蜻蛉日記 下巻 (200) 2017.6.29
「七月になりぬ。八月近き心ちするに、見る人は猶いとうら若く、いかならんと思ふこと繁きに紛れて、我が思ふことはいまは絶えはてなにたり。」
◆◆七月になりました。右馬頭との約束の八月が近いと感じていますが、世話をしている養女はまだまだ子供っぽくて、どうなることだろうかとしきりに案じられているのに取り紛れて、私自身の物思いは今ではすっかり消えてしまっていました。◆◆
「七月中の十日ばかりになりぬ。頭の君いとあさりかれば、われをたのみたるかなと思ふほどに、ある人の言ふやう、『右馬頭の君はもとの妻を盗み取りてなん、あるところに隠れゐ給へる。いみじう烏滸なることになん世にも言ひさわぐなる』と聞きつれば、我はかぎりなく目安いことをも聞くかな、月の過ぐるにいかに言ひやらんと思ひつるにと思ふものから、あやしの心やとは思ひなんかし。」
◆◆七月の半ばの二十日ごろになりました。右馬頭がとてもとり乱してせき立てて来るので、私を頼りにしているのかと思っていると、侍女が言うには、「右馬頭さまは元の妻の、
(今は他人の妻)を盗み出して、あるところに隠れていらっしゃいます。ひどく馬鹿げたことだと、世間でもうるさく噂しているそうでございます」とのことだったので、私はこの上なくほっとする話を聞いたのでした。この七月が過ぎたらどのように言ってやったらよいかと気が重かったけれど、でもまあ、妙なこともあるものだと、思ったことでしたよ。◆◆
「さて又文あり。見れば人しも問ひたらんやうに、『いで、あなあさまし。心にもあらぬことを聞こえさせはつきにもすまじ。かからぬ筋にても、とり聞こえさすること侍りしかば、さりとも』などぞある。返りごと、『〈心にもあらぬ〉とのたまはせたるは、何にかあらむ〈かからぬさまにて〉とか、もの忘れをせさせ給はざりけると見たまふるなん、いとうしろやすき』とものしけり。」
◆◆さて、また右馬頭からお手紙がきました。見ると、まるでこちらから聞き出したかのように「いやまったく、とんでもないことでございます。心にもないことをお耳に入れまして、お約束の八月には結婚は出来まいと存じます。このようなこととは無関係の面でも(養女との関係でなくても、道綱との縁)申し上げることがあったのでございますから、どうぞお見限りには…」などと書いてあります。返事には「心にもない…とは何のことでございましょう。また、このようなこととは無関係な面、とかおっしゃいますのは、物忘れをなさらなかったのだなあと存じまして、まことに安心いたしました。」と書き送ったのでした。
■あさりかれば=未詳。「(いとど)わびかかれば」などの誤写か。
■もとの妻(め)=以前の妻。今は他人の妻となっているか。
■烏滸(をこ)なること=馬鹿げたこと。
■はつきにもすまじ=未詳。「果つべきにもすまじ」、「八月にも住まじ」などの改定案あり。
■何にかあらむ=作者は右馬頭の元妻のことを知らぬふりをして。
作者の心痛の種であった右馬頭の養女への求婚は、右馬頭の不行跡で自爆のごとくで終わりとなった。作者はほっと肩の荷を下ろしたのであった。
「七月になりぬ。八月近き心ちするに、見る人は猶いとうら若く、いかならんと思ふこと繁きに紛れて、我が思ふことはいまは絶えはてなにたり。」
◆◆七月になりました。右馬頭との約束の八月が近いと感じていますが、世話をしている養女はまだまだ子供っぽくて、どうなることだろうかとしきりに案じられているのに取り紛れて、私自身の物思いは今ではすっかり消えてしまっていました。◆◆
「七月中の十日ばかりになりぬ。頭の君いとあさりかれば、われをたのみたるかなと思ふほどに、ある人の言ふやう、『右馬頭の君はもとの妻を盗み取りてなん、あるところに隠れゐ給へる。いみじう烏滸なることになん世にも言ひさわぐなる』と聞きつれば、我はかぎりなく目安いことをも聞くかな、月の過ぐるにいかに言ひやらんと思ひつるにと思ふものから、あやしの心やとは思ひなんかし。」
◆◆七月の半ばの二十日ごろになりました。右馬頭がとてもとり乱してせき立てて来るので、私を頼りにしているのかと思っていると、侍女が言うには、「右馬頭さまは元の妻の、
(今は他人の妻)を盗み出して、あるところに隠れていらっしゃいます。ひどく馬鹿げたことだと、世間でもうるさく噂しているそうでございます」とのことだったので、私はこの上なくほっとする話を聞いたのでした。この七月が過ぎたらどのように言ってやったらよいかと気が重かったけれど、でもまあ、妙なこともあるものだと、思ったことでしたよ。◆◆
「さて又文あり。見れば人しも問ひたらんやうに、『いで、あなあさまし。心にもあらぬことを聞こえさせはつきにもすまじ。かからぬ筋にても、とり聞こえさすること侍りしかば、さりとも』などぞある。返りごと、『〈心にもあらぬ〉とのたまはせたるは、何にかあらむ〈かからぬさまにて〉とか、もの忘れをせさせ給はざりけると見たまふるなん、いとうしろやすき』とものしけり。」
◆◆さて、また右馬頭からお手紙がきました。見ると、まるでこちらから聞き出したかのように「いやまったく、とんでもないことでございます。心にもないことをお耳に入れまして、お約束の八月には結婚は出来まいと存じます。このようなこととは無関係の面でも(養女との関係でなくても、道綱との縁)申し上げることがあったのでございますから、どうぞお見限りには…」などと書いてあります。返事には「心にもない…とは何のことでございましょう。また、このようなこととは無関係な面、とかおっしゃいますのは、物忘れをなさらなかったのだなあと存じまして、まことに安心いたしました。」と書き送ったのでした。
■あさりかれば=未詳。「(いとど)わびかかれば」などの誤写か。
■もとの妻(め)=以前の妻。今は他人の妻となっているか。
■烏滸(をこ)なること=馬鹿げたこと。
■はつきにもすまじ=未詳。「果つべきにもすまじ」、「八月にも住まじ」などの改定案あり。
■何にかあらむ=作者は右馬頭の元妻のことを知らぬふりをして。
作者の心痛の種であった右馬頭の養女への求婚は、右馬頭の不行跡で自爆のごとくで終わりとなった。作者はほっと肩の荷を下ろしたのであった。