『母たちの村』
『砂漠の女ディリー』ワリス・ディリー著/武者圭子訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000K0YH9U&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
最近も「深刻な後遺症のために出産さえ危険な状態になる」としてWHOがアフリカ諸国に警告を発したというニュースがあった女性器切除(いわゆる女子割礼)をモチーフにしたアフリカ映画『母たちの村』。
今も80%の女性が女性器切除を受けているソマリア出身で、国際的にこの因習の廃絶運動を行っているワリス・ディリーの自伝が『砂漠の女ディリー』である。
まずほとんど日本で紹介されることのないアフリカ人監督によるアフリカ映画と、遊牧民出身のスーパーモデルというたいへん珍しい経歴をもつワリスの本だが、両者とも大きなテーマとして女性器切除という残酷な習慣をとりあげている。『母たちの村』の上映館ではワリスの本も売られてました。
女性器切除はアフリカ各国のイスラム社会と海外のアフリカ人社会で4000年以上続いている習慣で、年間に約200万人の少女が施術されるという。方法や施術範囲は地域や部族によって異なるが、女性の性感を奪うことで結婚前の処女性を守り結婚後は身持ちをかたくする目的で行われることと、施術しない女性は不浄だとして結婚できないとみなされる点は共通しているようだ。中国の纏足と同じような習慣といえるかもしれないが(『纏足の靴 小さな足の文化史』)、実は極端な男尊女卑思想に基づく非人道的で暴力的な因習は女性器切除や纏足だけではないそうだ。中東の一部の地域では婚前/婚外交渉をした女性は「名誉の殺人」として身内に焼き殺されるし、インドでは寡婦は亡夫といっしょに生きながら火葬にされるという。
数千年もの間、苛酷な自然環境のもと、深い信仰と伝統に基づいて行われてきた習慣を、現代に生きるよそ者の我々が一方的に批判するのは間違っているかもしれない。
しかしやはりどうしても、こうした習慣は絶対に根絶しなくてはならないと思う。
女性は家畜でもなければ子を生む道具でもない。花嫁として売り飛ばすための商品でもない。過去はどうあれ、今は「人権」と「男女平等」が誰にでも保証されて当り前の時代だ。結婚しようがしまいが、相手に誰を選ぼうが、子どもを生もうが生むまいが、そんなことは誰だって自分で決められて当然だ。
ましてアフリカで行われている女性器切除では、施術がもとで命を落とす少女や妊産婦・胎児が珍しくないこと、多くのケースで術後一生涯後遺症に苦しめられることが医学的にわかっている。誰がなんといおうと即刻やめるべきなのだ。
女性器切除の弊害は医学的な健康被害だけにとどまらない。施術によって女性は自信を失い、性的な関心や恋愛感情に後ろ向きになってしまう。不完全なからだに人工的につくりかえられたために、人として自立すべき自我さえ損なってしまうのだ。これが不幸でなくてなんだというのか。ワリスの本は30代で書かれたものだが、5歳のときに受けた女性器切除につながるエピソードがページの多くに登場する。ひとりの女性の人生にとって、女性器切除はそれほどまでに重いのだ。
だが映画『母たちの村』に描かれるのは女性器切除という悪しき習慣だけではない。
主人公コレ(ファトゥマタ・クリバリ)は女性器切除の後遺症によって二度も死産した経験から、3人めにして帝王切開で生まれた娘(サリマタ・トラオレ)には手術を受けさせていない。それを知った少女たちが手術を拒否して彼女のもとに逃げこんでくるところから物語が始まる。コレは信仰上の習慣「モーラーデ」を盾に少女たちを匿い、身体をはってでも手術を阻止しようとする。彼女の信念は自らの体験に基づいた確固たる意志であり、その意志を通すために逆に信仰を道具にする。
つまり古い伝統的な因習すべてを野蛮だ/未開だとして卑下するのではなく、合理的な意義のある習慣もあれば、時代とともに捨てなくてはならない因習もあり、その取捨選択には「世論に安易に流されることなく、自分自身の頭と心できちんと判断する」という自立した精神が必要であると説いてもいるのだ。
来客や目上の人間を大きなボウルに満たした水でもてなす慎ましい慣わしや、夫の複数の妻たちが互いに姉妹と呼びあいかばいあって暮らすやさしい暮らしぶりの描写も丁寧で、つくり手のアフリカ文化への深い愛情が感じられる。
こうしたそれぞれの習慣は、良くも悪くもいずれ全部が消えていくことだけは間違いないと思う。でも一刻も早くひとりでも多くの犠牲を防ぐためには、世界中の誰もがこの悪習の悲劇を知り、みんなで「それはおかしい」と声を大にしていうしかない。
そのために自ら告発する勇気を持ったアフリカの人たちに深く敬意を表したいと思う。なかなかできることではない。すばらしい。
アフリカに生まれなくてよかったわなんていってる場合なんかじゃない。断じて違う。女として、人として、決して許してはいけないことが、世の中にはあるのだと、ぐりは思う。
ちなみに『母たちの村』は一部でドキュメンタリーという紹介のされ方をしてますが、れっきとしたフィクションです。お間違えのないよーにー。
関連記事:ケニア、対話を通じて伝統を変革
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4794209207&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
