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Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ旅7東京大仏

2015-01-12 23:49:00 | まち歩き

1年3か月ぶり、久々のちよです。

今回は、初詣を兼ねて東京大仏まで詣でます。

その前に、溜池公園に寄ります。(上)

背後に赤塚城の台地があり、この溜池は三方の谷からしみ出した水をたたえています。

ここから北側に開ける高島平は、明治以降は徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯でした。

その時、溜池の水は灌漑用水として利用されています。

すぐ後ろにある、赤塚城跡の小山に登って行きます。

城跡の頂上は、石碑があるだけで大きな広場になっています。(上)

赤塚城は室町時代の城跡で、1456(康正2)千葉実胤・自胤(さねたね・よりたね)兄弟が入城したと伝えられています。

その後、弟の自胤が勢力を拡大し武蔵千葉氏の基盤を築きました。

北条氏武蔵国に進出するとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる1590(天正18)まで勢力をふるっていました。

 城跡を下りて、東京大仏に向かいます。

東京大仏があるのは乗蓮寺で、正式名を「赤塚山慶学院乗蓮寺」と言います。(上)

もともと板橋仲宿にあったのですが、首都高建設と国道17号拡幅により1973(昭和48)この赤塚城二の丸跡に移転しました。

江戸時代天保大飢饉があり、当時板橋宿中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が餓死者500余人を寺内に埋葬し供養塔を建立したということです。

その供養塔は、今でも境内に建っています。

いよいよ、東京大仏とご対面です。

 

これが乗蓮寺の阿弥陀如来座像で、通称東京大仏です。(上)

この大仏は当山住職23世正誉隆道が、1977(昭和52)に完成させました。

座像で青銅製鋳造大仏では、奈良・鎌倉に続き全国3番目の高さを誇ります。

座高8.2m・蓮台2.3m・基盤2mで、合わせると12.5mになります。

ここで無病息災をお祈りして、おみくじを引きました。

ちなみに、そのおみくじは「大吉」で今年の幸先は上々です。

乗蓮寺から、下赤塚駅方面に向かいます。

1492(延徳4)赤塚城主千葉自胤が菩提寺と定め、寺領を寄進した松月院があります。(上)

1841(天保12)高島秋帆は、徳丸ヶ原(現在の高島平)で日本初の西洋式砲術調練を指揮しました。

その時、本陣を置いたのが松月院です。

境内には、その高島秋帆を顕彰する目的で建立された高島秋帆紀功碑があります。(上)

紀功碑は、1857(安政4)に鋳造された銅製大砲を碑心に火焔砲弾4発を配した特異な形体をしています。

地名高島平は、この高島秋帆の名が由来となっています。

 

今日のおみやげは、木箱に小さい大仏が入った根付です。(上)

ーちよ旅7東京大仏・おわりー

今年はいろんな所に出かけるつもりですので、ちよ旅をよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅2今戸神社

2013-02-10 01:10:53 | まち歩き

今年初めてのちよ、今回は初詣がてら今戸神社に参拝に行きます。

今戸神社は浅草近くの台東区今戸の地にあり、ちよ散歩でちょうど4年前に一度行っています。

「ちよ散歩⑪浅草界隈」を、ご覧ください。

浅草寺裏の言問通り言問橋に向かい、橋の手前を左に曲がり待乳山聖天・山谷掘公園を過ぎた所で左斜めに入る道を進むと今戸神社があります。

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今戸神社の拝殿(左上)と、そこで迎えてくれるオスメスの招き猫(右上)です。

今戸神社の御祭神三柱のうち二神は円満なる御夫婦の神様であり、子孫繁栄を与えると共に縁結びの神として崇敬されています。

そのせいか、参拝客には若い女性の方がいっぱいです。

1063(康平6年)源頼義・義家父子が奥州征伐の折、京都石清水八幡鎌倉鶴ヶ岡浅草今津村(現今戸)に勧請したのが始まりと言われています。

1937(昭和12年)今戸八幡と合祀され、今戸神社と改称されました。

この地今戸で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことを今戸焼といい、かつては江戸時代を代表する焼き物として繁栄していました。

