2011.9.6
通訳兼コーディネーターの青山愛さんが6日の朝私たちのホテルまで来てくれました。
午前中にFactory of Arts地区の中心施設であるチネテカ、午後一番に市役所とチェントロストリコの事例見学、そして夕方にはふたたびFactory of Arts地区を訪れ社会センターのZanardiさんたちと再会というのが今日の予定です。
ただ、説明の都合上市役所でのインタヴューと事例見学を先に紹介しましょう。
市役所です(下写真)。
間違いました。途中で見た果物屋さんでした。次の写真が市役所です。
階段です。馬にのったまま登れるようになっているそうです(下の写真)。
市役所はちょうどストライキで抗議文を読み上げる人ごみを掻き分けて中に入れてもらいました。事情は分かりませんがストライキの日なのに出勤している人も何人かいます。全く話しは飛びますが、イタリア×「ストライキの日に出勤」といえば、当然映画「鉄道員」です。ピエトロジェルミ自身の演じるスト破りの機関士の姿とイタリア語の切なく悲しいトーンが忘れられません。鶴岡まちキネのキネマ4でもぜひやってほしいですね(下の写真は青梅駅の通路の看板)。
話を戻します。説明して下さるのはFederica Legnani女史。Ph.Dをお持ちで大学の先生をずっとされたあとボローニャ市にきたとのことです。
彼女の説明を紹介します。彼女は英語でペーパーも用意してくれました。
<第2次世界大戦でのダメージとSan Giorgio in Poggiale事件>
中心部も大きく破壊されました。戦後は住む場所として郊外が選択され中心部は荒廃Urban Blightが進行しました。一方では資本の論理による投機的な開発が進み、いわゆるジェントリフィケーションUrban Gentrification現象が起きたのです。
そんな中で1962年にボローニャ司教が中心部にあるSan Giorgio in Poggiale教会を開発会社に売ることにきめました。開発会社はデパート(スーパーマーケット)をつくろうとしたのです。これが反対運動を巻き起こし、全イタリアの人々の関心をひきました。
このときItalia Nostra(マフィアではありません。イタリアの歴史保存協会だそうです)設立者のAntonio Cedernaが有名な「ボローニャのトルコ人」という文章を書いて「17世紀にできた由緒ある教会を壊す人はよっぽど信仰心のない人だ」と訴えたそうです。この訴えもあり、結果的にはボローニャ銀行が買い取り修復して図書館にしてみんなに開放しています。
1962年のこの事件は都市中心部の保存にとって大きなインパクトとなったわけです。
<60年代、ベネヴォロが主導した類型学研究>
San Giorgio in Poggiale教会事件で多くの人々が都市空間や建築の行く末に関心を持っていることが分かりました。そこで、ボローニャ市では歴史的中心部の保存に力を入れることにしたのです。
最初は市民に対して歴史があるのは有名なマジョーレ広場などだけではないということを啓蒙したようです。住宅の形式も文化の重要な価値に関係する、そして古いまちはいろんな条件で進化し続ける有機体であるということを市民に分かってもらうようにしたということです。
中々日本ではこういうことに市民が関心を持つということは考えられません。住居形式Housing Patternが文化的価値の重要な要素important elements of cultural valueと唱えたようですが、果たして日本ではどの程度の理解を得られるのでしょうか。
ともあれこの時代はベネヴォロ先生が大活躍です。市の依頼をうけて保存プランを研究します。この過程で計画の目的が建物の保存にあるのではなく、まちのあるいは市民の文化の保存Preservationにあるということが確認されたのです。
彼らの研究方法は建築類型学typological theories approachと呼ばれています。ムラトーリなどの類型学理論を建築や都市に適用したものです。
彼らは古代の地図を調べ当時の地主であった修道院や教会がいわゆるGothic lot(
Lotto gotico:日本の町家と同じうなぎの寝床形状)に街区をつくりそれぞれのロットを貸してそれぞれ別に細長い建物を建てさせたことを解明します。それぞれ別の細長い建物をポルティコがつないだということです。
