『サラーム・パックス バグダッドからの日記』サラーム・パックス著/谷崎ケイ訳
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ぐりはふだんウェブではBlogは国内外ぼちぼちみる方だけど、いわゆるブログ本なるものはほとんどまったく読まない。
Blogは日記なのでリアルタイムで著者の個人感情や社会状況が書かれていて、リアルタイムで読むのがいちばん価値があるからだ。無論中にはリアルタイムでなくても情報として便利なBlogもいっぱいあるけど、そういうのも含めて、情報量からいっても、Blogはリアルタイムで読むのがいちばんいいと思ってます。ぐり日記も一応そのつもりで書いてるし(えっ?)。
なのでぐりとしてはこの『サラーム・パックス』が手にとって読んだ最初のブログ本とゆーことになる。
とはいえこれは戦時下のバグダッドに住む一般の青年の日記であり、いわば21世紀の「アンネの日記」にもあたるわけで、リアルタイムでなくても充分に読む意味のある本です。というか、ある程度時間が経って世間の耳目がイラクから離れかけている今だからこそ意味があるかもしれない、ともいえる。
この本はブログ本なのでもちろん“サラーム・パックス”はハンドルネームである。サラームはアラビア語で、パックスはラテン語でそれぞれ「平和」を意味している。アラビア語圏で「こんにちは」を「アッサラーム(直訳:あなたのもとに平安あれ)」といったり、社会科で古代ローマ時代に「パックス・ロマーナ」と呼ばれる時期があったことは習ったはずなので、ごくわかりやすい易しいハンドルネームだ。
サラームは2002年当時29歳。共産党支持者でフセイン政権下で職を追われた元学者の両親と幼少時代の大半を海外で暮したいわゆる帰国子女で、アラビア語以外に英語とドイツ語を話す。Blogは英語で書かれていた。大卒のインテリで職業はコンピューター関係、お酒が好きで同性愛者(イスラム圏にももちろんゲイはいる)、ハリウッド映画やヨーロッパ・アメリカのミュージシャンのCDが好き。たとえばレディオヘッドなんかぐりも持ってる同じアルバムを聴いている。お気に入りのTV番組は『未来少年コナン』。BBCやCNNの放送だってがっつりチェックしている。そんでニュースのここが違う、どれがマチガイ、といちいちぷんすかしている。
よーするにぐりやあなたのすぐ隣にいたっておかしくない、ゼンゼンそこいらにごろっごろいるフッツーのにいちゃんなのだ。どこも我々と変わったところはない。貧しくて文化程度が低くて無教養で狂信的で無知蒙昧で洗脳された従順な大衆といった、国際社会で一般的なイラク人のイメージとはムチャクチャかけ離れている。もしどーかして知りあえたら仲良くなれそうだ(笑)。トシも同じくらいだし、仕事もどーも同業らしいし。
てゆーかそういう“イラク人の典型”みたいなイメージはいわば海外メディアが一方的に自分たちの偏見でつくりあげた幻想でしかなかったのだ。考えるまでもなくものすごく当然のことなんだけど、サラームみたいなホントの一般市民の声が、なかなかメディアから伝えられなかったのも事実である。残念なことに。
つってもサラームはいわゆる知識階級だから、イラク市民のうちでもマイノリティの部類にはいるのかもしれないけどね。
この本に収録されているのは2002年9月から翌年6月までの日記(Blogは04年まで続いていた模様)。
そこにはバグダッドがじわじわと“戦場”と化していく過程がまさにリアルタイムで書かれている。まず経済活動が停滞し会社から給料が出なくなる。異様なインフレが加速する。物資が不足する。流言蜚語が飛び交う。電気や水道や電話やTVやインターネットといったインフラも不安定になる。周辺諸国との国境が閉鎖される。
だがおどろくべきことに、サラーム一家も含め多くのバグダッド市民は街にとどまり、逃げようとしなかった。爆撃が始まるという事実を知っていながら、どこかで我がこととして現実を受けとめきれていないような、そんな独特の心理を伺わせる。彼らは砲弾の飛び交う空の下で、親族同士固まって静かに息をひそめて暮した。電力会社や水道局も仕事を放棄したりはしなかった。食料品店もレストランもカフェもどうにかこうにか営業していた。逃げ出したのは政府高官や利に聡い両替商たちだった。