現在では一軒のみが残り、伝統を伝える「招き猫」「口入れ狐」などが製作されています。

ここ今戸神社でも今戸焼の「招き猫」が授与されているのですが、いつ行っても「製作が間に合わず品切れとなっています」の張り紙が貼ってありました。

ところが、今回奇跡的に「招き猫」を手に入れることが出来ました。

神社の人に、「年間200コ位しか製作出来ないので、あなたは買えてラッキーですよ」と言われました。

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これがやっと手に入れた今戸焼の「招き猫」で、オスとメス猫が一体になっていて商売繁盛・招福に加えて良縁招き猫として授与されます。(上)

ちなみに、ブチがオスで白がメスで本物のも付いていてチリチリ鳴ります。

004左の画像は今戸焼のもうひとつの伝統を伝える「口入れ狐」で、浅草寺仲見世出店にある江戸玩具「助六」で手に入ります。

これは、「ちよ散歩⑪浅草界隈」の時のおみやげです。

 

 

 

 

-ちよ旅2今戸神社・おわり-

今年も、ちよ旅をよろしくお願いいたします。


ちよ散歩40池上本門寺

2012-04-26 17:26:34 | まち歩き

よんどころ無い事情で間が空きましたが、7か月ぶりのちよ散歩です。

今回は前回「ちよ散歩39旧東海道品川宿」の続きで、旧東海道から池上本門寺までを歩きます。

002 スタートは、前回のゴールでもある京急鮫洲駅からです。

鮫洲には運転免許試験場があり、駅前には今でも代書屋が軒を並べています。

自分も免許を取った時は、ここの試験場に来ました。

 

 

 

すぐに、旧東海道に出ます。

ここを左に行けば品川宿ですが、反対方向の右に進みます。

007鮫洲八幡神社に続く、右の小路に入ります。

江戸時代品川には品川浦御林浦の2つの漁村があり、御林浦は南品川北浜川の間の漁村でした。

この神社は、その旧御林町の総鎮守です。

 

 

 

旧道にもどり、しばらくして左に曲がり昔の御林浦を見に行きます。

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もちろん、今は埋め立てられ勝島運河となっています。

この運河周囲は、「しながわ花海道」として花畑の整備がなされています。(左上)

舟だまりと、手前は花畑に咲いている菜の花です。(中上)

「つり舟・屋形船の大山丸」の、舟着き場です。(右上)

019花海道が終わり、立会川河口に出ます。

ここに、土佐藩浜川砲台跡があります。

幕末ペリー来航の際、土佐藩は砲台を8門築きました。

砲台の礎石が発掘され、ここに置かれています。

 

 

021立会川沿いを旧道にもどると、浜川橋があります。

この橋は、別名「涙橋」と言われました。

刑場に引かれる罪人と親族らがこの橋で涙ながら別れた、と言うことからそう呼ばれたのです。

今では、大井競馬場帰りのオケラ街道の「涙橋」です。

 

 

ここで、旧道を少しもどり京急立会川駅に向かいます。

023途中の公園にあるのが、坂本龍馬のブロンズ像です。

若き龍馬は浜川砲台の警備に当たったのですが、その時通った道がまさに立会川駅前商店街の道だったそうです。

この若き龍馬像は、靴ではなく草履を履いています。

 

 

 

さて、涙橋までもどって旧道を進みます。

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国道に出る手前右にあるのが、1651(慶安4年)に開かれた鈴ヶ森刑場跡です。(左上)

江戸時代涙橋で親類らと別れた罪人は、ここで処刑されました。

処刑者の供養のため建てられた、ひげ題目を刻んだ石碑です。(中上)

