まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

チェントロストリコ:インタヴューと見学(2011視察03)

2011-10-01 21:56:28 | 海外巡礼 South Europe

2011.9.6

通訳兼コーディネーターの青山愛さんが6日の朝私たちのホテルまで来てくれました。

午前中にFactory of Arts地区の中心施設であるチネテカ、午後一番に市役所とチェントロストリコの事例見学、そして夕方にはふたたびFactory of Arts地区を訪れ社会センターのZanardiさんたちと再会というのが今日の予定です。

ただ、説明の都合上市役所でのインタヴューと事例見学を先に紹介しましょう。

市役所です(下写真)。

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間違いました。途中で見た果物屋さんでした。次の写真が市役所です。

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階段です。馬にのったまま登れるようになっているそうです(下の写真)。

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市役所はちょうどストライキで抗議文を読み上げる人ごみを掻き分けて中に入れてもらいました。事情は分かりませんがストライキの日なのに出勤している人も何人かいます。全く話しは飛びますが、イタリア×「ストライキの日に出勤」といえば、当然映画「鉄道員」です。ピエトロジェルミ自身の演じるスト破りの機関士の姿とイタリア語の切なく悲しいトーンが忘れられません。鶴岡まちキネのキネマ4でもぜひやってほしいですね(下の写真は青梅駅の通路の看板)。

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話を戻します。説明して下さるのはFederica Legnani女史。Ph.Dをお持ちで大学の先生をずっとされたあとボローニャ市にきたとのことです。

彼女の説明を紹介します。彼女は英語でペーパーも用意してくれました。

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<第2次世界大戦でのダメージとSan Giorgio in Poggiale事件>

中心部も大きく破壊されました。戦後は住む場所として郊外が選択され中心部は荒廃Urban Blightが進行しました。一方では資本の論理による投機的な開発が進み、いわゆるジェントリフィケーションUrban Gentrification現象が起きたのです。

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そんな中で1962年にボローニャ司教が中心部にあるSan Giorgio in Poggiale教会を開発会社に売ることにきめました。開発会社はデパート(スーパーマーケット)をつくろうとしたのです。これが反対運動を巻き起こし、全イタリアの人々の関心をひきました。

このときItalia Nostra(マフィアではありません。イタリアの歴史保存協会だそうです)設立者のAntonio Cedernaが有名な「ボローニャのトルコ人」という文章を書いて「17世紀にできた由緒ある教会を壊す人はよっぽど信仰心のない人だ」と訴えたそうです。この訴えもあり、結果的にはボローニャ銀行が買い取り修復して図書館にしてみんなに開放しています。

1962年のこの事件は都市中心部の保存にとって大きなインパクトとなったわけです。

<60年代、ベネヴォロが主導した類型学研究>

San Giorgio in Poggiale教会事件で多くの人々が都市空間や建築の行く末に関心を持っていることが分かりました。そこで、ボローニャ市では歴史的中心部の保存に力を入れることにしたのです。

最初は市民に対して歴史があるのは有名なマジョーレ広場などだけではないということを啓蒙したようです。住宅の形式も文化の重要な価値に関係する、そして古いまちはいろんな条件で進化し続ける有機体であるということを市民に分かってもらうようにしたということです。

中々日本ではこういうことに市民が関心を持つということは考えられません。住居形式Housing Patternが文化的価値の重要な要素important elements of cultural valueと唱えたようですが、果たして日本ではどの程度の理解を得られるのでしょうか。

ともあれこの時代はベネヴォロ先生が大活躍です。市の依頼をうけて保存プランを研究します。この過程で計画の目的が建物の保存にあるのではなく、まちのあるいは市民の文化の保存Preservationにあるということが確認されたのです。

彼らの研究方法は建築類型学typological theories approachと呼ばれています。ムラトーリなどの類型学理論を建築や都市に適用したものです。

彼らは古代の地図を調べ当時の地主であった修道院や教会がいわゆるGothic lot(
Lotto gotico:日本の町家と同じうなぎの寝床形状)に街区をつくりそれぞれのロットを貸してそれぞれ別に細長い建物を建てさせたことを解明します。それぞれ別の細長い建物をポルティコがつないだということです。

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上の図版はFederica Legnaniさんがくれたものです。Gothic lotに対応した細長い間口をもち時代と共に奥にエクステンションしていくひとつのタイプです。これが道路に素って並びまちなみをつくります。時代が変わってもこの型Typeは基本を変えることなく進化していくのです。まちはいくつかの変化し続けながらも基本を変えないTypeで出来上がっているということでしょうか。

