はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

橙黄(葛原妙子料理歌集)

2009年09月26日 16時32分09秒 | 葛原妙子料理歌集

「橙黄」


乾燥野菜木屑のごとくちりぼひぬ嚴かならむ冬に入るとて

徑五寸の胡桃がき樹液ふきたふれしときに動きし嗜虐よ

炭、栗、鹽、蟻のごとくに運びきてわが體力をひそかに養ふ

南瓜の種煎りて與ふる夜長なりさびしきいくさのことは銘せよ

室(むろ)の戸をわづかにずらし温(うん)氣あがる馬鈴薯(いも)よたしかに生きてあるなり

かけ梯子下りてしばらく眺めをり幾千の藷の呼吸(いき)をするかほ

凍みキャベツころがる土間に踏み入りしこの山男まなこするどき

たまさかにわが手に入れしけだものの肉割きて焙るその赤き肉を

わがまぶたうるみてあらめこの男の子十二の食のすでにたくまし

わが少年水汲みにゆく谷の隅樺(かんば)は骨(こつ)のごとくに立てり

凍みし菜に熱湯(にえゆ)をかけるむざんさもゆるされてあり生きを欲る日は

菜の花の染(し)むがに黄なる色を戀ふ飲食(おんじき)もとむる切なさに似て

寒冷にこころひしがれ坐るとき賜ひし茨(うばら)の蜂蜜(みつ)の瀞(とろ)みよ

三月の凍みややゆるむ泥濘に鍋釜負ひて山を下れる
(獻納)

あけびの蔓手探り點(つ)くる竈(かま)のうち直(すぐ)立つ尺の焔鮮し

齒朶の芽の足(あ)うらにぬくむ沼(ぬ)の邊(へ)ゆき身ぬちに兆すけものの飢ゑあり

ばぜりといふはかなき芹を摘める沼(ぬ)よガラスのごとく早春(はる)はひかりて

室(むろ)明けて萎(しな)びし馬鈴薯(いも)を陽に曝す幾月もたさむ打算をもちて

茶の葉はりはりと噛みてビタミンの飢ゑを充たすと思ひし日ありや

雨ふれば硫氣を含む水ながら愛(を)しみて飲めりひと息にして

山麓の痩せ地はトマトも酸漿(ほほづき)も色づかぬまま秋に入るべし

杉菜さへ食さむと勢(きほ)ひし季(とき)過ぎぬ硬ばりてゆく山草の莖

敗戰が實感となるにはまだ遠し先は考へむ飲食(おんじき)のこと

訪ねきし農家のひとら皆ねむるみのり遲き南瓜の黄なる花群(むれ)

