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男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ散歩②旧中山道板橋宿

2008-09-14 22:55:17 | まち歩き

ちよ散歩、今回は旧中山道板橋宿まで歩きます。

002 旧中山道の清水坂(板橋区志村)からスタートします。

日本橋から来ると、唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。

今は閑静な住宅街で、いかにも裏通りで車もほとんど通りません。

坂は、途中で大きく曲がっていてなかなかきついです。

清水坂を上ると、志村坂上交差点に出ます。

ここで旧道は国道17号線に吸収され、新道を歩くことになります。

010次の交差点に、志村一里塚があります。

日本橋から本郷森川宿・板橋平尾宿に続き三番目の一里塚です。

道を挟んで、左右に二基あります。

現存する一里塚は非常にまれで、都内では西ヶ原とこの志村だけだそうです。

014_3志村一里塚のとなりに、江戸時代のような商店がありました。

大きな籠竹ぼうきが、置いてあるのが見えます。

1604(慶長9年)江戸幕府は街道整備を命じ、日本橋を基点として一里を三十六丁と定め五街道の幅員を五間と決めました。

街道の両側には、松・杉を植えて一里ごとに一里塚を築きました。

しばらく、新道を進みます。

015すると、清水町交番の所で左に入る旧道が復活します。

歩いて行くと、環七通りがあり中山道陸橋の下をくぐります。

この辺りから、板橋宿の始まりです。

板橋宿は、江戸に向かって上宿・中宿・平尾宿の三宿で構成されていました。

1601(慶長6年)徳川家康は、東海道・中山道に伝馬の制を定めました。

これにより板橋は、中山道の第一宿となりました。

1635(寛永12年)参勤交代の制がしかれ、板橋宿はこれより繁昌していきました。

021_2まずは、上宿を歩いて行くと縁切榎があります。

嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れその下を通らなかったそうです。

今では、難病の縁切や悪縁を絶ち良縁を結ぶという信仰が広がっています。 

1861(文久元年)公武合体皇女和宮家茂に降嫁の時には、縁切榎を菰(こも)でおおい通過して板橋宿に泊まったそうです。

 

すぐに、石神井川に架かる板橋を渡ります。

027板橋という地名は、この板橋に由来すると言われています。

石神井川沿いのは、川にしだれかかって春にはそれは見事です。

板橋本町交番そばに、江戸名所図会「板橋驛」があります。

これを見ると、この上宿辺りも相当の賑わいがあったと思われます。

 

 

061板橋から見た、桜満開の石神井川です。

川にしだれかかり、見事なものです。

石神井川沿いには、桜並木が延々と続いています。

(画像2009.4.10更新)

 

031板橋からが、中宿です。

板橋宿の中心は、本陣飯田家・問屋場・旅籠が軒を並べる中宿でした。

スーパーのとなりに隠れるように、板橋宿本陣跡の碑が立っています。

あとは、ほんじん児童遊園の名前に面影が残っているだけです。

 

 

034中宿は、今は仲宿と書き活気のある商店街となっています。

途中、宿場時代境内が馬つなぎ場だった遍照寺を通ります。

本陣のほかに三宿にそれぞれ脇本陣があり、上宿板橋家・中宿飯田家・平尾宿豊田家の名主三家が勤めていました。

東京大仏のある乗蓮寺は、以前は仲宿のこの辺りにありました。

王子新道との交差点を過ぎ、しばらく歩きます。

042_2すると、観明寺があります。

その前に、門前にある田丸庵で昼食と休憩です。

先ほどの王子新道(板橋・王子間)は、1888(明治21年)完成です。

東京府内、最初の新設公道として完成しました。

板橋地方の東京府編入は1871(明治4年)廃藩置県の年でした。

046_2これは、 観明寺の赤門です。

もともと、加賀下屋敷内通用門だったそうです。

観明寺は、出世不動と呼ばれて親しまれています。

不動通りの名は、このお不動様に由来します。

 

044入口には1661(寛文元年)造立された庚申塔があり、本尊青面金剛像が刻まれたものとしては都内最古のものだそうです。

江戸時代に、庚申を祀る庚申講が結成され民間信仰のひとつとなりました。

その信者や講の人々によって、庚申塔や庚申塚が造立されました。

 

 

庚申信仰とは、「庚申(かのえさる)の日の夜に寝ると人の腹の中にいる三匹の虫が抜け出して昇天し寿命を司る天帝にその人の罪過を告げ命を奪われる」という災いから逃れるため庚申の夜には眠らないで過ごし庚申を祀る風習のことです。

049観明寺辺りから、平尾宿となります。

旧中山道は、17号線をななめに横切るように通っています。

日本橋から来ると、平尾追分があり川越街道と別れていました。

そばには東光寺があり、関ヶ原の戦いの西軍重鎮で加賀前田家にゆかりの深い宇喜多秀家の墓などがあります。

17号線を渡ると、また旧道が始まります。

054旧道が始まる横に平尾交番があります。

交番の名前に、平尾宿の面影が残っていました。

1764(明和元年)板橋宿は飯盛女150人をおくことが認められ、飯盛旅籠屋は平尾宿に集中するようになりました。

 

賑やかな商店街を、しばらく歩いて行きます。

056板橋駅西口の駅前広場に、出ます。

この辺りで板橋宿は終わりとなりますので、ここがゴールです。

埼京線の踏切を渡ると、昔の看板に赤羽線の文字が見えます。

埼京線の前には、池袋・赤羽間を往復する赤羽線が走っていました。

 

1883(明治16年)日本鉄道上野・熊谷間が開通すると、旅人はすべて汽車に奪われ板橋宿は急速に衰退していきました。

その2年後に山手線として赤羽・新宿経由・品川間が開通すると、同時に板橋駅も開設されました。

094板橋宿は上野・熊谷間の鉄道開通と、その翌年の火災によりしだいにさびれていきました。

その再起策として、旅籠業者は実態を遊郭に変え営業を再開しました。

この建物は、板橋遊郭の中で最大の規模を誇った新藤楼の玄関です。

郷土資料館に、移築されたものです。(画像2008.10.27更新)

踏切を渡り、右に曲がり旧道から離れます。

058板橋駅東口ロータリー前に、近藤勇新選組隊士供養塔があります。

正面には近藤勇、土方歳三之墓と刻まれ、左右側面には合計110名の隊士などの名前が刻まれています。

1868(明治元年)新選組局長近藤勇は、板橋刑場で斬首処刑されました。

首はに送られ、胴体は供養塔のあるこの場所に埋葬されました。

供養塔は、1876(明治9年)隊士永倉心八が発起人となり造立されました。

最後は観明寺までもどり、加賀公園に向かいます。

062この公園には、加賀藩下屋敷跡の碑があります。

この辺りは、加賀藩下屋敷があった所で加賀の地名が残っています。

加賀藩は、幕府より膨大な土地をここに拝領しました。

石神井川を包む敷地に庭園を設け、別邸として利用されました。

今では、この公園の小山にその面影がわずかに残るだけです。

065本日のおみやげは、不動通り商店街田ぐち菓子店の串だんごです。

 

 

 

-ちよ散歩②旧中山道板橋宿・おわり- 


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