八百屋お七が、ここで火あぶりの刑になったのは有名な話です。

首洗いの井戸が、残っていました。(右上)

ここで旧道は国道に吸収され、旧東海道とはお別れです。

 

039第1京浜(国道15号)を渡り、大森駅の方へ向かいます。

途中、桜新道に架かる桜色の歩道橋を渡ります。

画像は、その歩道橋の上から八重桜の並木を見たところです。 

 

 

 

京浜東北線に架かる歩道橋を渡り、線路の向こう側の池上通りに出ます。

ここで少し迷ったのですが、駅とは反対方向へ行きます。

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しばらく行くとあるのが、大森貝塚遺跡庭園です。(左上)

1877(明治10年)モース博士(アメリカ)が、大森貝塚を発見したことを記念して建てられた碑です。(中上)

実物の貝層を利用して、発見当時の貝塚を復元したブースです。(右上)

この遺跡の人たちが住んでいたのは、縄文後晩期で約3,000年前頃だそうです。

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池上通りを進み、JR大森駅を通り過ぎます。(左上)

途中、「手打蕎麦処ひらそば」もりせいろの昼飯を食べました。

大森郵便局を過ぎたところで右に入る道が、古道への入口です。(中上)

環七通りをくぐって行くと、「いにしへの東海道」の石碑があります。(右上)

この道は、時代により奥州街道・相州鎌倉街道・平間街道・池上往還などと呼ばれていた古道です。

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池上通りとほぼ平行する古道を、進みます。(左上)

しばらく行くと、呑川に架かる浄国橋を渡ります。

すると、萬屋酒店がありここで古道とお別れです。(右上)

ここを右に曲がって行くと、いよいよ池上本門寺です。

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まずは、総門があります。(左上)

本門寺内にある現存する古い建築物のひとつで、建造は元禄年間と言われています。

総門をくぐると、この此経難持坂(しきょうなんじざか)の階段を上がります。(中上)

「法華経」宝塔品の詩句96文字にちなんで、石段を96段としています。

また、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名としました。

階段を上がると、山門(仁王門)があります。(右上)

1977(昭和52年)に再建された、重層門です。

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山門をぬけると、めざしてきた池上本門寺大堂です。(左上)

この大堂で、おくればせながら初詣のお参り(無病息災と復興祈願)をしました。

この地は日蓮聖人の入滅された霊跡とされ、 日蓮聖人高弟の日朗聖人によって基礎が築かれました。

以来、東国における日蓮宗の中核寺院として発展しました。

ここで、東側にある五重塔に向かいます。(右上)

この五重塔は、徳川2代将軍秀忠乳母・岡部の局の発願により秀忠が1608(慶長13年)寄進建立したものです。

関東に残る、最古の五重塔だそうです。

073この後、本門寺をあとにして池上梅園に行ったのですが・・・。

残念ながら、開園時間が終了していました。

画像は、外から撮った紅梅・白梅です。 

 

 

 

第2京浜(国道1号)を北上し 、ゴールの都営地下鉄西馬込駅に着きました。

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今日のおみやげは、本門寺で買った「ひょうたん形のお守り」です。(上)

-ちよ散歩40池上本門寺・おわり-

 

追記                             

当ブログちよ散歩は、地井武男氏のちい散歩を模して「まち歩き」を続けてきました。

ちい散歩がテレビから去ってしまった今、ちよ散歩も今回の40回目をもって終了させていただきます。

これからは、「まち歩き」を含むもっと広い意味での「旅行記」を載せていくつもりです。

タイトルはまだ決まっていませんが、これからも当ブログをよろしくお願いいたします。

 

 

 

 


