元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

日本の軍人は英雄だった 涙の5つのストーリー - 戦後70年 日本の誇りを取り戻そうNO,1

2015-11-24 18:55:47 | 日記

 

インドネシアを解放した聖将・今村均

「植民地の方々を自由にして差し上げたい」

 

今村中将の長男・和男さん。左上の額には、今村中将による直筆の揮毫が飾られている。

 

1942年、インドネシアの子供たちに歓迎される今村中将(中央)。

 大勢のインドネシア人の子供に囲まれ、笑顔を見せる日本人の写真がある(右)。まるでスポーツ選手や俳優が熱狂的なファンに迎えられているかのようだ。しかしこれは、大東亜戦争の最中、日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを解放した後に撮られたもの。この日本人こそ、インドネシアを解放した聖将・今村均・陸軍中将だ(最終階級は大将)。

「聖将」と呼ばれる所以について、長男の和男さん(97歳、東京都在住)はこう語る。

「親父は子供好きでした。インドネシアの子供を日本に招いて教育したり、日本の戦災孤児の施設を作ろうと各自治体に掛け合っていました。宗教の素養がありまして、戦争中もキリスト教の聖書と歎異抄(注2)をズボンのポケットに入れていたほどです」

 そんな聖将が統治したインドネシアでは、驚くべき光景が見られた。今村中将が司令部に出勤するたびに、地元の子供たちが行進して後を追うのだ。オランダの圧政から解放された喜びだけでなく、今村中将の融和的な統治や人徳が、インドネシア人の心を掴んで離さなかった。

(注2)浄土真宗の開祖・親鸞の教えを弟子の唯円がまとめたもの。

 

 

「東亜の解放を一生懸命やらなければいけない」

 1600年ごろから植民地となったインドネシアでは、オランダ人が現地人に暴行したり、強姦しても罪に問われなかった。行政を握り、インドネシア人に教育の機会すら与えない差別を行った。現地で独立を求める機運が高まると、3人以上の立ち話まで禁じた。現在の中国とチベットの関係にそっくりだ。

 そうした欧米のアジア支配が続く中、大東亜戦争中の日本は「アジア解放」を掲げて戦った。

 今村中将にも、アジア解放に強い信念があった。和男さんはその理由をこう語る。

「親父にはインド駐在の経験があります。その時、イギリスがインドを植民地にするために、ものすごく残酷なことをやっていたと知り、『何としても、植民地の方々を自由にして差し上げたい』と思いを強くしたのです。戦争に行くときも、『東亜の解放が本来の目的であるならば、一生懸命やらなければいけない』と言って、家を出ました」

 今村中将は1942年3月、第十六軍司令官として、インドネシアに上陸。たった9日間でオランダ軍を駆逐し、約350年続いた植民地支配を終わらせた。

 今村中将は、オランダが投獄していた独立運動家のスカルノらを解放し、政治活動の自由を与える。また、オランダ人が独占していた公職をインドネシア人に置き換えていった。

 軍政が落ち着いた42年11月、今村中将は第八方面軍司令官として、アメリカの反攻が迫るパプアニューギニアのラバウルに異動になる。

「親父はラバウルに向かう途中で山本五十六元帥にお会いして、『陸軍は自活して戦ってくれ。海軍は余力がない』と言われたようです。補給が途絶えた南方戦線では、兵士の半分以上が餓死しましたが、ラバウルでは、親父が自給自足のために畑をつくらせていたので、10万人の兵士が飢えずに済んだのです。

 また親父は、敵に備えて塹壕も掘りました。終戦までに掘った長さは、全部で東京から名古屋ぐらいになり、爆撃されてもびくともしないものでした」(和男さん)

 今村中将の指導で要塞化した、ラバウルの陣地を見たアメリカは、同地への上陸を諦めた。

 

戦犯裁判で「全ての責任は負う」

 日本の敗戦後、世界各地で多くの日本兵が戦争犯罪人(戦犯)として裁かれた。無実の罪で死刑になるなど、乱暴な判決が横行した。今村中将がいたラバウルでも、オーストラリアが裁判を行った。

「親父はラバウルではほとんど戦っていませんから、最初に進駐した豪州司令官は、『戦争犯罪なし』と報告しました。すると本国が『何百人は有罪』といった指令を出したため、やむなく戦犯を"つくった"のです」(和男さん)

 しかし、裁判で今村中将は「全ての責任は自分が負うから、部下は日本に帰せ」と主張。10年の有期刑判決を受けた。

 さらに、オランダも今村中将を裁こうとした。戦時中、日本軍はインドネシア人に軍事訓練を行い、祖国防衛義勇軍(PETA)などを組織させた。戦後、オランダ軍が植民地支配を再開しようと"再侵略"すると、PETAなどが中心となってオランダと戦った。従順だったインドネシア人が、日本の軍政を通じて、独立戦争を起こしたのだ。

「オランダにとってインドネシアを取られたのは大損害ですから、日本には恨み骨髄です。当然死刑の求刑でしたが、親父としては、インドネシアのために死んでも、何も悔いることはありませんでした」(和男さん)

 裁判の間、独立戦争を指揮するスカルノは、獄中の今村中将を助けようと「あなたを奪回する計画がある」と伝えた。だが今村中将は「厚意には大変感謝はするが、奪回には応じない」と潔く断る。その後の49年に、インドネシアは宿願だった独立を果たし、今村中将は無罪になった。 

「あなたのことは教科書で教わった」

 帰国した今村中将は、戦後もインドネシアに関心を持ち続けた。初代大統領に就任したスカルノは、来日すると必ず今村中将のもとを訪れた。今村中将は、経済に疎いスカルノに、経済に強い副大統領のハッタを重用するよう助言するなど、インドネシアの繁栄を願い続けたのだ。

 和男さんもインドネシアと縁が深く、植林事業などで訪れた時のことを少しうれしそうに振り返る。

「現地の人が私を親父と間違えて、『ジェネラル・イマムラ』と呼び、『あなたのことは教科書で教わった』と言うのです。小学校で親父のことを教わるようです」

 和男さんは今村中将の人柄について、「親父は戦時中、部下を失うたびに『僧侶になりたい』と話していました。本来、非常に宗教的な人だったのです」と語る。

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