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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

バイバイ・ベイビー

2006年06月27日 | movie
『ある子供』
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以前、幼児教育関連の教材やTV番組の仕事をしていたとき、「子供」という表記はご法度だった。
「供」という字には侮蔑的な意味があり人道的観点から好ましい表現ではないとされるため、必ず平仮名で「こども」か、あるいは「子ども」と書くように教えられた。以来ずっと「子ども」「こども」と書くように注意している。

『ある子供』の冒頭、恋人ソニア(デボラ・フランソワ)が生んだばかりの赤ん坊を、主人公ブリュノ(ジェレミー・レニエ)は気楽に闇組織に売り飛ばしてしまう。映画がこの人身売買のエピソードから始まるため、ついタイトルの“子供”がふたりの赤ん坊ジミーのことを指しているように解釈されがちだが、実はそうではない。子どもなのはブリュノの方だ。彼は我が子を売るという行動をきっかけにして、まるで我が子に導かれるように、少年時代と決別する運命を辿り始める。その過程を丁寧に淡々と描いたのが『ある子供』という物語である。

ブリュノはたまたまみみっちいチンピラとして描かれているが、実際に初めて父親となる男性はみな、最初から“父親”“大人”としての自覚をもってはいないのではないだろうか。ブリュノがみるからにイケてないのは、単純な映画的ギミックでしかない。
女性は約10ヶ月間自分の身体の中で子どもを育てているから、子どもが生まれてきたときには親の自覚のようなものをある程度自然に身につけている。だがそうした肉体的なつながりを直接もたない男性にとって、赤ん坊は突然出現した“他人”でしかない。しばしばその“他人”は男性の恋人や妻の愛情を奪い、ふたりの邪魔をする。生活の重荷になる。人生の上に大きな責任を負わせてくる。
しかしそうしたものを背負って初めてわかることもある。自分が何者でどこへ向かうべきなのか、明確な判断を迫られるようにもなる。負わされたものの重みによって、改めて自分が親であり大人であることを発見する人もいる。

ブリュノが暴力的なギャングなんかではなくこそ泥やかっぱらいで日銭を稼ぐただの不良なだけに、映画自体にもそれほど深刻なシーンはない。ブリュノ自身も決して乱暴な人間ではない。アタマの具合はややユルそうだが(爆)、基本的には義理堅く優しいところもある。ある意味ではかなり合理的なものの考え方もするし、判断は素早い。
でも観ていて怖いのは、おそらくこの映画に描かれているような不良は現実にもごろごろいて、彼らのリアルワールドでは映画のようにスマートに物事は流れてはいないだろうということを想像させるところだ。ブリュノとソニアの暮らしぶりはみていてヒヤヒヤするほど危ういが、それでも彼らはどちらかといえばゼンゼン運がいい方なのではないだろうか。世間の不良少年たちのなかには、もっともっと悲劇的な運命をたどっていく子どもたちもたくさんいるだろう。

『ロゼッタ』に続いて二度めのパルムドールをこの作品で獲得したダルデンヌ兄弟だが、ぐりは旧作を1本も観ていない。なぜか今まで観てなかった。いつも観よう観ようと思っているうちに上映が終わってしまう。
音楽がいっさいなかったり、1シーン1カットのドキュメンタリー風の映像なんかもけっこう好みだったので、機会があれば他のも観たいです。とりあえず『ロゼッタ』と『息子のまなざし』をチェックです。