ちよ散歩39旧東海道品川宿

2011-09-21 00:58:54 | まち歩き

ちよ散歩、今回は旧東海道最初の宿場である品川宿を歩きます。

JR・京浜急行品川駅から、スタートです。

003線路沿いを、南に下ります。

下には新幹線などの線路が通る、この八ツ山橋を渡ります。

八ツ山橋を渡った所が、旧東海道品川宿の入口です。

品川宿は、北から「歩行新宿(かちしんしゅく)」「北品川宿」「南品川宿」の3宿から成り立っていました。

 

 

 

 

京浜急行の踏切を渡って、いよいよ旧東海道へ入って行きます。

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まずあるのが、土蔵相模跡です。

建物は残ってなく、石の道しるべ(左上)と土蔵相模跡の看板(右上)があるだけです。

旅籠相模屋は外壁がなまこ壁でしたので、土蔵相模と呼ばれていました。

幕末の1862(文久2年)攘夷派高杉晋作らが、イギリス公使館の焼き打ち事件を起こしました。

その際、密議をこらしたのがこの土蔵相模でした。

その中には、明治維新をになった若い時の伊藤博文井上馨もいました。

旧道を左に曲がり八ツ山通りを渡って、江戸時代には海が広がっていた品川浦を見に行きます。

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北品川橋から見た、品川浦船だまりです。(左上)

釣り舟屋形船が繋がれていますが、周りの風景は高層ビルやマンションが立ち並び昔とは大きく変わってしまったのでしょう。

八ツ山通りを進んだ品川浦公園の一角にある、鯨塚です。(中上)

江戸時代、品川沖に迷い込み捕らえられた鯨の供養碑です。

江戸中の評判となり、ついには当時の将軍徳川家斉も上覧したそうです。

さらに奥へ行くと、台場小学校の所に御殿山下台場跡があります。(右上)

幕末に江戸防衛のため築かれた品川台場(砲台)の跡地で、発見された石垣を使って記念碑が建てられました。

上に建つ灯台は、明治になって第2台場に造られた品川灯台を模したものです。

現存する台場は第3第6のふたつで、くわしくは「ちよ散歩⑭お台場」を見てください。

017ここで旧道にもどり、善福寺に向かいます。

この寺の本堂壁面には、漆喰鏝絵(しっくいこてえ)の龍が残されていると聞きます。

左官の名工・伊豆の長八作だそうですが・・・。

残念ながら、本堂改装中で見られませんでした。

 

 

気を取り直して、旧道を進みます。

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品川宿の寺の中で、唯一旧道より海側に建つ一心寺があります。(左上)

さらに歩いて行くと、本陣跡の広い公園があります。

明治天皇が休息したため、聖蹟公園と名がつきました。

画像は、公園内にある御聖蹟の碑です。(右上)

ここで、右に曲がり北馬場通りから第1京浜を渡ります。

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第1京浜に面した急な石段を上がった所にあるのが、品川神社です。(左上)

階段の途中、左手に富士講の人々が築いた富士塚があります。(中上)

その品川富士、山頂からの絶景です。(右上)

昔は、間近に海が広がっていたのでしょう。

富士信仰は根深く、これまでの街道散歩で至る所に富士塚を見つけました。

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北品川宿の鎮守でもある、品川神社の本殿です。(左上)

裏には板垣退助の墓とともに、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉の石碑があります。(右上)

これは自由民権運動をしていた板垣が、刺客に襲われた時に叫んだ有名な言葉です。

山手通りを渡り、目黒川沿いの小道を旧道にもどります。

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途中、左手に南品川宿の鎮守である荏原神社があります。(左上)

品川宿は、目黒川を境に北・南品川宿に分けられますが。

ではなぜ、南品川宿鎮守の荏原神社が北品川宿側にあるのでしょうか。

素朴な疑問ですが、1928(昭和3年)まで目黒川はこの神社の北を流れていたそうです。

昔は、南品川宿側にちゃんと建っていたのです。

神社前の目黒川に架かる鎮守橋と、鎮守の森です。(右上)

