『フロント・ランナー』 パトリシア・ネル・ウォーレン著 北丸雄二訳
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ときどき拝読しているブログ隔数日刊─Daily Bullshitの著者でコラムニストでありジャーナリストでもある北丸雄二氏の翻訳書。
以前から読んでみたかったんだけど、映画化の噂があったので映画を観てから読むつもりで長年放置していた。映画は原作を読まずに観る主義なので。ところが噂ばっかりで何年経っても実現しない。やはりスポーツ界における同性愛を描いた『二遊間の恋』と同じく、常にまことしやかに映画化が噂されるのにいっこうに撮影が始まらないベストセラー。
読んでみて、うん、これはちょっと現実的にムリあるな、と思った。
とりあえずオリンピックが舞台になっていることと、アメリカ国内だけでなくヨーロッパ各国の競技会のシーンがあること、おまけに舞台が70年代になっていること、この3点でこの映画は最低でも予算5000万ドル(ハリウッドスターが出演するとしてそのギャラを除く)はかかるだろう。ロケを全部北米で済ませてVFXでカバーしたとしてもそう節約できる映像ではない。これだけの投資をしてしまうと公開規模は全米700館クラスかそれ以上でなければ回収できない。まず予算的に相当リスキーな企画である。
けどそれよりもなによりもネックになるのは、1974年に発表されたこの小説の中味が、現在ではいささか古くなってしまっていることだ。
出版当時はかなり売れたというし、今ではアメリカのゲイ小説の古典とも呼ばれ多くの読者に愛され読み継がれた人気小説ではあるのだが、80年代にゲイピープルを襲ったエイズ禍やその後のアメリカ社会の急激な保守化は、この小説のもつ希望に溢れた健康的な世界観を色褪せたファンタジーにしてしまうのにじゅうぶんだった。70年代はヒッピーの時代で、ゲイライツ運動の時代で、エイズなんてまだ誰もしらなかったし、21世紀に至るアメリカ社会の変遷がここまで暴力的になろうとは誰も想像なんかしていなかったのだ。
だが個人的には、この小説が古くなってしまったいちばんの理由は、そうした時代の変化ではないと思う。
この物語があまりにもシンプルすぎる、構造が弱過ぎるところが、このベストセラーをしてアメリカ文学史に残る傑作となり得なかった最大の要因ではないだろうか。
主人公はハーランというクローゼット・ゲイ。彼は少年のころから同性に惹かれる性向をもっていたが、厳格な両親の教育のせいでその感情を自分でも理解できないまま大人になり、地方の私立大学で陸上競技のコーチをつとめるようになった。そこへ若く美しく才能溢れるビリーが現れた。ビリーもまたゲイだった。当然のようにふたりはひと目で惹かれあう。ハーランは懸命に自制するのだが、最終的にふたりは結ばれ、結婚する。ビリーはオリンピック代表選手になり、ハーランは身を呈して夫を支える。しかし幸せは長くは続かなかった。
かなり乱暴に省略するとこんな話だ。もちろん当時アメリカ各州のソドミー法に対し最高裁で違憲判決が出されたことや、今とは比べ物にならないほど厳しかったアマチュア規定などといった背景もストーリーに関わっては来る。けど分量がぜんぜん足りない。ストーリーの主軸に対して、物語の世界観を支える要素が薄すぎる。
たとえば、LGBT専門の人権弁護士として活躍するビリーの父や、ゲイライツ運動に理解のある大学経営者プレスコット氏の人物造形はあまりにも平板で、なんだか都合のいいドラえもんみたいだ。ビリーの父は法律というポケット、プレスコット氏はお金と親切というポケットをそれぞれ持っている。
ハーランは大学のコーチなのに、ビリーたちトラック競技以外の選手を教えていないし、物語にもトラック競技以外の競技はまったく出てこない。陸上、それもトラック競技への愛情はすごく感じる小説なのだが、著者自身が長距離ランナーであるせいなのか、どうも視点が一面的で物語が直線的すぎるように感じられて仕方がない。主人公たちの目線とは別な、もっと客観的な要素も必要だったのではないかと思う。それがあれば、もっと物語に奥行きが出てリアリティもメッセージ性も増したはずだ。
まあそういう欠点はあるにせよ、ビリーの情熱的な誠実さ─アスリートとしての誠実さ、ゲイとしての誠実さ─の清々しさは単純に美しいと思うし、ハーランのクローゼットとしての葛藤は悲劇的で非常に心を動かされたし、ベストセラーだけあって「読ませる」本ではあると思います。
もし今後映画化できることになったら、21世紀的にこの話のどこをどんな風に膨らませるのかもすごく気になる。楽しみにしてる人はたくさんいるだろうし、ぐりも観てみたいとは思います。
この小説には20年後に書かれた続編もあって、今そっちも読んでます。
