落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

I don't know anymore.

2014年11月20日 | movie
『デビルズ・ノット』

1993年5月5日、アーカンソー州ウェスト・メンフィスの森で3人の8歳男児が遺体で発見された。まもなく町の不良少年であるダミアン・エコールズ(ジェームズ・ウィリアム・ハムリック)、ジェイソン・ボールドウィン(セス・メリウェザー)、ジェシー・ミスケリー・Jr.(クリストファー・ヒギンズ)が容疑者として逮捕され、確たる物的証拠も見つからないまま裁判が始まるのだが、捜査と報道に疑問を抱いたロン・ラックス(コリン・ファース)はプロボノで3人の弁護団に協力を申し出る。
アメリカで社会現象にもなった冤罪事件「ウェスト・メンフィス3」(Wikipedia)を名匠アトム・エゴヤンが映画化。

ぐり大好きエゴヤンの最新作。『秘密のかけら』『アララトの聖母』(感想続き)『スウィート ヒアアフター』に続いて実在の事件を題材にした物語。たぶんこれがいちばん実際の事件に近い表現になってるんじゃないかと思います。脚本も初めて他の人のシナリオ使ってるみたいですし。これまでの3本は明らかになってない部分の描写があったりしてだいぶ翻案化されてる。
でも一種独特のモヤッと感は相変わらずです。この人の描くカタストロフっていつも、観客が期待してない方向からくるんだよね。こういう事件もの、裁判ものの映画ってどうしても、観客はカタストロフのくる方向に無意識に身構えてしまう。日々あらゆるメディアの情報のシャワーを浴びている人間にとって避けがたい反応ではあるんだけど、エゴヤンがスクリーンの奥から投げかけてくるメッセージは常に、その観客の盲点を突いてくる。

このウェスト・メンフィス3事件は早い段階でメディアの注目を集め、ドキュメンタリー映画は4本もつくられてるし本も何冊か出ている。事件発生から20年を経てもなお未解決であるにも関わらず、既に警察の捜査は終了しているという非常に特異な事件でもある。
だからこの映画でも明確な結末は描かれていない。基本的に逮捕された3人の少年は冤罪だったという観点で描かれてはいるものの、他に真犯人を追求するまでには至らずに物語は終わっている。犯罪もの、裁判ものの映画としては消化不良ともいえるんだけど、この映画で大事にしているのはそこじゃないんだよね。
“百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ”。たとえ何人の真犯人を逃しても、無実の人を罪人にしてはいけない。裁判の基本中の基本。どうしてか誰もが忘れがちな真理だ。この映画では、悪意のないオーディエンスが寄ってたかって3人の少年たちを犯人に仕立てようと演じる茶番の軽薄な空虚さと、それにふりまわされる関係者の苦悩の対比が最も大きなテーマになっている。
とくに登場人物の容貌や挙措動作、口調はかなり実在の本人に似せていてほぼ「そっくりさんショー状態」だというから、そういう意味ではシリアスに滑稽さを演出しようとしているし、裁判や報道が些末な状況証拠の立証のみに終始するまま進行していく展開には呆然としてしまう。結局何の真実も議論されることなく3人の子どもの命の代償が問われる司法に司法の意味などない。

実際の事件でも映画でも繰り返し言及される悪魔崇拝による暴力犯罪だが、現実には悪魔崇拝でも狂信的な信仰でも起こり得る。日本ではオウム真理教事件で多くの人が犠牲になったし、神戸連続児童殺傷事件の少年Aが悪魔崇拝を連想させる犯行声明文を書いたことはいまもよく知られている(※Aの犯行と悪魔崇拝の関係は明確でない)。
だが究極的には被疑者の信仰や趣味嗜好そのものは犯罪の証拠にはなり得ない。どれだけ状況証拠が揃っていて目撃証言があっても、物的証拠や実行犯にしか知り得ない事実が出てこない限り、殺人を立証することなど不可能だし、なによりも大切なことは無実の人を罪人にしてはいけないという原則であって、とりあえず怪しい人間に手っ取り早く犯人役を押しつけることでは決してない。
それなのになぜか多くの冤罪事件では、被疑者の無実を証明することではなく、いったん被疑者とされた人物をいかにして真犯人に固めるかということに人の関心が集中してしまう。ほかに誰かいるかもしれないという当り前に重要なはずの可能性が、いつの間にかどこか遠くに追いやられてしまう。むしろそうした現象の方が、犯罪そのものよりも怖いと感じる。

逮捕・起訴されたダミアン、ジェイソン、ジェシーは有罪が確定し服役したが、支持者の努力により無実を証明する証拠が次々に見つかり、2011年に特殊な司法取引によって釈放されている。
しかし逮捕時まだティーンエイジャーだった彼らは既に30代になっていた。青春のいちばん楽しいはずの時期を、彼らは刑務所で逸してしまった。それだけではない。小さな男の子を3人も残虐に暴行し殺害した真犯人は罪に問われることもなく平穏に暮らしているのだ。
人々がヘヴィメタ好きでスティーブン・キングの愛読者だというだけで罪もない少年たちを吊るし上げ袋叩きにしている間、彼は何を思ってその狂気のパニックを眺めていたのだろう。貧困層が多くペンテコステ派というキリスト教原理主義が信じられている地域社会が、この不幸な結び目(knot=ノット)の背景になったのだとはぐりは思いたくない。
恐ろしいことが起こったとき、馴染みのないもの、違和感のあるものに自動的にその恐怖を転嫁したがる心理は、おそらくはどこの誰にでも起こり得る。もしかしたらそれは生き物としての生存本能なのかもしれない。
大切なことは、人間の心にはそういう凶器があることを忘れないでいることではないだろうか。

ジョニデ、エディ・ヴェダーらも支援し続けた冤罪死刑囚らが18年間投獄の後、遂に釈放!(2011年の釈放時の報道)




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