042旧道にもどり、北・南品川宿に分ける品川橋を渡ります。

ちなみに、京浜急行も以前は北馬場・南馬場ふたつの駅に分かれていました。

高架工事の際統一されて、現在は新馬場駅ひとつとなっています。

 

 

 

これより、南品川宿に入って行きます。

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目黒川 沿いを、第1京浜方向へ歩いて海徳寺に寄ります。

ここには、珍しいバットを持ったホームラン地蔵がいます。(左上)

旧道にもどると、街道松の広場があります。

この松は、東海道29番目の宿場浜松より寄贈されたものです。(右上)

品川宿には、このほか各地の宿場から贈られた松が植えられています。

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しばらく旧道を歩いて行くと、品川寺(ほんせんじ)があります。(左上)

その門前にあるのが、江戸六地蔵第1番目の銅造地蔵菩薩坐像です。(中上)

江戸時代街道の安全を願い、各街道の入口に造立されたのが江戸六地蔵です。

旧中山道は、とげぬき地蔵そばの巣鴨真性寺にあり第3番目です。

品川寺には、洋行帰りの鐘と呼ばれる梵鐘があります。(右上)

この鐘は幕末のパリ万博に出品後行方不明となっていましたが、ジュネーヴ市で保管されているのがわかり無事に帰って来ました。

この事が縁で、品川宿とジュネーヴ市は友好関係に発展しました。

さて、この辺りで南品川宿は終わりとなります。

旧道を離れ、青物横丁駅前のジュネーヴ平和通りと命名された道を上がって行きます。

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この坂は、上に江戸時代仙台藩伊達家の下屋敷があったことから仙台坂と呼ばれています。(左上)

伊達家下屋敷跡には、元祖仙臺味噌醸造所が建っています。(中上)

仙臺味噌はここで買えるのですが、残念ながら休みでした。

さらにこのタブの木はかつて下屋敷内にあったもので、山本周五郎「樅の木は残った」のモデルとされています。(右上)

この伊達下屋敷の南側には、土佐藩も下屋敷を構えていました。

現在は大井公園となっていて、その一角に第15代土佐藩主山内容堂の墓があるのですが・・・。

残念ながら、震災以来立入禁止となっていました。

大井公園から第1京浜に架かる歩道橋を渡ると、ゴールの京急鮫洲駅です。

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今日のおみやげは、旧東海道南品川宿にある和菓子鷲子(とりのこ)の串だんごです。(上)

-ちよ散歩39旧東海道品川宿・おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ散歩38木根川橋

2011-08-08 00:04:08 | まち歩き

ちよ散歩、今回はさだまさしの曲にもある木根川橋まで歩きます。

JR総武線錦糸町駅北口から、スタートです。

005まずは、錦糸公園の裏にあるはずの精工舎に寄りますが・・・。

残念ながら精工舎は2002(平成14年)解体され、巨大ショッピングモール「olinas」に変わっていました。                                                                  

余談になりますが、母は戦時中出稼ぎに来てここにあった精工舎で働いていました。

あの3月10日の東京大空襲に遭遇し、命からがらいなかに逃げ帰ったと聞いています。

 

 

006蔵前通りを、亀戸天神に向かいます。

蔵前通りに架かる天神橋から、横十間川を見た画像です。

横十間川は、やがて北十間川に流れスカイツリーの真下を通り隅田川に流れ込みます。                                      

 

 

 

天神橋を渡ると、すぐに亀戸天神です。

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菅原道真公を祀る亀戸天神は、1662(寛文2年)創建です。

江戸時代から「学問の神様」として、信仰を集めています。

鳥居(左上)と、男橋と言われる最初にある太鼓橋(右上)です。

本殿手前にあるもうひとつの太鼓橋を、女橋と言います。

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毎年1月に「うそ替え神事」が行われ、檜の木彫りの鷽(うそ)が授与されます。

