(当初計画は13地区でした)すら完成にまでは至らず、私たちが見せてもらったソルフェリーノとサンレオナルド(小さいのでソルフェリーノを見に行きましょうとLegnaniさんがおっしゃった通り一つの街区だけです)だけが成功例と言えるようです。

なかなか困難であったということはさておき、私が着目したいのは、繰り返しになりますが建築の保存再生がきちんとした都市政策、都市計画の一部として遂行されていることです。この点は大いに学ぶ必要がありそうです。

<建築類型学的方法>

もう一つ考えたい点です。

鶴岡では、ボローニャ中心部のように歴史的建築が軒を連ねているわけではありません。むしろ少数が点在しているということです。

わたしたちが考えないといけないのは、保存再生もさることながら、画一的なメーカーハウスやイージーな「ペナペナ建築」をどう変えていくのかということです。

古いよい例に典拠してそれを模倣しようということでは後世に恥ずかしいものとなります。後ろ向きの対応をすれば、Legnaniさんが言うように、次世代の人から「その時代の表現を刻印する勇気のない人たち」という烙印を頂戴します。

はやり、今までの伝統的な建築が持っているTypeと進化の法則を見つけ出し、それを尊重したうえで新しい建築を作り出していくことが求められています。その点で建築類型学的方法が参考になると思います。

先日宇治市で文化的景観を担当している杉本さんにお話を伺いました。彼は商店街を今まで作ってきた遺伝子DNAを見つけてその遺伝子を継承していく新しい建築で街並みを作っていくとおっしゃっていました。過去に完成した形式である町家を模倣したり、町家に近づくような形態規制はやりたくないということでした。まさに同感です。

鶴岡もそうしないといけないのです。

上の2点今後の宿題です。


チェントロストリコ:インタヴューと見学(2011視察03)

2011-10-01 21:56:28 | 海外巡礼 South Europe

2011.9.6

通訳兼コーディネーターの青山愛さんが6日の朝私たちのホテルまで来てくれました。

午前中にFactory of Arts地区の中心施設であるチネテカ、午後一番に市役所とチェントロストリコの事例見学、そして夕方にはふたたびFactory of Arts地区を訪れ社会センターのZanardiさんたちと再会というのが今日の予定です。

ただ、説明の都合上市役所でのインタヴューと事例見学を先に紹介しましょう。

市役所です(下写真)。

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間違いました。途中で見た果物屋さんでした。次の写真が市役所です。

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階段です。馬にのったまま登れるようになっているそうです(下の写真)。

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市役所はちょうどストライキで抗議文を読み上げる人ごみを掻き分けて中に入れてもらいました。事情は分かりませんがストライキの日なのに出勤している人も何人かいます。全く話しは飛びますが、イタリア×「ストライキの日に出勤」といえば、当然映画「鉄道員」です。ピエトロジェルミ自身の演じるスト破りの機関士の姿とイタリア語の切なく悲しいトーンが忘れられません。鶴岡まちキネのキネマ4でもぜひやってほしいですね(下の写真は青梅駅の通路の看板)。

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話を戻します。説明して下さるのはFederica Legnani女史。Ph.Dをお持ちで大学の先生をずっとされたあとボローニャ市にきたとのことです。

彼女の説明を紹介します。彼女は英語でペーパーも用意してくれました。

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<第2次世界大戦でのダメージとSan Giorgio in Poggiale事件>

中心部も大きく破壊されました。戦後は住む場所として郊外が選択され中心部は荒廃Urban Blightが進行しました。一方では資本の論理による投機的な開発が進み、いわゆるジェントリフィケーションUrban Gentrification現象が起きたのです。

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そんな中で1962年にボローニャ司教が中心部にあるSan Giorgio in Poggiale教会を開発会社に売ることにきめました。開発会社はデパート(スーパーマーケット)をつくろうとしたのです。これが反対運動を巻き起こし、全イタリアの人々の関心をひきました。

このときItalia Nostra(マフィアではありません。イタリアの歴史保存協会だそうです)設立者のAntonio Cedernaが有名な「ボローニャのトルコ人」という文章を書いて「17世紀にできた由緒ある教会を壊す人はよっぽど信仰心のない人だ」と訴えたそうです。この訴えもあり、結果的にはボローニャ銀行が買い取り修復して図書館にしてみんなに開放しています。

1962年のこの事件は都市中心部の保存にとって大きなインパクトとなったわけです。

<60年代、ベネヴォロが主導した類型学研究>

San Giorgio in Poggiale教会事件で多くの人々が都市空間や建築の行く末に関心を持っていることが分かりました。そこで、ボローニャ市では歴史的中心部の保存に力を入れることにしたのです。

最初は市民に対して歴史があるのは有名なマジョーレ広場などだけではないということを啓蒙したようです。住宅の形式も文化の重要な価値に関係する、そして古いまちはいろんな条件で進化し続ける有機体であるということを市民に分かってもらうようにしたということです。