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ときどき拝読しているブログ隔数日刊─Daily Bullshitの著者でコラムニストでありジャーナリストでもある北丸雄二氏の翻訳書。
以前から読んでみたかったんだけど、映画化の噂があったので映画を観てから読むつもりで長年放置していた。映画は原作を読まずに観る主義なので。ところが噂ばっかりで何年経っても実現しない。やはりスポーツ界における同性愛を描いた『二遊間の恋』と同じく、常にまことしやかに映画化が噂されるのにいっこうに撮影が始まらないベストセラー。
読んでみて、うん、これはちょっと現実的にムリあるな、と思った。
とりあえずオリンピックが舞台になっていることと、アメリカ国内だけでなくヨーロッパ各国の競技会のシーンがあること、おまけに舞台が70年代になっていること、この3点でこの映画は最低でも予算5000万ドル(ハリウッドスターが出演するとしてそのギャラを除く)はかかるだろう。ロケを全部北米で済ませてVFXでカバーしたとしてもそう節約できる映像ではない。これだけの投資をしてしまうと公開規模は全米700館クラスかそれ以上でなければ回収できない。まず予算的に相当リスキーな企画である。
けどそれよりもなによりもネックになるのは、1974年に発表されたこの小説の中味が、現在ではいささか古くなってしまっていることだ。
出版当時はかなり売れたというし、今ではアメリカのゲイ小説の古典とも呼ばれ多くの読者に愛され読み継がれた人気小説ではあるのだが、80年代にゲイピープルを襲ったエイズ禍やその後のアメリカ社会の急激な保守化は、この小説のもつ希望に溢れた健康的な世界観を色褪せたファンタジーにしてしまうのにじゅうぶんだった。70年代はヒッピーの時代で、ゲイライツ運動の時代で、エイズなんてまだ誰もしらなかったし、21世紀に至るアメリカ社会の変遷がここまで暴力的になろうとは誰も想像なんかしていなかったのだ。
だが個人的には、この小説が古くなってしまったいちばんの理由は、そうした時代の変化ではないと思う。
この物語があまりにもシンプルすぎる、構造が弱過ぎるところが、このベストセラーをしてアメリカ文学史に残る傑作となり得なかった最大の要因ではないだろうか。
主人公はハーランというクローゼット・ゲイ。彼は少年のころから同性に惹かれる性向をもっていたが、厳格な両親の教育のせいでその感情を自分でも理解できないまま大人になり、地方の私立大学で陸上競技のコーチをつとめるようになった。そこへ若く美しく才能溢れるビリーが現れた。ビリーもまたゲイだった。当然のようにふたりはひと目で惹かれあう。ハーランは懸命に自制するのだが、最終的にふたりは結ばれ、結婚する。ビリーはオリンピック代表選手になり、ハーランは身を呈して夫を支える。しかし幸せは長くは続かなかった。
かなり乱暴に省略するとこんな話だ。もちろん当時アメリカ各州のソドミー法に対し最高裁で違憲判決が出されたことや、今とは比べ物にならないほど厳しかったアマチュア規定などといった背景もストーリーに関わっては来る。けど分量がぜんぜん足りない。ストーリーの主軸に対して、物語の世界観を支える要素が薄すぎる。
たとえば、LGBT専門の人権弁護士として活躍するビリーの父や、ゲイライツ運動に理解のある大学経営者プレスコット氏の人物造形はあまりにも平板で、なんだか都合のいいドラえもんみたいだ。ビリーの父は法律というポケット、プレスコット氏はお金と親切というポケットをそれぞれ持っている。
ハーランは大学のコーチなのに、ビリーたちトラック競技以外の選手を教えていないし、物語にもトラック競技以外の競技はまったく出てこない。陸上、それもトラック競技への愛情はすごく感じる小説なのだが、著者自身が長距離ランナーであるせいなのか、どうも視点が一面的で物語が直線的すぎるように感じられて仕方がない。主人公たちの目線とは別な、もっと客観的な要素も必要だったのではないかと思う。それがあれば、もっと物語に奥行きが出てリアリティもメッセージ性も増したはずだ。
まあそういう欠点はあるにせよ、ビリーの情熱的な誠実さ─アスリートとしての誠実さ、ゲイとしての誠実さ─の清々しさは単純に美しいと思うし、ハーランのクローゼットとしての葛藤は悲劇的で非常に心を動かされたし、ベストセラーだけあって「読ませる」本ではあると思います。
もし今後映画化できることになったら、21世紀的にこの話のどこをどんな風に膨らませるのかもすごく気になる。楽しみにしてる人はたくさんいるだろうし、ぐりも観てみたいとは思います。
この小説には20年後に書かれた続編もあって、今そっちも読んでます。
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