日米戦争の真実
アメリカは、1940年に中国においての日本を非難して、日本を封鎖するための「ABCD包囲網」というものを作りました。
ABCDとは、アメリカ (America)、イギリス (Britain)、中国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄をはじめ、生活必需品などが入らなくなってしまいました。
今日も、アメリカはしばしば他国に対して「経済制裁」という手法をとります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁などです。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、たいていは行き過ぎない、賢いやり方をするようになっています。
あまりやり過ぎると、向こうが牙をむき、戦争を起こしてくるからです。けれども、ABCD包囲網という経済制裁は、まさに日本に「死ね」と言うほどのキツイものでした。
ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわなかったのです。しかしルーズベルトは、この経済制裁に踏み切りました。
貿易に依存するしか生きていく方法のない日本は、まさに窮地に立たされました。さらに、一九四一年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、また日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
石油が入らなければ、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとって、これは死活問題でした。
これほどキツイことをすれば、日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。
このように日米戦争は、真珠湾以前から始まっていました。
それでも、日本はこのときもまだ、米国との関係修復のために最後の努力を積んでいました。
日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼らは、日米首脳会談を強く申し入れました。
日本側は、ABCD包囲網を解いてくれるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意していました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放、機会均等も約束すると。
これはちゃんと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意していたのです。
しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出てきませんでした。
もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルについて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。
、アメリカ側はこのとき、のらりくらりするばかりで、交渉の要求にも、示した条件にも返答しなかったのです。
そしてやがて一九四一年一一月二六日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、あの悪名高い「ハル・ノート」という一方的な対日要求を通告してきました。
これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものとなったのです。
アメリカが提出してきた「ハル・ノート」は、日本にとっては寝耳に水、予想もしないものでした。
そして日本政府には、目がくらむほどの絶望感が走ったのです。 その対日要求は、中国大陸や、仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げるなどが、要求のおもなものでした。このような要求は予想できないでもありませんでした。
では、なぜこれが寝耳に水だったかというと、アメリカの言い分は、日本がこれらの要求をすべて呑めばABCD包囲網を解く、というものではなかったのです。
日本がこれらの要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかという話し合いに応じる、というものに過ぎませんでした。
アメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず、いささかの犠牲も払わず、ただ日本が要求を呑んで、丸裸になれという無茶苦茶なものでした。こんな高飛車で理不尽な要求は、とうてい呑めるものではありません。
ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係をなんとか修復したいと、必死の努力を続けていました。
しかしこの要求を受け取ったとき、いまやすべての努力が挫折したと知ったのです。このとき日本国内に、 「事態ここに至る。座して死を待つより、戦って死すべし」 という気運が生まれました。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かっていったのです。
戦後、東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は、
「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」 と述べたことは有名です。なぜアメリカは、ハル・ノートというような無茶苦茶な要求をしてきたのでしょうか。
アメリカは、「オレンジ計画」にみられるように、いずれ日本を叩きつぶそう、屈服させようと思っていました。真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意していたことは、今日では良く知られています。
けれども当時、アメリカ国民の大半は、参戦に反対でした。アメリカ人の多くは、かつての大恐慌の悪夢からようやく立ち直り、安定した生活を手に入れるようになったばかりでした。できることなら、他国との戦争などにかかわりたくありません。
そうした中、ルーズベルト大統領は、なんとか日本と戦争をし、日本を屈服させたいと願っていました。
また当時ヨーロッパでは、すでにドイツ軍の勢力がイギリスにも迫っていました。それでルーズベルトは、盟友チャーチル首相のイギリスを救うためにも、アメリカの参戦を何とか果たしたいと思っていたのです。
もしアメリカが日本と開戦すれば、日本とドイツの同盟関係により(日独伊三国同盟)、アメリカは自動的にドイツとも開戦することになります。そうすればアメリカがドイツを打ち負かす機会が生まるわけです。
そのためルーズベルトは、何とか参戦を果たしたいと願っていました。けれども、アメリカ政府が勝手に戦争を始めても、アメリカ世論がついてくるわけがありません。
どうしたら、世論は日本との戦争をよしとするだろうか。そうです。もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争やむなしと思うに違いありません。
アメリカは、西部劇にもみられるように決闘の国であり、先に相手に銃をぬかせてこそ、大義名分が立つというものなのです。
そのためにアメリカが用意したのが、 「ハル・ノート」 という日本への要求書でした。これをつきつけるなら、日本は牙をむいて、刃向かってくるに違いない――そう踏んだわけです。
もちろん、こうした国運をかけた重要な外交文書が出されるには、当然、アメリカ議会の承認が必要のはずです。ところがハル・ノートは、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本につきつけられました。