この成果をもとに1966年にオープンセッションが開催されます。これを期に市民の保存への関心が高まります。ここでベネヴォロは形だけの保存ではなく、社会的文化的に変わっていくものsocial and cultural variableに注意を向けることを提唱しています。

<チェントロストリコの保存計画1969とはどんなものか>

保存計画1969は形式としてはボローニャ市のマスタープラン1955の一部として位置づけられます。

保存計画1969では、形態的な分かりやすさを損ねるものや、基本機能にそぐわない用途にしてはいけないことが主張されています。

より具体的には次の5項目の実行が提案されます。

1.都市の荒廃から中心部を守る

2.歴史文化、美的な遺産に価値を認め役割を担わせる

3.発生交通を中心から排除する

4.必要な施設を中心部に整備する

5.中心部の混雑を緩和させる

計画では大きな教会敷地などのTypeを含む4つのTypeを元に保存を進めることとなっています。そのTypeの基本的な特徴main featureを損ねない用途を見つけることが薦められています。

また計画1969では最も状態が悪い13地区の改善がとりあげられています。

<実際に市が取り組んだのは4つの地区>

計画1969を受けて市が考えたことは取り組むべきは建物の保存だけではなく市、市民の文化の保全と市民の生活の保全であることです。そして実際トータルに取り組むためには予算のこともあり、衛生状態も含めた最も状態の悪い4地区を選定しました。

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ボローニャ市はその方針に基づいて郊外peripheryでの新規建設をやめて中心部の住宅改善に費用を振り向けるためのアフォーダブル公共住宅条例を施行しました。しかし、自分の居住地を移動したくないという住民の反対で必ずしも上手くいったわけではなかったようです。

実際には全体計画とは別に、同意したオーナーたちの住戸だけが修復されました。市に売却をしたり、市からの援助を受けたりしたわけです。1978年時点で、212戸を修復して入居が可能になっています。また市は17の店を修復して主に職人に貸しています。補助金を頼りに226戸と42の店が修復されています。

ちょっと分かりにくかったのですが、前者の212戸は市が一度買い取ったうえで優先的に必要な人に分譲したのだと思います。後者の226戸は補助金を元にオーナーが市の指導のもとに改築したということだと思います。

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(上の写真)基本的に柱はレンガ造ですが一部の柱は石造であり、詳細な調査はしていないが相当の歴史があるのではないかとのことです。ちなみにこの辺りの建物は16、7世紀にまで遡れるとのことでしたので、中央のドリス式の柱は一体何時頃のものということでしょうか。

<中心部の修復がもたらしたもの>

実はこの類型学的なアプローチを郊外住宅地でも適用したそうです。結果は、失敗だったということです。

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上の写真が郊外地においてチェントロストリコのような建築でつくろうとしたプロジェクトです。ボローニャの開口部の特徴である布スクリーンや煙だしの越屋根が採用されています。

ちょうどそういう試みがなされたのは1980年代です。新しい開発も歴史的な様相をまとわせようとしたということのようです。時代は建築の世界で言えばポストモダニズム全盛の頃。ちょうど思惑が合致したのでしょう。Federica Legnaniさんのペーパーには建築家ポルトゲージの名前も出てきます。

同時にこの時期には中心部においても歴史的な様式をまとった建築が建てられたそうです。しかしなんとも小気味好いのはいただいたペーパーの次の言葉です。

中心部からは現代建築が消え、かわりにまがい物の歴史的建築が現れた。そう、私たちは勇気を持って私たちの時代を刻印する可能性を放棄していたのだ。

この一言は名文句です。気に入りました。賛成です。


ボローニャ歴史的中心部の修復活用(2011視察02)

2011-10-01 16:17:22 | 海外巡礼 South Europe

9月の初めに訪れたボローニャ、ウルビノそしてミュンヘン、アウグスブルグのことをメモしておきます。帰国後してすぐに日程がつんでしまい、中々記録を残すことができませんでしたがこれ以上おいておくと忘れることもありそうです。

     

<ボローニャにきた理由は?>

ひとつはいわゆるチェントロストリコ、歴史的中心部の修復的再開発の成果と考え方を確認することです。もうひとつは、城壁の内側ですが中心部から外れて寂れていた北西部のFactory of Artsと呼ばれる再開発地区を見ることです。

この他時間があれば、日本の建築家丹下健三氏のマスタープランでつくられたフィエラ地区と、ボローニャ市のアーバンセンターを見たいと考えています。

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ボローニャの町のど真ん中には水路があります(上写真)。

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ボローニャ名物ポルティコにもいろんな種類があります。木製です(上写真)。