海外メディアの操作された報道ではイマイチ不可解だったことが、この本を読めばハレバレとカンタンにわかってきてしまう。
イラク市民はそもそもフセイン政権をまったく支持してなんかいなかった。だいたいイラクはイスラム圏でもリベラルな方で、ジハードがどーのこーの自爆テロやら拉致監禁がどーたらなんという過激な原理主義テロリストはもともと国内にはいない。そーゆーのはほとんど外国人だ。だからアメリカの介入は現実問題として必要不可欠なものとして理解はしている。けど連合国軍の武力攻撃や、彼らの侵略はいっさいお呼びではない。当り前だ。言葉もろくに通じず自国についての知識もさっぱりない外国人の兵隊どもに、我が物顔で街をひっかきまわされつつきまわされ小突きまわされて気持ちがいい人間なんかいるわけがない。いたら相当なマゾだ。
戦争にしたってそうだ。フセイン政権打倒のために、ほんとうに戦争は必要だったのだろうか。他にも解決策はあったんじゃないだろうか。もし万一なかったとしても、戦争に踏みきる前にすべき議論が充分になされたとは思えない。少なくともイラク市民はそうは思っていない。そりゃそうだ。罪もない一般市民がたくさん巻き添えになっているのに、「はいそうですか」で納得できる人間だってどこにもいない。
サラームの日記を読んでいれば、イラクをよく知りもしない他人にごちゃごちゃと干渉されてどれだけ当のイラク人が不愉快な思いをしたかが身にしみてわかってくる。
実際は不愉快などという生易しいものではないのだろうが、戦時下という特殊な状況に置かれたことのない人間がちゃんと想像出来る感覚としてはそれが限界かもしれない。ごめんなさい。
彼らの不愉快さのほんのカケラにすぎないかもしれないけど、今も感じている居心地の悪さ、やり場のない憤懣は、すごくよくわかります。この本を読めば、それは確実にわかる。
前にも書いたけどこの本は映画化も決まってるみたいです。楽しみ。
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ぐりはふだんウェブではBlogは国内外ぼちぼちみる方だけど、いわゆるブログ本なるものはほとんどまったく読まない。
Blogは日記なのでリアルタイムで著者の個人感情や社会状況が書かれていて、リアルタイムで読むのがいちばん価値があるからだ。無論中にはリアルタイムでなくても情報として便利なBlogもいっぱいあるけど、そういうのも含めて、情報量からいっても、Blogはリアルタイムで読むのがいちばんいいと思ってます。ぐり日記も一応そのつもりで書いてるし(えっ?)。
なのでぐりとしてはこの『サラーム・パックス』が手にとって読んだ最初のブログ本とゆーことになる。
とはいえこれは戦時下のバグダッドに住む一般の青年の日記であり、いわば21世紀の「アンネの日記」にもあたるわけで、リアルタイムでなくても充分に読む意味のある本です。というか、ある程度時間が経って世間の耳目がイラクから離れかけている今だからこそ意味があるかもしれない、ともいえる。
この本はブログ本なのでもちろん“サラーム・パックス”はハンドルネームである。サラームはアラビア語で、パックスはラテン語でそれぞれ「平和」を意味している。アラビア語圏で「こんにちは」を「アッサラーム(直訳:あなたのもとに平安あれ)」といったり、社会科で古代ローマ時代に「パックス・ロマーナ」と呼ばれる時期があったことは習ったはずなので、ごくわかりやすい易しいハンドルネームだ。
サラームは2002年当時29歳。共産党支持者でフセイン政権下で職を追われた元学者の両親と幼少時代の大半を海外で暮したいわゆる帰国子女で、アラビア語以外に英語とドイツ語を話す。Blogは英語で書かれていた。大卒のインテリで職業はコンピューター関係、お酒が好きで同性愛者(イスラム圏にももちろんゲイはいる)、ハリウッド映画やヨーロッパ・アメリカのミュージシャンのCDが好き。たとえばレディオヘッドなんかぐりも持ってる同じアルバムを聴いている。お気に入りのTV番組は『未来少年コナン』。BBCやCNNの放送だってがっつりチェックしている。そんでニュースのここが違う、どれがマチガイ、といちいちぷんすかしている。