時計一つ米と替へたり粉ぬか臭き八貫の米が肩に喰ひ入る

干魚商人(ひをあきんど)桶職人など次々に山越えて入るの秋に

凛々(りり)として赤花(ばな)ひらく豆のあり輕石混りの山の畑の背

糧(かて)負ひて三里の道を歩むときまがなしく襲ふこころの餓ゑは

追分を西に越ゆれば實りひろきあたたかき田のたむろせるみゆ

わが棲める礫土に穫(と)れぬさつまいも香ぐはしみ食ふ知れる農家に

早成りの小豆二升を包み呉れし日灼け額(ぬか)をわするべからず

一晩に何畝の甘藷(いも)を流せりと燈(とう)なき車内にひしめく人ら

萎(しわ)びたる木の實も地(つち)に落つべしと一夜の霜の山禽(どり)のこゑ

禁斷の木の實をもぎしをとめありしらしら神の世の記憶にて

夜の葡萄唇(くち)にふれつつ思ふことおほかたは世に秘すべくあるらし

秋の虻うなりかすかにをさめたり季(とき)すぎしぶだうのき房の上

ソ聯参戰の二日ののちに夫が呉れしスコポラミン10C.・C掌にあり

致死量の目盛りを示し夫の瞳瞋(いか)りのごとくはげしかりにし

アムプルは石に砕けてやがて乾(ひ)む冬近む草の冽(きよ)き日のなか

十月の地軸しづかに枝撓(たわ)む露の柘榴の實を牽きてあり

秋の蜂柘榴をめぐり鋼鐵のひを含むけさの空なり

禮(ゐや)をつくし相語らばや放膽(ほうたん)にはぜし柘榴は陶(すえ)に置かれつ

ひややかにざくろの傳ふる透徹を掌(たな)そこに惜しめこころゆくまで

とり落とさば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みにし耐ふ

電車淡く燈(とう)を點して高架ゆくわれも饑(ひも)じきそのひとりにて

アムプルをけふもしづかに截(き)る夫よ干反る落葉の吹き寄りし窓

敗戰のけだるき記憶に繋がらむりんごの歌をうたふラヂオよ

吹きとほしに燒たる隣接(となり)の町にはやバラック建てしは飲食店のたぐひ

亂醉(らんすい)のこゑしづまりし低き屋根に月のぼるなり光するどく

南氷洋の鯨を食(を)しし口臭のしみじみと顯(た)ちしぐれする夜をあり

わが脾胃よ饑(ひも)じくなりぬ智惠をあさるさびしき書(ふみ)を累々と積み

熱ばみしたなうらに觸れしひと房のぶだうをむさぼりやがてふかぶかとねむる

彫(ほ)り淺き街に沁み入るしぐれ明(あか)ししらしらとして貝をひさげり

昆蟲の蜜吸ふごとくをとめたち更けし茶房にストローを吸ふ

すがれ菊しくしくふ燈の消えし廚の隅にもの煮るゆふべ

早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ

すの立ちし津輕の林檎齒に立てて智惠なき顔もときに曝さむ

會直前にビタミンを打つ老女史の顔を凝視(みつ)めをり息ふかく呑みて
(ある發會式に)

そらまめの花のふふめる街(まち)畑に口笛を吹くか十四のをとめ

「道標」の女主人公(ヒロイン)を嫉(そね)みひと日あり黄の忍冬(すひかづら)強烈にふ

夏柑の濃きひと群(むら)に陽のあたるしづかにするどき丘のなだりよ

牛乳と甘藍を積みしトラックが今動き出すエンジンの音

肝を病みていませる父をむづかしと一言ぽつりと夫が云ひし朝餉

(亡父遺愛の軸、横山大観氏作「暮色」に寄す)
き牛暮色のなかにあるいのちもの食みてをりあはあはとして

アカシヤの蜂蜜(みつ)を膚(はだへ)に塗りて寢る小さきおごりはこの山にあり

盛夏十五度けざむき朝を飲食(おんじき)のすすむと云はばはばかりあらめ

ガラス戸にフラッシュなせる稻づまのなかなる林檎と我れの片顔(へんがん)

樺の實はく垂れをり忘るべきことの一つはより鮮明に

毒ぜりの花撒形に霧の夜のダムを落ちゆく水の音あり

野葡萄に山の薄ら陽こぼれきぬ云ふべきことのいまは少し

熟れ切らぬ無花果の實のあまた落ち泥土は乾く惡氣を吐きて

きぶだう、きぶだうと重ね賣る濁水に洗はれし町角にして

水漬(づ)きたる甘藷(いも)を賣りいそぐ裸燈あり大き蛾ひとつ羽搏ききたる

カルキの香けさしるくたつ秋の水に一房の葡萄わがしづめたり

ヘルクレスの肉(しし)の隆起もつ林檎の肩燈に恍惚(みと)れありしばしのわれが

陶(すゑ)に落つるひとつ林檎のき影セザンヌ畫きし林檎にはあらで

卵黄を白飯(いひ)に落すならはしのまた復(か)へりきて冽き秋日(しうじつ)

