永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(106)

2016年03月08日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (106) 2016.3.8

「廿日ばかりに行ひたる夢に、わが頭をとりおろして額を分く、と見る。あしよしもえ知らず。
七八日ばかりありて、我腹のうちなる蛇ありきて肝を食む、これを治せむやうは、面に水なむいるべき、と見る。これもあいよしも知らねど、かくしるし置くやうは、かかる身の果てを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや用ゐるまじやと、定めよとなり。」
◆◆二十日ばかり勤行をしたときの夢に、私の髪を切り落とし、額髪を分けて尼姿になる、富みました。この夢の吉凶は私には判断しかねます。それから七、八日たって、私の腹の中の蛇が歩き回って内臓を食べる、これを直す方法は、顔に水を注ぎかけるのが良い、という夢をみました。この夢も良い夢なのか悪い夢なのか分らないけれど、このようにありのままを記しておくわけは、こんなわが身の行く末を見たり聞いたりする人に、夢や仏は信じてよいのか、それとも信じられないかを判断して欲しいからなのです。◆◆


■頭をとりおろして=頭髪を肩のあたりで切り下ろす。尼姿になる。


■「解説」・蜻蛉日記中巻 上村悦子著から
 【ここに二つの夢が出てくる。一つは尼姿になる夢であり、一つはかなりグロテスクな夢である。作者は夢に対して冷静で懐疑的である。そして両方の夢がいったい自分にとって吉夢か、凶夢なのかまったくわからないと言っている。(略)あんな時あんな夢を見たが、なるほど夢をいうものは当るものだ、夢は信じるべきものだと考えるか、いやいやまったく夢などよいかげんなもので信じるに足りないと考えるか、その材料にしてほしいためである。というのである。科学的というか、理知的、近代的な考え方である。
 なおこの夢については、(尼の夢は罪障観念から去勢恐怖の昇華、蛇の夢は性の苦悩の表出という)精神分析学に、あるいは密教の灌頂と結びつけて解する見解もある。】