よーするにぐりやあなたのすぐ隣にいたっておかしくない、ゼンゼンそこいらにごろっごろいるフッツーのにいちゃんなのだ。どこも我々と変わったところはない。貧しくて文化程度が低くて無教養で狂信的で無知蒙昧で洗脳された従順な大衆といった、国際社会で一般的なイラク人のイメージとはムチャクチャかけ離れている。もしどーかして知りあえたら仲良くなれそうだ(笑)。トシも同じくらいだし、仕事もどーも同業らしいし。
てゆーかそういう“イラク人の典型”みたいなイメージはいわば海外メディアが一方的に自分たちの偏見でつくりあげた幻想でしかなかったのだ。考えるまでもなくものすごく当然のことなんだけど、サラームみたいなホントの一般市民の声が、なかなかメディアから伝えられなかったのも事実である。残念なことに。
つってもサラームはいわゆる知識階級だから、イラク市民のうちでもマイノリティの部類にはいるのかもしれないけどね。
この本に収録されているのは2002年9月から翌年6月までの日記(Blogは04年まで続いていた模様)。
そこにはバグダッドがじわじわと“戦場”と化していく過程がまさにリアルタイムで書かれている。まず経済活動が停滞し会社から給料が出なくなる。異様なインフレが加速する。物資が不足する。流言蜚語が飛び交う。電気や水道や電話やTVやインターネットといったインフラも不安定になる。周辺諸国との国境が閉鎖される。
だがおどろくべきことに、サラーム一家も含め多くのバグダッド市民は街にとどまり、逃げようとしなかった。爆撃が始まるという事実を知っていながら、どこかで我がこととして現実を受けとめきれていないような、そんな独特の心理を伺わせる。彼らは砲弾の飛び交う空の下で、親族同士固まって静かに息をひそめて暮した。電力会社や水道局も仕事を放棄したりはしなかった。食料品店もレストランもカフェもどうにかこうにか営業していた。逃げ出したのは政府高官や利に聡い両替商たちだった。
海外メディアの操作された報道ではイマイチ不可解だったことが、この本を読めばハレバレとカンタンにわかってきてしまう。
イラク市民はそもそもフセイン政権をまったく支持してなんかいなかった。だいたいイラクはイスラム圏でもリベラルな方で、ジハードがどーのこーの自爆テロやら拉致監禁がどーたらなんという過激な原理主義テロリストはもともと国内にはいない。そーゆーのはほとんど外国人だ。だからアメリカの介入は現実問題として必要不可欠なものとして理解はしている。けど連合国軍の武力攻撃や、彼らの侵略はいっさいお呼びではない。当り前だ。言葉もろくに通じず自国についての知識もさっぱりない外国人の兵隊どもに、我が物顔で街をひっかきまわされつつきまわされ小突きまわされて気持ちがいい人間なんかいるわけがない。いたら相当なマゾだ。
戦争にしたってそうだ。フセイン政権打倒のために、ほんとうに戦争は必要だったのだろうか。他にも解決策はあったんじゃないだろうか。もし万一なかったとしても、戦争に踏みきる前にすべき議論が充分になされたとは思えない。少なくともイラク市民はそうは思っていない。そりゃそうだ。罪もない一般市民がたくさん巻き添えになっているのに、「はいそうですか」で納得できる人間だってどこにもいない。
サラームの日記を読んでいれば、イラクをよく知りもしない他人にごちゃごちゃと干渉されてどれだけ当のイラク人が不愉快な思いをしたかが身にしみてわかってくる。
実際は不愉快などという生易しいものではないのだろうが、戦時下という特殊な状況に置かれたことのない人間がちゃんと想像出来る感覚としてはそれが限界かもしれない。ごめんなさい。
彼らの不愉快さのほんのカケラにすぎないかもしれないけど、今も感じている居心地の悪さ、やり場のない憤懣は、すごくよくわかります。この本を読めば、それは確実にわかる。
前にも書いたけどこの本は映画化も決まってるみたいです。楽しみ。