上の図版はFederica Legnaniさんがくれたものです。Gothic lotに対応した細長い間口をもち時代と共に奥にエクステンションしていくひとつのタイプです。これが道路に素って並びまちなみをつくります。時代が変わってもこの型Typeは基本を変えることなく進化していくのです。まちはいくつかの変化し続けながらも基本を変えないTypeで出来上がっているということでしょうか。
この成果をもとに1966年にオープンセッションが開催されます。これを期に市民の保存への関心が高まります。ここでベネヴォロは形だけの保存ではなく、社会的文化的に変わっていくものsocial and cultural variableに注意を向けることを提唱しています。
<チェントロストリコの保存計画1969とはどんなものか>
保存計画1969は形式としてはボローニャ市のマスタープラン1955の一部として位置づけられます。
保存計画1969では、形態的な分かりやすさを損ねるものや、基本機能にそぐわない用途にしてはいけないことが主張されています。
より具体的には次の5項目の実行が提案されます。
1.都市の荒廃から中心部を守る
2.歴史文化、美的な遺産に価値を認め役割を担わせる
3.発生交通を中心から排除する
4.必要な施設を中心部に整備する
5.中心部の混雑を緩和させる
計画では大きな教会敷地などのTypeを含む4つのTypeを元に保存を進めることとなっています。そのTypeの基本的な特徴main featureを損ねない用途を見つけることが薦められています。
また計画1969では最も状態が悪い13地区の改善がとりあげられています。
<実際に市が取り組んだのは4つの地区>
計画1969を受けて市が考えたことは取り組むべきは建物の保存だけではなく市、市民の文化の保全と市民の生活の保全であることです。そして実際トータルに取り組むためには予算のこともあり、衛生状態も含めた最も状態の悪い4地区を選定しました。
ボローニャ市はその方針に基づいて郊外peripheryでの新規建設をやめて中心部の住宅改善に費用を振り向けるためのアフォーダブル公共住宅条例を施行しました。しかし、自分の居住地を移動したくないという住民の反対で必ずしも上手くいったわけではなかったようです。
実際には全体計画とは別に、同意したオーナーたちの住戸だけが修復されました。市に売却をしたり、市からの援助を受けたりしたわけです。1978年時点で、212戸を修復して入居が可能になっています。また市は17の店を修復して主に職人に貸しています。補助金を頼りに226戸と42の店が修復されています。
ちょっと分かりにくかったのですが、前者の212戸は市が一度買い取ったうえで優先的に必要な人に分譲したのだと思います。後者の226戸は補助金を元にオーナーが市の指導のもとに改築したということだと思います。
(上の写真)基本的に柱はレンガ造ですが一部の柱は石造であり、詳細な調査はしていないが相当の歴史があるのではないかとのことです。ちなみにこの辺りの建物は16、7世紀にまで遡れるとのことでしたので、中央のドリス式の柱は一体何時頃のものということでしょうか。
<中心部の修復がもたらしたもの>
実はこの類型学的なアプローチを郊外住宅地でも適用したそうです。結果は、失敗だったということです。
上の写真が郊外地においてチェントロストリコのような建築でつくろうとしたプロジェクトです。ボローニャの開口部の特徴である布スクリーンや煙だしの越屋根が採用されています。
ちょうどそういう試みがなされたのは1980年代です。新しい開発も歴史的な様相をまとわせようとしたということのようです。時代は建築の世界で言えばポストモダニズム全盛の頃。ちょうど思惑が合致したのでしょう。Federica Legnaniさんのペーパーには建築家ポルトゲージの名前も出てきます。
同時にこの時期には中心部においても歴史的な様式をまとった建築が建てられたそうです。しかしなんとも小気味好いのはいただいたペーパーの次の言葉です。
中心部からは現代建築が消え、かわりにまがい物の歴史的建築が現れた。そう、私たちは勇気を持って私たちの時代を刻印する可能性を放棄していたのだ。
この一言は名文句です。気に入りました。賛成です。