『砂漠の女ディリー』ワリス・ディリー著/武者圭子訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000K0YH9U&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
最近も「深刻な後遺症のために出産さえ危険な状態になる」としてWHOがアフリカ諸国に警告を発したというニュースがあった女性器切除(いわゆる女子割礼)をモチーフにしたアフリカ映画『母たちの村』。
今も80%の女性が女性器切除を受けているソマリア出身で、国際的にこの因習の廃絶運動を行っているワリス・ディリーの自伝が『砂漠の女ディリー』である。
まずほとんど日本で紹介されることのないアフリカ人監督によるアフリカ映画と、遊牧民出身のスーパーモデルというたいへん珍しい経歴をもつワリスの本だが、両者とも大きなテーマとして女性器切除という残酷な習慣をとりあげている。『母たちの村』の上映館ではワリスの本も売られてました。
女性器切除はアフリカ各国のイスラム社会と海外のアフリカ人社会で4000年以上続いている習慣で、年間に約200万人の少女が施術されるという。方法や施術範囲は地域や部族によって異なるが、女性の性感を奪うことで結婚前の処女性を守り結婚後は身持ちをかたくする目的で行われることと、施術しない女性は不浄だとして結婚できないとみなされる点は共通しているようだ。中国の纏足と同じような習慣といえるかもしれないが(『纏足の靴 小さな足の文化史』)、実は極端な男尊女卑思想に基づく非人道的で暴力的な因習は女性器切除や纏足だけではないそうだ。中東の一部の地域では婚前/婚外交渉をした女性は「名誉の殺人」として身内に焼き殺されるし、インドでは寡婦は亡夫といっしょに生きながら火葬にされるという。
数千年もの間、苛酷な自然環境のもと、深い信仰と伝統に基づいて行われてきた習慣を、現代に生きるよそ者の我々が一方的に批判するのは間違っているかもしれない。
しかしやはりどうしても、こうした習慣は絶対に根絶しなくてはならないと思う。
女性は家畜でもなければ子を生む道具でもない。花嫁として売り飛ばすための商品でもない。過去はどうあれ、今は「人権」と「男女平等」が誰にでも保証されて当り前の時代だ。結婚しようがしまいが、相手に誰を選ぼうが、子どもを生もうが生むまいが、そんなことは誰だって自分で決められて当然だ。
ましてアフリカで行われている女性器切除では、施術がもとで命を落とす少女や妊産婦・胎児が珍しくないこと、多くのケースで術後一生涯後遺症に苦しめられることが医学的にわかっている。誰がなんといおうと即刻やめるべきなのだ。
女性器切除の弊害は医学的な健康被害だけにとどまらない。施術によって女性は自信を失い、性的な関心や恋愛感情に後ろ向きになってしまう。不完全なからだに人工的につくりかえられたために、人として自立すべき自我さえ損なってしまうのだ。これが不幸でなくてなんだというのか。ワリスの本は30代で書かれたものだが、5歳のときに受けた女性器切除につながるエピソードがページの多くに登場する。ひとりの女性の人生にとって、女性器切除はそれほどまでに重いのだ。
だが映画『母たちの村』に描かれるのは女性器切除という悪しき習慣だけではない。
主人公コレ(ファトゥマタ・クリバリ)は女性器切除の後遺症によって二度も死産した経験から、3人めにして帝王切開で生まれた娘(サリマタ・トラオレ)には手術を受けさせていない。それを知った少女たちが手術を拒否して彼女のもとに逃げこんでくるところから物語が始まる。コレは信仰上の習慣「モーラーデ」を盾に少女たちを匿い、身体をはってでも手術を阻止しようとする。彼女の信念は自らの体験に基づいた確固たる意志であり、その意志を通すために逆に信仰を道具にする。
つまり古い伝統的な因習すべてを野蛮だ/未開だとして卑下するのではなく、合理的な意義のある習慣もあれば、時代とともに捨てなくてはならない因習もあり、その取捨選択には「世論に安易に流されることなく、自分自身の頭と心できちんと判断する」という自立した精神が必要であると説いてもいるのだ。
来客や目上の人間を大きなボウルに満たした水でもてなす慎ましい慣わしや、夫の複数の妻たちが互いに姉妹と呼びあいかばいあって暮らすやさしい暮らしぶりの描写も丁寧で、つくり手のアフリカ文化への深い愛情が感じられる。
こうしたそれぞれの習慣は、良くも悪くもいずれ全部が消えていくことだけは間違いないと思う。でも一刻も早くひとりでも多くの犠牲を防ぐためには、世界中の誰もがこの悪習の悲劇を知り、みんなで「それはおかしい」と声を大にしていうしかない。
そのために自ら告発する勇気を持ったアフリカの人たちに深く敬意を表したいと思う。なかなかできることではない。すばらしい。
アフリカに生まれなくてよかったわなんていってる場合なんかじゃない。断じて違う。女として、人として、決して許してはいけないことが、世の中にはあるのだと、ぐりは思う。
ちなみに『母たちの村』は一部でドキュメンタリーという紹介のされ方をしてますが、れっきとしたフィクションです。お間違えのないよーにー。
関連記事:ケニア、対話を通じて伝統を変革
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4794209207&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>