はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

埋められた大船観音(4)

2008年07月15日 18時52分29秒 | たんたか雑記
(続き)

 昭和14年から埋め立ては始められた。
 初めは順調だったが、昭和16年、太平洋戦争が勃発すると、そんな悠長なことはやっていられなくなった。
 ただちに爆破すべし、という軍の強行派の意見もあったが、昭和17年のミッドウェー海戦敗北以来、逆にそんな声も遠のいた。観音像なんぞにかかずらわっている余裕がなくなったのだろう。
 それでも埋め立ては細々と続けられたが、人手も機材も戦争にとられ、像の胸のあたりまで埋めたところで中止せざるを得なくなった。
「残念至極」と『大船観音史』の中で三橋氏は嘆息するが、本音はどうだったか。
 昭和19年、三橋太郎治氏は死去。
 大船観音像も、胸から上だけをさらしたまま翌20年、終戦を迎えた。

 その後、観音像は忘れるともなく忘れ去られていたが、昭和30年代に入って「大船観音の復活を!」という声があがるようになってきた。
 太郎治氏亡き後の三橋家は、農地改革のあおりを食らって没落していたが、有志によって「財団法人大船観音協会」が設立され、観音像に関するすべての権利が三橋家から譲渡された(ただし、地所権は三橋家のまま)。
 協会は寄付を募り、大船観音の修繕、塗装に着手した。しかし痛みが激しく、ほとんど改修工事に近かったという。
 その際、埋められた観音像の全身を掘り起こす案も出された。
 しかし、埋め立てから15年以上経って土砂も安定し、樹木すら生えている今となってはそれも難しく、また増加してきた近隣家屋への影響や残土処理の問題もあり、この案は見送られた。
 そして昭和35年、白亜に化粧された全長25mの観音胸像が完成、公開された。今ある大船観音である。

 真っ白に輝き、夜はライトアップされる胸までの観音像を、三橋太郎治氏が見たら、どんな感想を抱くだろうか。

  世を救う 慈悲に棹さす 観世音 深き誓に 運ぶ大船
                          (大船観音寺)

(了)

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 この懐かしい冊子を読み返して少し後、所用で大船駅を通った。
 小山の上にある観音像は相変わらずだったが、高い建物が増え、電車の窓からは少々見づらくなっていた。

   烈風の合間を縫って蒼白の観音像はわずかに歩む

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 以上、全部[真っ赤な嘘]です。




 ウィキペディア(Wikipedia)「大船観音」

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