一本の煙草に火を點けさて云はむことのしだいをひそかに整理す

みかんてのひらに乗せて去りし子よこの部屋の空気の重壓(じゅうあつ)は知るらし

みかん山みかん背負ひて人去りぬきるぎしを洗ふ波の音きこゆ

わが脈搏しづかにうてり柑橘をもぎをへし丘の斜陽あるなか

航空路といつかなりゐつ背(せな)丸く入海を抱くこの蜜柑山

酸性土壌きらひて育たぬ冬菜のむれひとたむろみゆわが廚より

ひとひらの冬梨(とうり)をむさぼる四十度の意識に兆し不敵の恣意あり

去年(こぞ)採りし銀杏(ぎんなん)の箱をとりいだすかそかに春と名のつかむ宵

をとめが煮る牛乳(ちち)の沸(たぎ)りの泡こまかゼラニュームはあかき蕾をほぐす

キューバの砂糖小瓶(をがめ)に充つるさきはひをいはばいからむ人もあるべし

いくひらかの赤い蕪(ビート)をサラダに置きわが忘れゐし誕生日を祝ふ

燒林檎の酸き香ただよふ地下食堂授乳を了へてやさしき母ら

原色の濃き雛菓子を燈にひさぐあはあはと遂にかなしきごとし

寸ばかりの蓬(よもぎ)を摘むとペンだこのぶざまに高くなりしおゆびが

菜畑のあひにトロッコを押してゆくをみなよ赤きししむらを持てり

春草に體(たい)を崩さずしばし坐る土壌の香なきわが肉體が

酵母のごとく膨るる雲あり原始なる土の露(あら)はにある丘の上

斑病に罹りし藷を少し腐らせゆとりありげのこの春のくりや

紡錘形のレモンが二つポケットにあり手觸(たふ)りつつゆくことのたのしさ

鮮黄のレモンを一つ皿に置きあさひとときの完き孤りよ

一顆のレモン滴るを受くる玻璃の皿てのひらにあるは薄ら氷(ひ)に似る

柑橘の鋭き香ひびける早春の稀薄の空気いのちを磨(と)がしむ

ことなかりし春日よ長く暮れ落ちず鮮しき蔬菜(そさい)は市(いち)にむらがれり

舅姑の世になかりし亂雜食事あとの皿を舐(ね)ぶれる猫をゆるして

夏柑の粗き膚(はだへ)に爪立つる刹那を兆すふたたびのいかりよ

怒りに乘ずるわが決斷のその素迅さ柑橘の黄のむらむらと濃し

ビタミンの足らざる肉(しし)に針を打つ葉翳(かげ)りつつ水の如き窓あり

わが好む魚を燒かせてゐるひ病めば常凡(じやうぼん)のやさしきうからら

貪婪にいのち惜しみてわがむさぼるあかきトマトと黄なる牛酪(ぎゅうらく)

贅肉のややつきそめし頤(おとがい)を撫でゐる時もみじかくはあらず

柔和なるわれの咫尺(ししゃく)の視野越えて柘榴燃えたつきのふもけふも

七月の空にいのち刻むもの寂々としてざくろは緋なる

緋のざくろ眞盛りとなりし一夜の闇こころ動悸うち思ふことあり

嬬戀農場の甘藍のトラックが峠越すしみみに露に濡れたる車輪

群馬よりもろこしを負ひてきし女ひとくさり語る子の多きこと

溶岩礫(ラババラス)打ちつつ落つるき胡桃火(ひ)山に近きわが夜の家

銅の小さき時計が時刻む怖れよ胡桃は濃き闇に垂れ



(原本 葛原妙子全歌集(二〇〇二年 砂子屋書房))

「葛原妙子 料理歌集」について(決まり事など)

2009年09月26日 16時30分00秒 | 葛原妙子料理歌集
(1)収集の基準について

ア)基本的に、物を食べる、飲む、あるいはそれに準ずる行為が歌に詠まれていた場合、収集の対象とします。
イ)飲食でなくとも、飲食物等が歌の一部に詠み込まれていた場合も対象とします。
ウ)その他、飲食に関わりがないと思われる歌でも、食欲を喚起させそうな歌は対象にします。
エ)収集はすべて中村が行い、その責任もすべて中村にあります。

