元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

母の介護を通してつかんだもの

2015-12-05 13:01:57 | 日記

http://voicee.jp/201310196973

 

「さぁ、好きなことしよう!」

今から十数年前、私が58歳の頃のことです。
当時、外資系企業の人事担当だった私は、オーストラリア人の上司に呼ばれました。

「悦子。私はあなたに定年までいてもらいたいが、もし高齢のお母さんが心配なら、早期退職を希望するかい?」

そのとき、私の母は95歳。
私と同じマンションの別棟に一人で暮らしていました。


実際は私にお弁当を作ってくれるほど元気でしたが、間もなく100歳になることを思えば、心配がない訳ではありません。

「はい! そうさせていただきます」

その場で、上司に即答しました。
母はまだ元気だから、気楽に自分の趣味や旅行も楽しめる。
私は退職後の楽しい生活を、あれこれと思い描いていました。


思いがけない、母のケガ

退職後は計画通り、歌や書などの趣味に勤しみ、旧友との交際を楽しんでいました。
外出先から戻ると母の家に顔を出し、夕飯を食べて自分の部屋に帰る。
そんなふうに、リタイヤ後の生活を満喫しながら、1年ほど経ったある日のことです。
いつものように母の家に寄ると、母が床にうずくまっていました。

「お母さん! どうしたの?」
「痛い痛い……」

椅子から落ちて転んでしまったようです。
急いで救急車を呼びました。


診察の結果は、背骨の圧迫骨折。
お医者様によると、入院しても治療ができるわけではなく、治るまで安静にしているしかないとのことでした。

「じゃあ私、家に連れて帰ります」

以前、父が病気になったときには、母と私で、自宅で父の介護をしました。
その経験から、母にも住み慣れた自分の家で療養させてあげたいと思ったのです。

「お母さん大丈夫? 安静にしていれば治るからね」
「そうね。今はものすごく痛いけど、きっと明日には良くなるわよ」

明るい性格の母は、激痛に耐えながら、気丈にもそう言っていました。
そのときは母も私も、骨折さえ治れば、元の生活に戻れると思っていたのです。


突然、始まった介護

最初の1週間、母は激しい痛みと闘っていました。
痛み止めの座薬を入れてあげたくても、足を上げることはおろか、体を横に向けることさえできません。


お互いに苦労して座薬を入れ、痛みが治まるのを待ってから、体をそっと傾けながら全身を拭き、新しい肌着に着替えさせます。

「悪いねー、こんなことしてもらって……」
「何言ってんのよ。子供なんだから当たり前じゃない」

母は介護されることに恐縮してか、体が痛いときは「痛い」と言いますが、それ以外の愚痴や泣きごとは一切言いません。

「お母さんは偉いわ。お母さんが少しでも快適に過ごせるように、私もがんばろう」

半月、1カ月と経つうちに、母の痛みは和らいでいきましたが、体を左右に傾けられるようになるには、2カ月以上かかりました。

母は小柄なうえに、病気で胃や子宮を摘出しており、体重は30キロそこそこ。
介護する側としては、楽だったと思います。


けれども、清拭(せいしき)やおむつ替えなど、一つひとつの動作が重労働であることに変わりありません。


介護認定を受け、週に一度、ヘルパーさんに来てもらうことになりました。


自分の時間がない

母が骨折した日から、私は身の回りの物を母の家に運び入れ、住み込みで介護にあたりました。


前日までの気ままな生活から一転して、24時間の介護生活が始まったのです。

朝はまず、リンゴをすります。
母を起こし、リンゴを食べてもらっている間に、朝食の準備。


そして、母と一緒に朝食を食べながら洗濯機を回して、食べ終わると食事の片付け、洗濯物干し。


介護中は洗濯物が多く出るので、干すのも取り入れるのも大仕事です。
それが済むと、母に10時のお茶を淹れて、昼食の支度。


昼食が終わると後片付けをして、買い物、掃除。
すぐに3時のおやつ……。


その間にも、トイレに連れていったり、蒸しタオルで体を拭いたり、床ずれ予防のシートを貼ったり。


あっという間に窓の外が暗くなり、慌てて夕食の支度に取りかかります。