これが日本に出されたことは、ルーズベルト大統領と、幾人かの側近だけが知っていたことだったのです。真珠湾が攻撃されたとき、ほとんどのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りませんでした。
アメリカ国民は、アメリカに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わなかったのです。
当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点となっていました。1941年12月8日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃、破壊しました。
真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだとき、喜んだのはルーズベルト大統領でした。これでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。
当時の大統領側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いたとき、大統領は「安堵した」といいます。それは彼の念願がかなった瞬間でした。
ルーズベルト大統領は、戦争には参加しないと公言して当選したが、心ではアメリカの参戦を強く願っていた。彼は日本を挑発して日本に「最初の一発」を打たせることに成功し、米国民を一気に戦争へ向かわせていった。
そののち、大統領は米国民の前に出ると、急に顔をこわばらせて怒りをあらわにし、これを日本の「卑怯なだまし討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。
さらに、 「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな) の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせていったのです。
アメリカは戦争に巻き込まれたのではなく、戦争を自ら引き起こしたのだ、ということです。ルーズベルト大統領が、自国を戦争に巻き込みたいと考えていたことは、疑問の余地はない。
しかし政治的理由から、最初の敵対行動が相手側から始められるようにすることを、熱望していたのである。
そのような理由から彼は……武力に訴えなければ耐えることができない点まで、日本人に圧力を加えたのである。日本は、アメリカ大統領によって合衆国を攻撃するように仕組まれたのである」
このように、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありませんでした。むしろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢のないところに追いやったのです。
戦争に負けたほうの日本がすべて悪く、勝ったほうのアメリカはすべて正しかったと考えがちです。とくに日本にはその傾向が強く存在します。
今の日本は、自虐的な歴史観に陥っています。日本がすべて悪かったのだと。また、あの当時の政治家や軍人たちはみな狂っていたのだと。しかしそうではありません。
当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入していったのです。そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。
もちろん、失政や失策もありました。あとから「ああすればよかった」「こうすればよかった」ということもありました。しかし問題は、あの状況まで追い込まれたとき、それ以外には選択肢はあったか、ということです。
特攻隊員ら。彼らをはじめすべての日本兵は、日本とアジアの未来を思い、命を捧げた。その犠牲の上に今日の日本とアジアがあることを、私たちは忘れてはならない。
アメリカは、1940年に中国においての日本を非難して、日本を封鎖するための「ABCD包囲網」というものを作りました。
ABCDとは、アメリカ (America)、イギリス (Britain)、中国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄をはじめ、生活必需品などが入らなくなってしまいました。
今日も、アメリカはしばしば他国に対して「経済制裁」という手法をとります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁などです。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、たいていは行き過ぎない、賢いやり方をするようになっています。
あまりやり過ぎると、向こうが牙をむき、戦争を起こしてくるからです。けれども、ABCD包囲網という経済制裁は、まさに日本に「死ね」と言うほどのキツイものでした。
ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわなかったのです。しかしルーズベルトは、この経済制裁に踏み切りました。
貿易に依存するしか生きていく方法のない日本は、まさに窮地に立たされました。さらに、一九四一年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、また日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
石油が入らなければ、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとって、これは死活問題でした。
これほどキツイことをすれば、日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。
このように日米戦争は、真珠湾以前から始まっていました。
それでも、日本はこのときもまだ、米国との関係修復のために最後の努力を積んでいました。
日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼らは、日米首脳会談を強く申し入れました。
日本側は、ABCD包囲網を解いてくれるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意していました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放、機会均等も約束すると。
これはちゃんと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意していたのです。
しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出てきませんでした。
もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルについて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。
、アメリカ側はこのとき、のらりくらりするばかりで、交渉の要求にも、示した条件にも返答しなかったのです。
そしてやがて一九四一年一一月二六日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、あの悪名高い「ハル・ノート」という一方的な対日要求を通告してきました。
これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものとなったのです。
アメリカが提出してきた「ハル・ノート」は、日本にとっては寝耳に水、予想もしないものでした。