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ダブルハイトの木製ポルティコです(上写真)。

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こういったものが最も多く見られるものでしょうか。アーチのスラスト力(水平に広がろうとする力)をタイバーでバランスさせています。後の時代に加えたものでしょう(上写真)。

<イタリアにおける都市化の歴史のなかでのチェントロストリコ>

イタリアと日本はいろんな意味で似ています。

日本の幕末とほぼ同じ1870ごろ統一国家となりました。産業革命が遅れた農業国からスタートしたわけです。

その後、19世紀末から20世紀にかけて工業化を進め、都市化が進み人口構成も大きく変わる。敗戦で大きなダメージを受けますが、敗戦後1950年代、60年代に大きく飛躍します。都市化もその時期に一層進展します。

都市開発という視点ではどうでしょう。

19世紀末から20世紀にかけては都市壁(城壁)を壊して郊外を開発したり、道路網の整備などの社会基盤整備が進められます。明治時代に道路橋梁などの社会資本に投資を集中するなど日本も似たようなことをやっています。

こういった中で、歴史的中心部がどのように扱われてきたのでしょうか。

Marcello Vittorini 「イタリア国土の変貌と歴史的街区」『都市住宅特集 都市の思想の転換点としての保存』1976年7月号所収論文を参考に概括してみましょう。

まず統一以後の国家基盤の形成とともに道路の拡幅などで中心部の破壊が進んだ時期があります。ただとくに中心部が重要な場所として考えられていたわけではなく第2次世界大戦までは、放置されとくに計画対象ともなっていなかったのです。

戦後の都市集中過程では、歴史的中心部の外延が投機の対象となりました。郊外へと住宅投資が集約されたのです。中心部からはブルジョア階級が脱出し貧しい人たちが町の真ん中に取り残された形です。

一方でオフィスや商店、ホテルなど三次産業への需要は高まってきます。それに対応して、スクラップアンドビルドによる都市改造の動きも出てきました。老朽化した歴史的建築物に住む住民を追い出しい業者が買い取り「再構成」する方式。ミラノ、トリノ、ジェノバそしてナポリやローマでもこの傾向が強かったようです。

この結果、わたしほ中心部はブルジョアが棲み占用する町となり、職人や小規模店主、古くからの住民がいなくなってしまうというのが各都市に共通の現象でした。

こういった中で、大きな転換点がおとずれます。都市計画法の改正議論が高まり将来の改正に向けた1967年「橋渡し法(legge-ponte)」です。この「橋渡し法(legge-ponte)」は建築認可の強い権限、コムーネの計画づくりへの国の介入などの基本的な枠組み整備に加え「歴史的街区の区域規定と、その内部における保存的再生の十分な実施計画」を義務付けるものだったのです。

歴史的街区についても「単に文化財であるだけでなく、基本的重要性をもつ経済的資産でもあるという概念」が生まれ、定着したきっかけとなっています。

1960年代後半というのは、日本でもそうであったようにイタリアにも既存の価値観やシステムをめぐる根本的な議論があったように思えます。

引き続きこの時期に都市と環境をめぐる広範な議論が起こりました。

その中で住宅法1971が社会党内閣で成立します。中心部居住者の権利を保証する形での計画事業作成を促進したり、所有権と使用権を分離する形での土地収用を可能にするなどの仕組みが整えることが目的のひとつでした。

このころ歴史的街区をめぐる関心はすでにヨーロッパ諸国で共有されており、ヨーロッパ評議会は1975年を「我々の過去のための未来」「建築遺産のためのヨーロッパの一年」と定めている。これに向けボローニャで歴史的街区に関する会議が開かれ、ボローニャ市が進める事業計画に高い評価を与えたという。

また、後に紹介しますが、ボローニャ市役所のFederica Legnaniさんによると、国の法律はボローニャの実践を後追いしたとのことでした。

以上Marcello Vittorini の古い論文を頼りに歴史的街区がどう扱われてきたのかを概括して見ましたが、星野まりこ氏の以下の報告との一致も確認できます。

ボローニャ市では「記念碑的な建造物を保存修復するより、一般の人が住み・働く建物を保存再生することを目指した『都心庶民住宅地区再生事業』」を開始し、「低所得者層を都心部にとどめるだけでなく、都心の文化的価値を再認識」することを実践した。「この低所得者住宅の再生による都心部活性化のシステムは『ボローニャ方式』と呼ばれ、都市再生のモデルとして世界中の都市計画者の注目するところとなった」(星野まりこ『ボローニャの大実験』、p24,三推社/講談社、2006)。

さて、以上のことを予備知識として、Legnaniさんの話を聞き、そののち、Solferino地区の見学を行ないました。