その他にも、看護師さんに提出するために、薬を使った時間、症状の変化、食事やおやつの時間とメニューなど、細かく記録をつけていきます。


食べた物がきちんと排泄されているかどうかを確認するために、おむつを使ったときには重さを測って尿の量を計算し、便の状態も記録しなければいけません。

「どうしてこんなに時間がないんだろう?」

あるとき、朝から晩までにこなしている仕事を、ノートに書き出して見ました。


すると、本当に一日中仕事が途切れず、5分の隙間もなく働いていることがよく分かりました。

「介護って本当に大変だわ」

思わずため息がこぼれました。


なんで私ばっかり

そのうちに、姉に対する不満が湧いてきました。
姉の住まいは電車で数駅先です。


姉の夫は早くに亡くなり、子供たちは自立しているので、自由な時間はたくさんあるはず。


なのに、月に一度くらいしか顔を出しません。
かなり腹を立てていても、直接は何も言わず、心のなかに不満を溜め続けていました。


そんなとき、友達が気分転換にと、1泊旅行に誘ってくれました。
たった1泊、旅行に行ってリフレッシュすることは、私にも母にもいい事だと思いました。
そこで、思い切って姉に相談すると……。

「1泊旅行? 次の日は何時に帰るの?」
「そうね、夕方、3時には……」
「そんなに遅い時間?」

そっけない姉の返事。
姉への不満は募るばかりです。


そのうえ、母が熱を出したり、尿の量が少なかったり、便秘が続いたりすると、母の容体が心配で、眠ろうとしても眠れない日が続きました。
心労と、疲れと、寝不足。


その上、一人で介護の負担を背負っている重圧。
この生活、いつまで続くんだろう……そんな思いが心をよぎることもありました。

 

運命のダイレクトメール

介護が始まって2年が経った頃。
一通のダイレクトメールが届きました。

「何かしら? シニア・プラン21?」

それは、幸福の科学のシニア会員向けに開かれた、生涯反省を通して心の修行を行う教室の案内でした。


私は、そのかなり以前に、幸福の科学に入会していました。
けれども、当時は仕事と習い事で忙しく、幸福の科学の勉強も活動もしていなかったのです。


でも、その日届いたダイレクトメールの、「徹底的な生涯反省を通しての再生・新生」という言葉に、強く心を惹かれました。


思い切って母をヘルパーさんに頼み、説明会に行ってみました。
しかし残念なことに、基礎コースの曜日がヘルパーさんの都合と合わず、私はがっかりして帰ろうとしました。


するとそのとき、女性講師が私の肩をポンッと叩いて、こう言ってくれたのです。

「お母さんのためにも、受けなきゃだめよ!」

その言葉を聞いた途端、なぜか胸が熱くなって、涙があふれてきました。
帰宅して、母とヘルパーさんに事情を話すと、何と、ヘルパーさんが曜日を合わせてくれることになったのです。


不思議な力に導かれるように、私は毎週1回、学びと反省の機会を与えられることになりました。


自分の生い立ちを振り返る

シニア・プラン21では、大川隆法総裁先生が説かれる心の教え「仏法真理(ぶっぽうしんり)」を学びながら、自分の人生を年代ごとに区切って、家族や友人、職場での人間関係などを見つめ直す「生涯反省」を行います。


ガイダンスの後、講師のお話がありました。

「人間は両親を選び、自分の魂修行にふさわしい環境を選んで生まれてきます。しかし、成長の過程で周りの人々からたくさんの愛を与えられていることに気づかず、自分中心に考えて、人生に不満を抱いてしまうのです」

「え? 親を選んで生まれてくる?」

驚きました。


自分で親を選んで生まれてくるなんて。
私は中学生の頃、母に向かって「勝手に産んだくせに!」と言ってしまったことを思い出しました。


「では、親に与えられたことを中心に、0歳から6歳までを振り返ってください」

講師の誘導に従って目を閉じると、幼い頃の情景が、心の中に蘇ってきました。


家族の愛に包まれていた私

私が生まれたのは、戦争が始まった昭和16(1941)年です。


家族は、編集者だった父と、専業主婦の母、姉、兄、私の5人。
空襲や疎開、食料の配給など、大変な時代だったのに、あたたかく幸せな家族の思い出ばかりが浮かんできます。


