永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(85)の2

2015年12月06日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の2  2015.12.6

「関の山路、あはれあはれとおぼえて、行く先を見やりたれば、ゆくへも知らず見えわたりて、鳥の二三ゐたると見ゆるものを、しひて思へば釣り舟なるべし、そこにてぞ、え涙はとどめずなりぬる。いふかひなき心だにかく思へば、ましてこと人はあはれと泣くなり。」
◆◆逢坂の関の山路にしみじみ感動を覚えながら、行く手を見渡すと、果てしもなく琵琶湖が眺め渡されて、そこに鳥が二、三羽飛んでいるなあと見えたものは、実は釣舟なのでしょう。そこにきて私は涙がとめどもなく流れるのをどうしようもなくなってしまったのでした。言うに足りない私の心でさえ、これほど感動すのですから、まして一緒に来た他の人は、何と素晴らしいと感じ入って涙を流しているようでした。◆◆


「はしたなきまでおぼゆれば、目も見合わせられず。行く先おほかるに、大津のいとものむつかしき屋どもの中に引き入りにけり。それもめづらかなる心地して行きすぐれば、はるばると浜に出でぬ。来しかたを見やれば、湖づらにならびて集まりたる屋どものまへに、舟どもを岸にならべ寄せつつあるぞいとをかしき。漕ぎ行きちがふ船どももあり。」
◆◆お互いに泣き顔を合わせるのがきまりが悪いので、顔をあわせられません。行先はまだ遠いけれど、車は大津のたいそうむさ苦しい家並みの中に入って行きました。それも私には珍しく感じられて通り過ぎると、はるばると開けた浜に出ました。振り返って通ってきた道を見ると、湖畔に並んでいる一塊の家々の前に、舟をずらりと岸に並べ寄せてあるのが、とても面白い風景でした。湖上を漕いで行き来する舟どもも見えます。◆◆

■こと人=異人、妹か。

■逢坂の関の歴史
大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された[1]。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年12月3日(895年12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。