新しい鷽に替えると、「凶がうそに替わり一年の吉を招く」とされています。

また、の名所としても知られています。

本殿(左上)と、紋入りの賽銭箱(右上)です。

亀戸天神から北に向かい、浅草通りに出て東京スカイツリーを見に行きます。

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浅草通りの歩道橋の上から撮った、東京スカイツリーです。(左上・中上)

ここからのスカイツリーが、ベストビューです。

北十間川に架かる京成橋から撮ったスカイツリーですが、こちらは建設中の巨大ビルが邪魔をします。(右上)

京成橋から京成押上線とほぼ平行した道を、荒川に向かいます。

押上・曳舟を抜け、明治通りを渡って真っすぐ進みます。

028荒川に出たところにあるのが、木根川橋です。

荒川と中川は地図で見ると河口からずっと平行していますが、木根川橋手前で中川が急に東に蛇行して荒川と離れて行きます。

木根川橋が架かっているのは荒川と、中川から分かれた綾瀬川です。

 

 

 

昔、さだまさしの「随想録」というライヴ・アルバムを持っていました。

当時はカセットの2枚組で、その中で「木根川橋」の曲が歌われています。(そのカセット所在不明です。)

「木根川橋」は中学の同窓会で恩師に思い出を語るという曲で、恩師に話かけるセリフから始まります。

「♪~木根川橋から 水道路抜けた 白髭神社の縁日は~」が、歌の始まりです。

「随想録」はライヴ録音ですのでトークがおもしろく、曲の前にさだが「木根川橋も木造だったのに鉄こんキンクリートに変わっちまった」とボケて嘆いています。

白髭神社に行く前に、綾瀬川沿いを下流に進みます。

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3番の歌詞に出てくる、木根川薬師があります。

「♪~木根川薬師の 植木市の日には~」が、3番の始まりです。

昔の雰囲気があるのは、この建物ぐらいです。(左上)

この仁王門に立つ金剛力士像は修復され、1995(平成7年)70余年ぶりに安置されたものです。(右上)

この木根川薬師のとなりにあるのが、さだの出身校中川中学です。

さだまさしは長崎の出身ですが、バイオリン修行のため中学から上京していました。

さて、水道路までもどって白髭神社に向かいます。

途中、そば屋で本日の定食「黒豚とんかつ」の昼飯です。

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六叉を左斜めに進むと、白髭神社があります。(上)

江戸時代には、「葛西の客人(まらうど)大権現」と称され江戸名所のひとつとして参拝者が絶えなかったそうです。

ここのパンフレットには、「さだまさし氏の木根川橋に縁日の様子が歌われています」と書かれています。

さて、六叉にもどり蛇行した中川の先を見に行きます。

地図で見る中川の蛇行がすさまじく、この荒川はもともと放水路で中川を分断しています。

ですから、荒川より都心寄りにも旧中川の蛇行のあとが見られます。

立石・青砥を抜けて環七を渡って行くと、中川に架かる高砂橋に着きます。

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高砂橋の上から、下流へ向かって撮った画像です。(左上)

上流からきた中川はこの高砂橋を越えた所で左右に分かれ、左に行くのが新中川で右に行くのが本流です。

新中川は浸水災害防止のため、中川の水を旧江戸川にまで流すため開削された放水路です。

新中川沿いを進み、高砂諏訪橋から先ほどの高砂橋を撮った画像です。(右上)

高砂橋を越えた本流は、画像左側へ大きく蛇行して行きます。

最後に、本流と新中川分岐点の先端にある新中川通水記念公園に寄ります。(左上画像の真ん中あたり)

050ここには、この「中川放水路通水記念碑」があります。

碑の裏面には、大工事の末1963(昭和38年)に中川放水路が完成したとあります。

この蛇行した中川を見ると、浸水災害の大きさが想像できます。

帰りは、環七に出て青砥橋を渡り京成青砥駅がゴールです。

 

 

今日のおみやげは、忘れました。

-ちよ散歩38木根川橋・おわり-