父と母と、9つ上の姉、7つ上の兄にかわいがられて、素直にのんびりと過ごしていた幼い私。


鮮やかに蘇るさまざまな場面はどれも、家族みんなが、幼い私に辛い思いをさせないようにと心を配って、一生懸命に守ってくれていた様子が映し出されていました。


「特にお母さんは、末っ子の私をかわいがってくれた。でも私は、親不孝だった……」

涙が次から次へとあふれました。
帰宅して母の顔を見ると、私は今までの自分を謝らずにはいられませんでした。

「お母さん、ごめんなさい。私、今まで間違ってたわ……」
「あら、どうしたの?」

母にシニア・プラン21で学んだ仏法真理や、反省で気づいたことを伝えると、とても喜んでくれました。

「それはありがたい教えだねぇ」

ヘルパーさんも、「私にもまた教えてください。丸山さん親子はいいわね」と、週に1度の外出を応援してくれました。


姉との関係

次の週のシニア・プラン21で、7歳から12歳までの小学生時代を振り返りました。
目を閉じて真っ先に浮かんだことは、”布団(ふとん)”のことでした。

「そういえば私、小学生、中学生の頃、自分の布団を上げたことがなかったわ」
「そうだ。同じ部屋に寝ていたお姉さんが、毎日私の布団まで上げてくれてたんだ」

記憶をたどると、女学生だった姉が、私の布団を上げている姿が見えてきたのです。


すると次々と、姉が助けてくれたことや、姉の優しい人柄が浮かんできました。
姉は昔から、人の悪口や愚痴、不平不満を言わない、心のきれいな人だったことを思い出しました。


私は幼い頃から、姉に手を差し伸べてもらうのが当然だと思っていたから、姉が介護を手伝ってくれないことへの不満が、止まらなかったのです。


「お姉さんは、もう充分与えてくれた。お母さんの介護は、私がするべき仕事なんだ」

そう思えたとき、姉への不満はすっかり消えて、急に心が軽くなりました。

お母さんの気持ち

年代ごとの反省が一通り終わると、次は両親や職場の人など、個別の人間関係を反省していきます。


私は改めて、母との関係を深く見つめていきました。


思い返してみると、私は長年、母の愛情を「うっとうしい」と感じていました。
母に束縛されているような気がして、「一人になりたい」「せいせいしたい」と思っていたのです。

父と母の不仲にも、うんざりしていました。
父は仕事に一途な人で、部屋の雨漏りがひどくても、布団をずらして寝てしまうほど、家のことには無頓着。


そんな父に、母は毎日文句を言い、口喧嘩が絶えませんでした。
私は長ずるにつれて「こんな家、早く出たい」と思うようになりました。


大学卒業後、外資系企業に就職した私は、仕事とお稽古事で家を空けてばかり。
家事もあまり手伝いませんでした。
35歳でマンションを買い実家を出ると、自由気ままな生活を満喫していました。

そんな私に、母は毎晩電話をかけてきました。
そして、「今日、お父さんがああ言ったこう言った」と愚痴を言い、挙句の果てには「早く寝なさいよ!」と余計なことまで言って電話を切るのです。


また、私が留守の間に部屋に来て、手作りのお惣菜を置いていきました。
そして後から、「大きい肉の塊が冷凍庫にあったけど、あんなの体に悪い」などと、いちいち文句を言うのです。


「うるさいわねー。私の勝手じゃない」――内心、そう思っていました。

しかし、仏法真理の視点で見つめ直すと、まったく違う母の姿が見えてきたのです。


毎日、父に文句を言っていた母の姿を見つめていくと、「お父さんは仕事に熱中し過ぎて体を壊すんじゃないか。もっと休んでほしい」と心配している、母の本当の気持ちが伝わってきました。


私に毎晩電話をくれたり、お惣菜を運んでくれた母の姿を思い出すと、単に愚痴を聞かせようとか、娘を縛ろうと思っていたのではなく、自由奔放な私をただただ心配して、健康に幸せに暮らせるようにと願ってくれてのことだったと、初めて気づきました。

「全部、お母さんの愛情だったんだ。なのに私は、全部曲がって受け取っていた……」

父が病気になったとき、母は自宅で父を看病して、献身的に尽くしていました。

「私はこの歳まで、お母さんの本当の気持ちを考えたこともなかった。なんて自分勝手で、感謝のない人間だったんだろう……」

今までの自分が申し訳なくて、ブラウスがぐっしょり濡れるほど、泣けて泣けて仕方がありませんでした。


介護ができる喜び

シニア・プラン21で仏法真理を学び、朝晩お祈りする習慣ができてからは、天上界のあたたかい光を実感して、心身の疲れも早く回復できるようになりました。


そして母の介護をさせていただけることが、私にとって、大きな喜びになっていったのです。


母が眠っているときに、テレビや本で、介護食や介助方法について学びました。
一番心掛けていたことは、介護を受ける母の心の負担を軽くすることです。


そこで、手指の運動も兼ねて、モロヘイヤの筋取りやソラマメの皮剥きなど、簡単な手作業を担当してもらうことにしました。

「これやってくれると助かるのよねー。お母さん、ありがとう」
「こちらこそ。お安い御用よ」

母はにっこりとほほ笑んで、小さなお手伝いを楽しんでいるようでした。
また、少しでも気分転換になるように、お茶の時間はベッドで済まさずに、母を車椅子に乗せてお茶の間に移動させてあげました。