そして日本政府には、目がくらむほどの絶望感が走ったのです。 その対日要求は、中国大陸や、仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げるなどが、要求のおもなものでした。このような要求は予想できないでもありませんでした。
では、なぜこれが寝耳に水だったかというと、アメリカの言い分は、日本がこれらの要求をすべて呑めばABCD包囲網を解く、というものではなかったのです。
日本がこれらの要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかという話し合いに応じる、というものに過ぎませんでした。
アメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず、いささかの犠牲も払わず、ただ日本が要求を呑んで、丸裸になれという無茶苦茶なものでした。こんな高飛車で理不尽な要求は、とうてい呑めるものではありません。
ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係をなんとか修復したいと、必死の努力を続けていました。
しかしこの要求を受け取ったとき、いまやすべての努力が挫折したと知ったのです。このとき日本国内に、 「事態ここに至る。座して死を待つより、戦って死すべし」 という気運が生まれました。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かっていったのです。
戦後、東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は、
「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」 と述べたことは有名です。なぜアメリカは、ハル・ノートというような無茶苦茶な要求をしてきたのでしょうか。
アメリカは、「オレンジ計画」にみられるように、いずれ日本を叩きつぶそう、屈服させようと思っていました。真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意していたことは、今日では良く知られています。
けれども当時、アメリカ国民の大半は、参戦に反対でした。アメリカ人の多くは、かつての大恐慌の悪夢からようやく立ち直り、安定した生活を手に入れるようになったばかりでした。できることなら、他国との戦争などにかかわりたくありません。
そうした中、ルーズベルト大統領は、なんとか日本と戦争をし、日本を屈服させたいと願っていました。
また当時ヨーロッパでは、すでにドイツ軍の勢力がイギリスにも迫っていました。それでルーズベルトは、盟友チャーチル首相のイギリスを救うためにも、アメリカの参戦を何とか果たしたいと思っていたのです。
もしアメリカが日本と開戦すれば、日本とドイツの同盟関係により(日独伊三国同盟)、アメリカは自動的にドイツとも開戦することになります。そうすればアメリカがドイツを打ち負かす機会が生まるわけです。
そのためルーズベルトは、何とか参戦を果たしたいと願っていました。けれども、アメリカ政府が勝手に戦争を始めても、アメリカ世論がついてくるわけがありません。
どうしたら、世論は日本との戦争をよしとするだろうか。そうです。もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争やむなしと思うに違いありません。
アメリカは、西部劇にもみられるように決闘の国であり、先に相手に銃をぬかせてこそ、大義名分が立つというものなのです。
そのためにアメリカが用意したのが、 「ハル・ノート」 という日本への要求書でした。これをつきつけるなら、日本は牙をむいて、刃向かってくるに違いない――そう踏んだわけです。
もちろん、こうした国運をかけた重要な外交文書が出されるには、当然、アメリカ議会の承認が必要のはずです。ところがハル・ノートは、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本につきつけられました。
これが日本に出されたことは、ルーズベルト大統領と、幾人かの側近だけが知っていたことだったのです。真珠湾が攻撃されたとき、ほとんどのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りませんでした。
アメリカ国民は、アメリカに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わなかったのです。
当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点となっていました。1941年12月8日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃、破壊しました。
真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだとき、喜んだのはルーズベルト大統領でした。これでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。
当時の大統領側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いたとき、大統領は「安堵した」といいます。それは彼の念願がかなった瞬間でした。
ルーズベルト大統領は、戦争には参加しないと公言して当選したが、心ではアメリカの参戦を強く願っていた。彼は日本を挑発して日本に「最初の一発」を打たせることに成功し、米国民を一気に戦争へ向かわせていった。
そののち、大統領は米国民の前に出ると、急に顔をこわばらせて怒りをあらわにし、これを日本の「卑怯なだまし討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。
さらに、 「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな) の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせていったのです。
アメリカは戦争に巻き込まれたのではなく、戦争を自ら引き起こしたのだ、ということです。ルーズベルト大統領が、自国を戦争に巻き込みたいと考えていたことは、疑問の余地はない。
しかし政治的理由から、最初の敵対行動が相手側から始められるようにすることを、熱望していたのである。
そのような理由から彼は……武力に訴えなければ耐えることができない点まで、日本人に圧力を加えたのである。日本は、アメリカ大統領によって合衆国を攻撃するように仕組まれたのである」
このように、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありませんでした。むしろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢のないところに追いやったのです。
戦争に負けたほうの日本がすべて悪く、勝ったほうのアメリカはすべて正しかったと考えがちです。とくに日本にはその傾向が強く存在します。
今の日本は、自虐的な歴史観に陥っています。日本がすべて悪かったのだと。また、あの当時の政治家や軍人たちはみな狂っていたのだと。しかしそうではありません。
当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入していったのです。そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。
もちろん、失政や失策もありました。あとから「ああすればよかった」「こうすればよかった」ということもありました。しかし問題は、あの状況まで追い込まれたとき、それ以外には選択肢はあったか、ということです。
特攻隊員ら。彼らをはじめすべての日本兵は、日本とアジアの未来を思い、命を捧げた。その犠牲の上に今日の日本とアジアがあることを、私たちは忘れてはならない。