(2)原典は『葛原妙子全歌集』全1巻(砂子屋書房 2002年配本)によります。
(3)歌は、それぞれの歌集に記された順とします。
(4)漢字、仮名づかいは、できる限り原典に沿います。
(5)コンピューター内の漢字表に無い場合は新字体で記します。対応する新字体が無い場合は、カタカナで記した後、カッコ書きでその旨をお断りします。
(6)読み難い字には、その後にカッコ書きでルビを記します。ルビは原典どおりとします。

葛原妙子料理歌集

2009年09月26日 16時27分51秒 | 葛原妙子料理歌集
 「斎藤茂吉料理歌集」、歌集『暁光』まで終わり、道のりの半分まで来たところで、ちょっとお休みします。
 さすが大茂吉、膨大な数の歌にちょっと息切れしてきました。作業が惰性になりつつあるので、ここらで目先を変えてみようかと思います。
 充分にリフレッシュしたらまた続きを行いますので、ご理解ください。

 さて、どこに目先を変えるのか?
 ちょうど奮発して『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房)を購入したところなので、これにチャレンジしてみたいと思います。
 おお、いいのか。ほんとにリフレッシュになるのか。

 写生主義の重鎮である茂吉と、「幻視の女王」とまで言われた妙子とでは、傾向が180度違うように見えます。
 しかしこの二人、現実を体内に取り込み、咀嚼して、自分独自の世界として提示する過程が、なんとなく似ているのではないかと、前から感じておりました。

 それに、葛原妙子も食べ物に関する歌が多いんですよね。
有名な

  飯食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し

もそうですし、

  うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さははかりがたしも

  暴王ネロ石榴を食ひて死にたりと異説のあらば美しきかな

なんて歌もあります。
 その他、全集をパラパラめくるだけで、茂吉に勝るとも劣らない、絢爛たる料理の世界が展開されます。

 そういった意味では、リフレッシュどころかさらなる混迷の渦に巻かれてゆく可能性もありますが。
 まあ、しばらくは斎藤茂吉と交互に(サウナと水風呂のように)、ぼちぼちと更新してゆきますので、気長におつきあいをお願いします。
 では、はじまり始まり。

視点の固定化(3)

2009年09月23日 07時59分42秒 | たんたか雑記
 もちろん、短歌の解釈に違いは付きもの、その食い違いを楽しむのも短歌の妙のひとつ、ということは承知している。
 しかし、こうまですっぱりと違う解釈が並び立つと、さすがに唖然としてしまう。
 180度違う、なんてもんじゃない。そもそもの立脚点が違うのだ。

 思うに、これが「視点の固定化」なのだろう。
 短歌に限らず、様々な視点から見るのは鑑賞の基本だが、立脚点があまりにも離れていたため、思いもよらなかったらしい。
 ひとつには、これらの歌の(見せかけの)分かりやすさにも依るだろう。


  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


 両歌とも、難解な言葉も捻ったテクニックも使わずに歌われているので、すらっと読んだだけで「あ、分かった」となってしまったようだ。

 不覚。

 しかしまあ、負け惜しみを言わせてもらえれば、こんな思わぬ角度からの読みを「ぽん」と目の前に出されると、予期せぬラッキーに出会ったような気がする。
 ちょうど、珍しい野球カードが偶然に手に入ったときのように。

視点の固定化(2)

2009年09月23日 07時58分31秒 | たんたか雑記
 そういえば、ともう一つ思い出したが、『本の雑誌 平成21年10月号』で古屋美登里が寺山修司の歌について書いていた。
 正確には、古屋氏が受け持っている講義で現代短歌を学生に読ませ、その反応を書いたのだが、寺山の


