落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

犠牲者という名の娼婦に生まれて

2010年01月24日 | book
『家のない少女たち 10代家出少女18人の壮絶な性と生』 鈴木大介著

<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=479666632X&linkId=788b54e81fee51462637ee0b8509796f&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>

「格差社会」「下流社会」なんて言葉が生まれて、そしてあっという間に現実社会のありきたりの一面として、誰の注意もひかなくなったのはいつのころからだろう。
新しい言葉は生まれたときだけは世間の耳目を集めるけど、その言葉で何かが変わったり、事態が転換したりなんて奇跡はまずそうそうは起こらない。

この本のあとがきには、「日本の母子家庭の絶対貧困率(世帯収入が生活の最低水準を下回る率)は3割以上」という凄まじい数字が書かれている。
具体的にどういうことか?と思って数字を調べてみたけど、日本における「絶対的貧困」を定義する数字はちょっとわからなかった。ちなみに06年に国が認めた「貧困線」は年収114万円。当時、この年収を下回る母子家庭を含むひとり親世帯は54.3%(相対的貧困率)。経済協力開発機構(OECD)加盟30ヶ国中最悪の数字である。
子どもをひとりで育てている家の半数以上が、114万円に満たない年収で暮している国、日本。
児童虐待や育児放棄、子どもの非行の原因のすべてが貧困にある、とはいえない。もちろん。
だが、貧困も含め多くの問題を抱えた子育て世帯を支える福祉システムが極端に遅れた日本という国では、安心して住める我が家を失った子どもたちには行き場というものがまったく用意されていないのも事実なのだ。

たとえば、日本中どこの児童養護施設も定員状態がかなり長い間続いている。
施設ではまず、生命の危機に関わる低年齢の子ども(小学生以下)が優先されるので、10代以上の子どもはそれだけで不利になる。かつ、施設も公的機関であり職員は公務員であるからして、収容される子どもも「施設に利益になる子」の方が優先して選ばれることになる。早期に引き取り先がつく見込みのある子や、扱いやすい子、学校の成績もふくめ大人の評価が高い子は施設にとって「おいしい子」である。つまり、年齢が高く引き取り先もなさそうな、費用対効果の高くない子は施設の方でも眼中にないらしい。
親に虐待された挙句に殺された子は事件化すれば報道されて世間の同情を買うことができるが、殺される一歩手前で逃げきれた子には誰ひとり目もくれない。救出に成功した福祉関係者にとっても、それは長い長い闘争の始まりに過ぎない。
虐待された子は他者や社会への信頼感をいっさい失ってしまっているケースが多い。簡単にいえば、健全な人間関係を築く能力がちゃんと育てられていないために、大人にとっては扱いにくい子どもになってしまっている。インスタント食品や菓子などのジャンクフードしか与えられなかった子にとっては、施設で出される手づくりの食事は食べ物には見えないし、彼らの心を癒そうとする職員の態度もただ「見当違い」に「ウザい」だけとしか思えないこともある。幼いころから暴力を受け続けた子にはADHD(注意欠陥/多動性障害)やLD(学習障害)などの障害を抱えた子も多いが、障害児専用の施設に収容するには、かなり重度の障害でなければ認められない。
しかも、日本の行政には基本的に子どもは親元に戻すべき、家族は復元されるべきものという基本方針があるため、どんなに子どもが抵抗しても親さえ同意していれば子どもは親に引き渡されてしまう。
たとえその家が、子どもにとってどんな地獄であっても、行政には親子を引き裂いてまで子どもをかばうだけの権力はないのだ(司法にはあるが現実にそれが行使されるのはまれなことである)。

施設にもいられない、家に帰れば親に殺されかねない子に残された道は家出しかない。
実は女の子の場合なら、民間団体が運営する緊急避難所がいくつか存在している。そこへ行けば、一定期間は安心して眠る家と食事が与えられ、自立して生活するための法的な支援を受けることができる。
だが不思議なことに、インターネット上には援交客をつかまえるだけの情報は氾濫しているのに、家出少女たちにとってそうしたシェルターの情報は「眼中にない」らしい。
彼女たちからみれば、親も児童福祉施設も民間シェルターも、大人はみんな「敵」なのだろうか。
しかし彼女たちも年をとれば「大人」になる。家出「少女」でいられるのはほんの短い間でしかない。でも、そんなことに気づかないから、少女は少女なのだろう。そんなことを知っていられれば、彼女は既に「少女」ではないのだろう。

家を捨て、親を捨て、町で知らない男を拾って売春して暮す以外に生きる術をもたない子どもたち。
彼女たちの選択は決して正しくない。
でも「あんた間違ってるよ」などとは誰にもいえない。
それが、今の日本の現実だとしかいえない。

ポラリスプロジェクト連続セミナー「子どもの性の商品化を止められるか」第10回
講師は著者の鈴木大介氏。2月27日(土)、港区にて。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