中々日本ではこういうことに市民が関心を持つということは考えられません。住居形式Housing Patternが文化的価値の重要な要素important elements of cultural valueと唱えたようですが、果たして日本ではどの程度の理解を得られるのでしょうか。

ともあれこの時代はベネヴォロ先生が大活躍です。市の依頼をうけて保存プランを研究します。この過程で計画の目的が建物の保存にあるのではなく、まちのあるいは市民の文化の保存Preservationにあるということが確認されたのです。

彼らの研究方法は建築類型学typological theories approachと呼ばれています。ムラトーリなどの類型学理論を建築や都市に適用したものです。

彼らは古代の地図を調べ当時の地主であった修道院や教会がいわゆるGothic lot(
Lotto gotico:日本の町家と同じうなぎの寝床形状)に街区をつくりそれぞれのロットを貸してそれぞれ別に細長い建物を建てさせたことを解明します。それぞれ別の細長い建物をポルティコがつないだということです。

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上の図版はFederica Legnaniさんがくれたものです。Gothic lotに対応した細長い間口をもち時代と共に奥にエクステンションしていくひとつのタイプです。これが道路に素って並びまちなみをつくります。時代が変わってもこの型Typeは基本を変えることなく進化していくのです。まちはいくつかの変化し続けながらも基本を変えないTypeで出来上がっているということでしょうか。

この成果をもとに1966年にオープンセッションが開催されます。これを期に市民の保存への関心が高まります。ここでベネヴォロは形だけの保存ではなく、社会的文化的に変わっていくものsocial and cultural variableに注意を向けることを提唱しています。

<チェントロストリコの保存計画1969とはどんなものか>

保存計画1969は形式としてはボローニャ市のマスタープラン1955の一部として位置づけられます。

保存計画1969では、形態的な分かりやすさを損ねるものや、基本機能にそぐわない用途にしてはいけないことが主張されています。

より具体的には次の5項目の実行が提案されます。

1.都市の荒廃から中心部を守る

2.歴史文化、美的な遺産に価値を認め役割を担わせる

3.発生交通を中心から排除する

4.必要な施設を中心部に整備する

5.中心部の混雑を緩和させる

計画では大きな教会敷地などのTypeを含む4つのTypeを元に保存を進めることとなっています。そのTypeの基本的な特徴main featureを損ねない用途を見つけることが薦められています。

また計画1969では最も状態が悪い13地区の改善がとりあげられています。

<実際に市が取り組んだのは4つの地区>

計画1969を受けて市が考えたことは取り組むべきは建物の保存だけではなく市、市民の文化の保全と市民の生活の保全であることです。そして実際トータルに取り組むためには予算のこともあり、衛生状態も含めた最も状態の悪い4地区を選定しました。

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ボローニャ市はその方針に基づいて郊外peripheryでの新規建設をやめて中心部の住宅改善に費用を振り向けるためのアフォーダブル公共住宅条例を施行しました。しかし、自分の居住地を移動したくないという住民の反対で必ずしも上手くいったわけではなかったようです。

実際には全体計画とは別に、同意したオーナーたちの住戸だけが修復されました。市に売却をしたり、市からの援助を受けたりしたわけです。1978年時点で、212戸を修復して入居が可能になっています。また市は17の店を修復して主に職人に貸しています。補助金を頼りに226戸と42の店が修復されています。

ちょっと分かりにくかったのですが、前者の212戸は市が一度買い取ったうえで優先的に必要な人に分譲したのだと思います。後者の226戸は補助金を元にオーナーが市の指導のもとに改築したということだと思います。

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(上の写真)基本的に柱はレンガ造ですが一部の柱は石造であり、詳細な調査はしていないが相当の歴史があるのではないかとのことです。ちなみにこの辺りの建物は16、7世紀にまで遡れるとのことでしたので、中央のドリス式の柱は一体何時頃のものということでしょうか。

<中心部の修復がもたらしたもの>

実はこの類型学的なアプローチを郊外住宅地でも適用したそうです。結果は、失敗だったということです。

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上の写真が郊外地においてチェントロストリコのような建築でつくろうとしたプロジェクトです。ボローニャの開口部の特徴である布スクリーンや煙だしの越屋根が採用されています。

ちょうどそういう試みがなされたのは1980年代です。新しい開発も歴史的な様相をまとわせようとしたということのようです。時代は建築の世界で言えばポストモダニズム全盛の頃。ちょうど思惑が合致したのでしょう。Federica Legnaniさんのペーパーには建築家ポルトゲージの名前も出てきます。

同時にこの時期には中心部においても歴史的な様式をまとった建築が建てられたそうです。しかしなんとも小気味好いのはいただいたペーパーの次の言葉です。

中心部からは現代建築が消え、かわりにまがい物の歴史的建築が現れた。そう、私たちは勇気を持って私たちの時代を刻印する可能性を放棄していたのだ。

この一言は名文句です。気に入りました。賛成です。