仕事は限りなくありましたが、母の好きな歌舞伎のテレビがあるときは、仕事の手を休めて、母と一緒に観るように心がけました。


母は以前にも増して、私や周りの方々に、感謝の気持ちを表すようになりました。


入浴サービスの方がお風呂に入れてくださるときは、「ありがたい、ありがたい」と、終始、合掌した手をほどかないのです。


ヘルパーさんたちの間でも、「Mさんみたいな人はいないね」と、評判になっていました。

しかし、身体機能の衰えには逆らえず、自然な排便が難しくなり、看護師さんに摘便をしてもらうことも度々ありました。

「そうだ、お母さん。歌でも歌いましょうか」

処置してもらう間は、母の気が紛れるようにと、一緒に文部省唱歌を歌いました。
母は2番3番までよく覚えていて、辛い処置の間も楽しそうに歌って、終わると看護師さんにお礼を言っていました。


母との絆

ある秋の夜、満月がとても美しく夜空を照らしていました。
私はその月をどうしても母に見せてあげたくて、ベッドを窓辺に持って行こうと四苦八苦していました。


すると、母が言いました。

「満月よりもね、私に月を見せてくれようとする、あなたの心の方がずっと美しいわ」

その言葉が、私の心に深く沁みわたっていきました。
私をこの世に生み出してから、一日も絶えることなく愛し続けてくれたお母さん。


人生の終わりが近づいている今もなお、ベッドに横たわりながら、こうして私に愛を与え続けようとしてくれている……。

「お母さん、私はあなたの子供に生まれて、本当に幸せです。お母さんは、世界一のお母さんよ」

私はこみあげる涙を抑えられずに、ぼろぼろと泣きながら、やせ細った母の手を、夜が更けるまでさすっていました。


ひとときの別れ

介護の期間が4年半を過ぎた、2006年6月25日。

「ああ、天井から床まできれいなお花でいっぱいねぇ」
「女の人がたくさん来てるわね」

そうつぶやいたあと、母は安らかに旅立っていきました。
101歳の大往生でした。

「遠慮しないで、泣いたらいいよ」

シニア・プラン21に通う友達に慰められて、思い切り泣きました。
母はあの世に行っただけで、いずれまた会えると分かっていても、母の姿が見えなくなってしまったことが、悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。

「若い頃はお母さんから逃れたいと思っていたのに……。本当はずっと、お母さんの存在に支えられていたんだ」

今になって、母の気持ちが分かったことがあります。
母のお気に入りの布で、小さな枕を縫ってあげたときのこと。


母はその枕を抱いて、こう言ったのです。

「うれしい、うれしい。あの世に行ったらお母さんに見せてあげる」

そのときは、「こんなに年を取っても、母親に会いたいものなのかしら」と不思議に思いましたが、今は、自分の母親を慕っていた母の気持ちが、痛いほど分かります。

「お母さんが私を愛してくれたように、今度は私が、他の人を愛して支えられるようになろう。そして、いつも見守ってくださる仏に、感謝して生きていこう」

本当の幸せに気づいて

以前の私は、死ぬことを恐れていました。
でも、幸福の科学の信仰を持った今は、何の心配もありません。

「苦しみのなかに、実は人生の砥石があるのです。
悲しみのなかに、他者への愛が芽生えるきっかけがあるのです。


人生にはいろいろな事件がありますが、そこに仏の巧妙なる仕組みがあるということを、みなさんは知らねばなりません。」(書籍『幸福の原点』より)


私は、自分に介護の役割が与えられた意味が、はっきりと分かりました。


「お母さんの介護がなかったら、私はきっと自分勝手な人生を生きて、人に愛を与えるということも知らずに終わってしまった。介護のおかげで、本当の幸せは愛を与えることだと気づかせてもらったんだ!」


介護は、突然降りかかった不幸ではなく、そこには、深い深い仏の慈悲がありました。
お母さん、私も残りの人生を、悔いのないよう、がんばって生きていきます。
天国で会ったとき、ほめてもらえるように。

お母さん。
お母さん。
お母さんに会える日を、心から楽しみにしています。

 
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