   海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


について学生が
「この歌の意味が最初はピンとこなかったが、両手で海を表していることを知って、急にイメージが湧いた、寺山に興味を抱いた」
と反応してくれて嬉しかった、とあるのを読んで「えっ!?」と思った。

 僕は、これを「通せんぼ」の歌だと思っていたのだ。
 海を初めて見に行こうとする少女の前に両手を広げ、
「へっへっへ、ここは通さないよ」
ってこれじゃちょっと危ない人だが、そんなカラッとした意地悪を描いた歌なのだと、何の疑問も無しに。
 他の解釈が存在するなんて、思っても見なかった。

視点の固定化(1)

2009年09月23日 07時56分44秒 | たんたか雑記
 『近代短歌論争史 上下巻』(篠弘著 角川書店刊)は、明治中期から昭和30年代までの歌壇に起こった論争を詳細に検証した面白本だ。
 本自体についてもいろいろ語りたいが、それはともかくその中に「おや?」と思う論争が載っていた。
 歌人斎藤茂吉と文学者谷鼎の間で繰り広げられた「花紅葉論争」だ。

 詳細は本書を読んでほしいが、要するに新古今和歌集にある藤原定家の


  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ


の解釈が、二人の間で分かれたのだ。

 茂吉が
「花も紅葉も無く、寂しい風景だ」
と読んだのに対し、谷は
「こんなに味のある風景には、花も紅葉も不要だ」
と解釈した。
 様々な用例や資料を用いて激論が交わされたが、最終的には谷の優勢で幕を閉じる。

 僕が「おや?」と思ったのはこの結末の部分で、僕は当然茂吉が勝つと思っていたのだ。と言うより、それ以外の読み方があるなんて思っても見なかった。

「短歌研究新人賞」授賞式

2009年09月19日 10時33分29秒 | たんたか雑記
 やすたけまりさん(おとくにすぎなさん)のご厚意で、「第52回短歌研究新人賞授賞式」に出席してきました。

 「(前に進むというより)その場でぴょんぴょん跳ね続ける感じで歌ってきました。大きな縄跳びをしているようですが、最近、その縄が太くなってきたように思います。これからもやることは変わらないけれど、縄に引っかからないように、縄の輪から外れないように、ぴょんぴょん跳び続けたいと思います」

 明るいイントネーションで語られるすぎなさんの受賞の言葉に、こちらもさらにやる気をいただきました。

 すぎなさんとも初対面(全然そんな感じはしませんでしたが)でしたが、他にもブログでのみのお付き合いだった方々とお顔を合わせ
「おお、あなたが」「あなたが」
といった調子で初対面の挨拶をしたと言うか旧交を温めたと言うか。

 その後に立食形式の懇親会があったのですが、これがまたすごかった。
 岡井隆、馬場あき子、佐々木幸綱、石川不二子といった、歌集や雑誌でしかお目にかかったことのないような先生方が、どっちを向いてもうようよいらっしゃるのです。
 笹公人さんに名刺をいただき、永田和宏さんに「歌は続けることが肝心だよ」とアドバイスを受け、栗木京子さんの横で料理を突っつき、穂村弘さんといっしょに写真を撮り…。
 なんか、くらくらしました。
 二次会では、穂村さんと東直子さんが並んで座るその前で、ビールを飲んでる自分がいたり。
 緊張しましたよそりゃ。このお二人の著書『短歌はプロに訊け!』(本の雑誌社)を読んで、僕は短歌を始めたんだから。

 普段出不精の僕としては、まさに怒濤のような数時間でした。
 うん、でも楽しかったです。
 いろんな方にいろいろなお話を伺い、考えさせられることも多かった。
 こんな機会を与えてくださったすぎなさん、どうもありがとうございます。
 そして改めまして、受賞おめでとうございます。
 またお会いできる日を楽しみにしています。
 今日お会いできた、たくさんの方々も、もちろん。