2013. 5/29 1261
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その53
「忘れ給はぬにこそは、と、あはれに思ふにも、いとど母君の御心のうちおしはからるれど、なかなかいふかひなきさまを、見え聞えたてまつらむは、なほいとつつましくぞありける」
――(浮舟は)大将殿は、わたしのことを忘れてはいらっしゃらないのだ、と、懐かしくもうれしくも思いますにつけても、あれほど私の仕合せを願ってくださった母上のお心の内が、ひとしお偲ばれて、なまじこのような尼姿をお見せしたり、お聞かせしたりするのは、何とも辛いものと思うのでした――
「かの人の言ひつけしことなどを、染めいそぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。断ち縫ひなどするを、『これご覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせ給へば』とて、小袿の単たてまつるを、うたて覚ゆれば、心地あしとて手も触れず臥し給へり」
――あの紀伊守の頼んで行った仕事などを、急いで染めたりして準備しているのを見ますと、浮舟は、これは自分の法事の支度かと、不思議な気がしますが、とてもそのような事は口に出せません。裁ったり縫ったりしていますと、尼君が、「これを手伝ってください。たいそう裁縫がお上手ですから」といって、小袿(こうちぎ)の単(ひとえ)を差し上げますのを、われとわが法事の料と思いますと妙な気がして、気分が悪いとおっしゃって、手にも触れず臥しておしまいになります――
「尼君、いそぐことをうち棄てて、『いかが思さるる』など思ひみだれ給ふ。紅に桜の織物の袿重ねて、『御前にはかかるをこそ奉らすべけれ。あさましき墨染なりや』と言ふ人あり」
――尼君は急ぎの仕事もうち捨てて、「いかがでしょう、ご気分は」と、心配していらっしゃる。紅に桜の織物の袿を重ねて、「これこそ姫君がお召しになるべきですのに、墨染とはほんとうに情けない」と言う人がいます――
「『あまごろもかはれる身にやありし世のかたみの袖をかけてしのばむ』と書きて、いとほしく、亡くもなりなむのちに、ものの隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、うとましきまで隠しける、とや思はむ、などさまざま思ひつつ、『過ぎにし方のことは、絶えて忘れ侍りにしを、かやうなることを思しいそぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ』とおほどかにのたまふ」
――(浮舟の歌)「尼衣に変わった今の身に、昔用いた衣を重ねて、当時を偲んでみようかしら」などと書いて、お気の毒にも、私が死んだ後にでも、何ごとも知られてしまう世の中ですから、あれこれ聞き合せて、よくもこうまでひた隠しに隠していたものよ、と、尼君は思うであろうと、さまざまに思い乱れて、浮舟は、「過ぎ去ったことはすっかり忘れておりましたのに、こうした華やかな衣裳のご用意をなさるのを見ていますと、何とはなしに悲しくなります」とおっとりとおっしゃいます――
◆ひねらせ給へば=「ひねる」は単衣を2枚重ねて一枚のように見せて仕立てる用語。
では5/31に。
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その53
「忘れ給はぬにこそは、と、あはれに思ふにも、いとど母君の御心のうちおしはからるれど、なかなかいふかひなきさまを、見え聞えたてまつらむは、なほいとつつましくぞありける」
――(浮舟は)大将殿は、わたしのことを忘れてはいらっしゃらないのだ、と、懐かしくもうれしくも思いますにつけても、あれほど私の仕合せを願ってくださった母上のお心の内が、ひとしお偲ばれて、なまじこのような尼姿をお見せしたり、お聞かせしたりするのは、何とも辛いものと思うのでした――
「かの人の言ひつけしことなどを、染めいそぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。断ち縫ひなどするを、『これご覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせ給へば』とて、小袿の単たてまつるを、うたて覚ゆれば、心地あしとて手も触れず臥し給へり」
――あの紀伊守の頼んで行った仕事などを、急いで染めたりして準備しているのを見ますと、浮舟は、これは自分の法事の支度かと、不思議な気がしますが、とてもそのような事は口に出せません。裁ったり縫ったりしていますと、尼君が、「これを手伝ってください。たいそう裁縫がお上手ですから」といって、小袿(こうちぎ)の単(ひとえ)を差し上げますのを、われとわが法事の料と思いますと妙な気がして、気分が悪いとおっしゃって、手にも触れず臥しておしまいになります――
「尼君、いそぐことをうち棄てて、『いかが思さるる』など思ひみだれ給ふ。紅に桜の織物の袿重ねて、『御前にはかかるをこそ奉らすべけれ。あさましき墨染なりや』と言ふ人あり」
――尼君は急ぎの仕事もうち捨てて、「いかがでしょう、ご気分は」と、心配していらっしゃる。紅に桜の織物の袿を重ねて、「これこそ姫君がお召しになるべきですのに、墨染とはほんとうに情けない」と言う人がいます――
「『あまごろもかはれる身にやありし世のかたみの袖をかけてしのばむ』と書きて、いとほしく、亡くもなりなむのちに、ものの隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、うとましきまで隠しける、とや思はむ、などさまざま思ひつつ、『過ぎにし方のことは、絶えて忘れ侍りにしを、かやうなることを思しいそぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ』とおほどかにのたまふ」
――(浮舟の歌)「尼衣に変わった今の身に、昔用いた衣を重ねて、当時を偲んでみようかしら」などと書いて、お気の毒にも、私が死んだ後にでも、何ごとも知られてしまう世の中ですから、あれこれ聞き合せて、よくもこうまでひた隠しに隠していたものよ、と、尼君は思うであろうと、さまざまに思い乱れて、浮舟は、「過ぎ去ったことはすっかり忘れておりましたのに、こうした華やかな衣裳のご用意をなさるのを見ていますと、何とはなしに悲しくなります」とおっとりとおっしゃいます――
◆ひねらせ給へば=「ひねる」は単衣を2枚重ねて一枚のように見せて仕立てる用語。
では5/31に。